ブログ 「ごまめの歯軋り」

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米国金融資本の健全化なるか はじめて金融工学に是正要求

2008年09月28日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月28日8時0分
米大統領両候補、金融規制の強化の方針 利益優先を批判
【ワシントン=西崎香】大統領候補のマケイン(共和党)、オバマ(民主党)の両上院議員による26日の討論会で、金融業界の利益優先主義を両候補がそろって批判し、規制強化の方針を打ち出した。経済危機を招いた「ウォール街の貪欲(どんよく)」の尻ぬぐいで、政府が巨額な金融救済に追い込まれたことへの強い反感だ。
 同氏は危機が深刻化した今月から、監督が不十分だった証券取引委員会(SEC)などを厳しく批判。「市場をカジノに転じさせた。私が大統領ならSEC委員長をくびにする」と話していた。SECなど五つの監督当局を機能ごとに再編し、金融システム危機への対応力を増す案を検討中といわれる。
民主党のオバマ候補も「(これまでの政策が)尊重してきたのはウォール街であって、庶民社会ではなかった」と批判。「21世紀型の監督システムを構築してこなかったのは、『規制はつねに悪いもの』という考え方が影響している」と、監督や監視強化の考えを示した。

モノラインと証券化の行方
証券化の歴史は、実は不良債権処理を進めるために大変苦労したから発展した技法である。証券に魅力を持たせるため、標準化、均質化、格付け付与による高品質化これらのすべては「臆病な投資家の資金を呼び込むための打ち出の小槌」の役割を果たした。証券化の長所は広く万人に分割されて保有され、転売によって流通するので市場での監視が強い事で、反対に欠点は証券の保有者が借り手の事情をよく理解していない事である。そのため思惑で売買され、証券価格が行き過ぎた値動きになりやすいことである。今回サブプライムローンのように実情以上に値下がりして壊滅することである。その下落の大ききな要因の一つが「レバレッジ」である。すべてがうまく回転していれば、薄い金利差でも巨大な利益を生むことであった。しかし損失も増幅されるのである。もし10%損失が出れば、自己資金だけの場合は10%の損失ですみ90%の資金は回収可能である。しかし10倍のレバレッジを掛けていれば、10%の見込み違いで損失額は自己資金全額となる。レバレッジの破壊力は凄まじい。

サブプライムローン証券化に使われた「トランシェ」という技法は、リスクを多層化して証券受け取り利率を上げるという手法が用いられた。安全な証券の受け取り利率は低く、リスクの高い証券の受け取り利率を高くするのである。これをシニア、メザニン、エクイティとよぶ階層別「優先劣後構造」といい、低品質のサブプライムローンの集合体であっても、優先的に利払いが受け取れる「トランシェ」を恣意的に作り出しそれをトリプルAとして販売したのである。破産するサブプライムローンの比率は1/3という予測がある。するとリスクの高いエクイティは本来利益は受け取れないはずなのに、これを再度トリプルAとして販売したのである。これはもう詐欺である。証券化は悪ではないのである。「リスクを適当に再配分する」という機能はあるのだが、再証券化商品というまがい物を作ったため全体が詐欺になったのである。

2006年度まで世界の金融市場は①アメリカの証券化資金 ②中国の貿易黒字 ③石油ガス生産国の貿易黒字で積みあがった余剰資金で支えられてきた。証券化バブルが崩壊した今日、レバレッジ手法は減少するだろう。黒字を溜め込んだ国が新しい金持ちになる。世界金融は欧米から重心が移動しつつある。日本の生きる道は、コスト競争で中国には勝てないので、トヨタの成功例に学んでトータルなコストパフォーマンスで競争力を向上させることと、任天堂のように他者が真似できないような製品を提供する事であろうか。日本の経済力は1988年をピークとし、国民所得の世界順位は93年がピークであり、労働人口は96年がピークで、総人口のピークは2004年であった。日本は穏かに衰退を続けている。ヨーロッパ並みの小国になるだろう、それもいいじゃないかという考えもうなずける。覇権国家は疲れるし、殺伐とした殺人国家にはなりたくない。製造業主体の経済から、知識主体の経済へ移行しつつある。金融中心ということはなりたくないが。


中山大臣暴言集  自民党末期症状

2008年09月28日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月28日3時1分
中山国交相、27日の主な発言
 ■「日本単一民族」
 ■「成田『ごね得』」
 ■「日教組をぶっ潰す]
 ■「民主党を解体せよ」

3日天下ならぬ3日暴言大臣 自民党の最もいやな面を見せられた
暴言で有名な石原都知事や濱公さんもびっくり。失言を通り越してベランメー調なのは麻生首相にも共通するところがあり、どちらもいずれ失言で失脚すると予想されていた。こんなに早く往かれるとは想定外でした。いやはやお粗末な一席です。権力者の無節操、無教養、醜悪な体質、何と申上げていいものやら。

読書ノート  橋本治著 「日本の行く道」  集英社新書

2008年09月28日 | 書評
今の日本の社会はどっかおかしい もうひとつの選択肢を 第6回

第二章 「教育」の周辺にあったこと (1)

