ブログ 「ごまめの歯軋り」

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後期高齢者医療制度の見直しを避けては選挙を戦えません

2008年09月24日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月22日
後期高齢者医療制度の見直し、自公連立政権合意へ
 自民党の保利耕輔、公明党の山口那津男両政調会長は22日、国会内で舛添厚生労働相を交えて会談し、同日夜にまとめる自公連立政権合意に後期高齢者医療制度の見直しを盛り込む方針で一致した。
同制度については、自民党の新総裁に選出される麻生太郎幹事長も見直す意向を示している。75歳以上という年齢による線引きや、年金からの保険料天引きの強制などが見直しの焦点となる。

「後期高齢者医療制度の紛糾」  
 9月22日の新聞によると、舛添厚生労働大臣と麻生自民党幹事長(今では自民党総裁)は「後期高齢者医療制度」の見直しを約束したそうだが、化粧直し程度でお茶を濁すのか、法律を廃止して新法を作るのか、何処をどう改定するのかまださっぱり全貌は見えてこない。2006年6月21日第3次小泉内閣は「健康保険法などの一部改正法案」を公布し、2008年4月1日から施行された。

その骨子は、
1)75歳以上の高齢者を従前の健康保険から脱退させ新たな「後期高齢者医療保険」に加入させる。65歳以上で障害認定を受けた者も含む。
2)運営主体を都道府県単位とする広域連合が保険者となる。同じ都道府県内であれば同じ保険料となる。
3)保険料の賦課方式は均等法と所得法の2種類で構成される。保険料は年金から天引きする。(介護保険の方式を踏襲)
4)一つの病名で1ヶ月の診療費が決まる「包括性」と、患者自身が選んだ「高齢者担当医」が継続的な管理をおこなう診療報酬。(欧米式診療を採用)
5)財源は医療給付の5割を税金で、4割を現役世代の医療保険負担とし、残りの一割を(現役収入のある人は3割)を高齢者の保険料で賄う。
6)健康保険と介護保険との負担が一定額を超えた人には軽減措置を設ける。被用者保険の被扶養者であったものは新たに保険料を負担するため、激変緩和措置(免除から5割負担まで)が2年間適用される。

 制度施行によって1300万人が国民健康保険から後期高齢者医療制度に移行した。本年4月から実施されたが、扶養家族で世帯主の健康保険に入っていた高齢者が突然高額の保険料を請求され大騒ぎが発生したのである。政府は大半の人の保険料は安くなると云う宣伝をしたが所得の低い人ほど負担料が増えることが判明した。6月6日ねじれ国会の参議院で「後期高齢者医療制度廃止法案」が可決された。途中で75歳以上を後期高齢者と定義する根拠の政府説明が要領を得ず、「痴呆」、「終末期老人」と云う言葉に猛反発がおき、世間の8割が「後期高齢者医療制度」を評価しなかった(毎日新聞アンケート)。地方議会や日本医師会、全国保険医団体も制度の全面見直しを要求する決議や声明をだした。この制度の背景には高齢者人口の増加と保険料財政負担の増加がある事は隠す事はできない。現役世代と高齢者を分離した事自体が差別であるが、高齢者の現役世代と相応の負担を求める事も弱い者いじめになった。この制度により高齢者医療制度への支出を求められる健康保険組合の9割が赤字に転落する予定である。


公務員改革 せめて民間なみに 公務員社会主義国家に断!

2008年09月24日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月24日2時19分
公務員改革顧問会議座長に御手洗経団連会長
 国家公務員制度改革推進本部の顧問会議が23日、内閣府であり、日本経団連の御手洗冨士夫会長を座長に選んだ。また、「内閣人事局」の権限や機能などについて議論するワーキンググループを設け、経済同友会の桜井正光代表幹事を主査と決めた。09年通常国会への関連法案提出に向け、意見をまとめる。 推進本部事務局は座長を置かず、最終的な意見の取りまとめもしない方針。

公務員の優雅で怠惰な生活  国と地方の経費節減で消費税は不要
公務員に仕事をさせるより、全員を生活保護で養ったほうがはるかに安くつく。社会保険庁みたいに仕事をさせればミスだらけ、その後始末に数千億円の金を必要とする。まさに泥棒に追い銭とはこのことだ。閑職と厚遇というのが地方公務員のイメージであるが、民間労働者からみると想像を絶する実態が曝露される。先日大分県で教員採用に賄賂が常習化してことが明るみになり、県教育委員会の要職者が逮捕された。同じ事は県市町村の職員採用でも噂どころか当然といわんばかりに話されている。それほど公務員の生活はおいしいのである。地方地方でさまざまな独自の手当が給与にプラスして支給され、厚生福利なども民間との格差は広がるばかりである。これは財源がすべて税金を使用していること、経済原理が働かず、予算内で節約のインセンティブは働かないこと、労働組合との長年の馴れ合いから来ている。国と地方財政の借金は合計1000兆円超える先進国中最悪の状態である。国が滅びても霞ヶ関は不滅と云う信仰に裏打ちされ、財政収支健全化と称して、さらに増税と借金をしようとしている。公務員は職業ではなく、武士とおなじ「身分」なのである。