昔いた「いじめっ子」、「不良」は何処へいったのか、いついなくなったのだろうか。いじめっ子には貧しい家庭や職人の子が多かった。彼らは学校では存在価値がない鼻つまみ者でも、学校の外では徒党を組んで暴れるヒーローの世界を持っていた。それは前近代的な社会であったかもしれない。それは「他者が他者でいて平気な社会」である。画一化されていない歪なバロックの世界である。だから彼らがいなくなったのは高度経済成長期である。昭和30年代おわりから40年の「団塊の世代」からである。金の卵といわれて集団就職で上野駅に着いた中学卒の時代から、経済成長で社会は豊かになり進学率は高くなって受験戦争が始まった。その世代は1970年には大学闘争、第二次安保闘争、赤軍派などを生み出し左翼学生運動のエネルギーが爆発して壊滅した。その時代大学は大衆化し就職の窓口であった。親の学校への理解は単純で学校=受験で、子供は受験に追い込まれた。1970年代前半の経済成長期は実は子供達がストレスを溜め込んでゆく時代で、「家庭内暴力」で鬱積した感情を表現した。「家庭内暴力」は深化して「家庭内殺人」に変わった。高校では「ツッパリ」、「ヤンキー」という学校に適合できない高校生も増えた。1980年代は尾崎豊に象徴される「荒れる学校」である。1977年授業時間の削減が決定されて以来、学校5日制や「ゆとり教育」が強調された。激烈な受験勉強を意味のないことと感じ始めた子供達の中で、エネルギーの不完全燃焼が「学級崩壊」をひきおこし、「陰湿ないじめに熱中」と云う変な事態を生んだのかもしれない。ところが21世紀になって「ゆとり教育」が「学力低下」を招いたとして、今度は授業数の増加が叫ばれている。かくかように生徒たちは世の中の動きに翻弄されているのだ。



経済問題  富田俊基著 「財投改革の虚と実」 東洋経済新報社

2008年09月28日 | 書評
財政投融資の実の改革は財投事業の見直しだ 第6回

第一章「資金調達の仕組みの改革」(1)

21世紀に入り財投の改革が始まった。財投機関の資金調達は郵貯・年金と云う預託金から、財投債と財投機関債の発行により市場から資金を調達する法式に変わった。財投の出口での財投機関債の発行、入り口での郵貯・年金の預託義務廃止と自主運用によって、これまでの財投方式は解体された。郵貯は郵政公社を経て民営化され、出口では道路公団も民営化され、特殊法人の行う財投事業の見直しも進んだ。旧財投では郵貯と年金の預託金を運用部が一括して特殊法人に貸し付けることであったが、新財投方式では特殊法人の資金調達は金融市場へ財投機関債発行による自主調達と国債を基にする財投債の運用の2本立ての資金調達となった。政策実施機関の資金調達が財投機関債・政府保証債・財投債(国債)という資金調達コストの高い順に、即ち国民負担が大きい順になされているのである。

旧財投方式は特殊法人肥大化の張本人であるとして、「兵量攻め」から政策実施機関の規模縮減を図った。郵貯は任意貯金であるから自主運用は許せるとして、公的年金は強制徴集されるのでこれの自主運用は問題が残る。1987年旧国鉄の財投貸付の不良債権が一般会計で処理され5兆円の国民負担となった事は記憶から消えてはいない。特殊法人規模縮減問題は先ず「原資」を絞ってからと云う仕組みは順序が顛倒している。財投債は政治が決める財投計画に基づいて発行されるのだから初めに「政策ありき」が重要ではないか。財投の改革が郵政民営化を伏線にしていたことは結果的に伺える。順序に問題があるとしても、預託義務廃止の結果、財投金利への金利上乗せが廃止されたので財投事業の資金調達コストは低下した。



文藝散歩 五味文彦著 「源義経」 岩波新書

2008年09月28日 | 書評
源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 第19回

6)平家追討の英雄ー「平家物語」より (4)

能登殿最後
建礼門院は主上と二位殿の入水をみて、覚悟を決め懐に石や硯を入れて入水された。源氏の渡邊源五右馬允昵は小船で近づいて熊手にかけて女院を引き上げた。大納言典侍局は内侍所の入った唐櫃とともに入水しようとしたが、けつまずいて倒れた所を侍に取り留められた。門脇の平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟、小松の新三位中将資盛、少将有盛、従兄弟の左馬頭行盛は鎧に碇をつけて入水された。大臣平宗盛と息子右衛門親子は海に身を投げずにうろうろしているので見苦しいとばかりに侍が蹴落としたが、泳ぎがうまいので沈まないところを伊勢三郎義盛が熊手で引き上げた。大臣を救おうとした飛騨三郎左衛門景経が船に討ち入ったが堀弥太朗親経に首をとられた。強力の能登殿教経に向う敵はいなかった。義経めがけて船に討ちいったが、義経はひょっと隣の船に逃げ移って難を逃れた。五条の橋で弁慶の長刀をかわしたように。能登殿の船に安芸太郎実光兄弟と郎党が攻め入ったが、能登殿騒がず安芸実光兄弟を両脇にむずっと締め上げて、「おのれら、死出の山の供せよ」と海へ入られた。能登殿教経二十六歳であった。

内侍所都入
新中納言知盛教は「見るべきほどの事をば見つ」といって乳母子の伊賀平内左衛門家長とともに、鎧を二枚着て海へ入られた。生け捕られた平家の人は前大臣宗盛卿、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵人信基、讃岐中将時実、大臣の八歳の若君、兵部小輔雅明、僧では僧都専親、法勝寺の能円、忠快、融円、侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、安倍民部重能親子、以上三十八人であった。女房たちでは建礼門院、大納言典侍局ら四十三人であった。四月三日義経は源八広綱を使者として後白河院へ「壇ノ浦にて平家を悉く攻め滅ぼし、勾玉の璽箱と内侍所を都へ戻す」と奏聞した。二十五日勾玉の璽箱と内侍所が鳥羽に着いて内裏より迎えが出た。平家に西国へ連れ去られた高倉帝の第二皇子守貞親王が都に戻られ法皇より迎えの車が出たという。

一門大路渡
二十六日平家の生け捕り者が鳥羽について、都大路を渡らせ判官の宿舎六条堀川に取込めた。法皇は六条東洞院に御車を出して叡覧あった。