読書ノート 橋本治著 「日本の行く道」 集英社新書

2008年09月24日 | 書評
今の日本の社会はどっかおかしい もうひとつの選択肢があったら 第2回


橋本治著  「上司は思いつきでものを言う」 集英社新書(2004年4月) ー日本社会の閉塞観ー
本書はサラリーマン社会の心理や欠点を笑う書かなと思いきや、バブル崩壊以降の会社という組織、日本社会の閉塞観や手詰まり感を解きほぐす書物である。いわば会社社会論から日本経済を論じたものだ。「上司は思いつきでしかものがいえない」組織的な欠陥について考察を回らす。私は会社という組織に38年間もいた。私は高度成長期に入社した。時代を回顧しますと、給料がどんどん上がる高度成長期に石油ショックを二回も経験してそれを乗越え、日本経済は1980年代に「JAPAN AS NO1」と世界第二の経済大国の地位を得た。そしてバブルの狂乱の昭和が終わって平成になるとバブルは崩壊した。それから会社の不良採算部門の切り捨て・賃金低下・就職氷河期の不況期が10年近く続きましたが、軽薄短小の企業体質の改善と何回かのIT景気のおかげで、21世紀には大企業は持ち直し現在の好況に至った。ところが建設業界や金融資本は実に長く不良資産に苦しみ、証券会社・銀行などが倒産した。この激変期での最も大きな変化は企業の再編成とグローバル化(大資本への傾斜)でした。小売商店は殆ど壊滅し、町にはゴーストタウンになったところが多い。東京一極集中で地方は公共工事がなくなって疲弊し、地方自治体の借金倒れが進んだ。格差社会が進んで貧困化層が増大し、日本社会はズタズタに切り裂かれ再構築が叫ばれている。 本書の構成をみると、第一章で日本の会社社会の停滞を「上司は思いつきでものをいう」という文句ではじめる。第二章で会社の中の上司と会社という組織の構造的問題を社会科学論的に述べ、第三章で「下から上へ」がない組織はつぶれるという、市場に立つ企業では当たり前すぎることを得意そうに述べ、第四章では会社組織の序列を儒教からみた日本歴史から解説するいわばおまけの章である。


経済問題  富田俊基著 「財投改革の虚と実」 東洋経済新報社

2008年09月24日 | 書評
財政投融資の実の改革は財投事業の見直しだ 第2回

序(2)
著者富田俊基氏は関西学院大学卒業後、野村総合研究所に入所され財務金融調査室長、政策研究部長、政策研究センター長、野村総研理事と一貫して野村総研の財政研究畑を歩まれた。2005年より中央大学法学部教授として転出された。政策通として数々の政府委員を務められ政府の政策決定に関ってこられた。
財政制度等審議会財政制度分科会・財政投融資分科会委員(2007年~)
行政減量・効率化有識者委員(2006年~)
国の債務管理政策のあり方に関する懇談会委員(2004年~)
国債投資家懇談会委員(2002年~)
政策評価・独立行政法人評価委員会委員(2001年~)
主な著書には「財投解体論批判」(1997年)、「日本国債の研究」(2001年)、「経済政策の課題」(2004年)、「国債の歴史」(2006年)などがある

文藝散歩 五味文彦著 「源義経」 岩波新書

2008年09月24日 | 書評
源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 第15回

5) 京都支配ー「文書」より
1184年源頼朝は朝廷に申請して重要な宣旨を得る。日本全土に武士を調査処断する権限つまり諸国検断権を得た。頼朝は各国荘園に鎌倉殿御使、惣追捕使、守護地頭の御家人を派遣できることになった。そのほか「朝務の事」、「徳性」、「平家追討の事」、「諸社の事」、仏寺の事」と云う「解」は「下し文」を次々と全国へ送った。天下は頼朝の支配するところと云う認識が成立してゆくのである。頼朝は畿内の支配権を獲得するとその行使を義経に託した。義経は1184年伊賀の国の平家の残党の乱で信兼の子息を誅殺すると、頼朝は平家の家地の配分を方針を義経に伝えている。義経は京の治安と行政の長官として頼朝の代官の役目をしっかり果たしていた。義経を支えた実務官として文書の実務を担った人物には少内記信庚(伊予守右筆)、右馬権頭業忠、兵庫頭章綱、大夫判官知康、・信盛、左衛門信実・時成があげられる。治安など兵力の手勢では伊豆右衛門有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘経、弁慶法師といえる。奥州の武士と諸国を流浪する武勇の志の2つがあったが、武力は限定されていたので、援軍と監視を兼ねて鎌倉殿御家人が付けられた。1184年8月義経は朝廷から検非違使任官を得た。これが頼朝にとって後家人の自由任官に等しいと映って嫌疑をかけられる因となった。勝手に朝廷に近づいてはいけないのであった。範頼も追討使の官符を得ている。(義経・範頼どちらも頼朝によって滅亡させられた) 9月ギクシャクし始めた義経との関係を修復するため頼朝は河越重頼の娘を義経に嫁がせた。しかし義経・頼朝の関係は改善されなかった。河越重頼の娘を伴って奥州へ逃げた義経の追討の時には、河越重頼は誅殺され所領はとりあげられて大井実春に与えられた。