ブログ 「ごまめの歯軋り」

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政治を官僚から市民が奪い返す  自民党と民主党どちらが本当か

2008年09月22日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月21日20時27分
小沢代表3選、「劇的な予算組み替えで財源確保」
 小沢氏は「所信表明」と位置づけた代表受諾演説で、政策財源は「劇的な予算の総組み替え」で生み出すと説明。今月中にまとめるマニフェスト(政権公約)で、実行手順を3段階で示す方針を明らかにした。
優先的に実施する政策としては、社会保障、子育て、雇用、農林漁業、中小企業の五つの「新しい仕組みづくり」を挙げ、「きめ細かな『日本型セーフティーネット』をつくる」と表明。「明治以来の官僚を中心とする国の統治機構を根本的に改革し、その改革によってセーフティーネットの財源も十分に確保できる」と説明した。

asahi.com 2008年9月21日20時11分
後期高齢者医療、麻生幹事長「抜本的に見直す」
 自民党の麻生太郎幹事長は21日、フジテレビなどの番組で、75歳以上が対象の後期高齢者医療制度(後期医療)について「政府・与党として抜本的に見直す必要がある」と述べ、年齢による線引きや年金からの保険料天引きなどの問題点を見直す考えを示した。

官僚内閣制を打破し、政治家がまともに働いて、政治を市民側へ取り戻す絶好のチャンス さてあなたは自民党と民主党のどちらに実行力を期待しますか

政治問題  砂田一郎著 「アメリカ大統領の権力」

2008年09月22日 | 書評
クリントン、ブッシュJr大統領とリーダーシップの低下 第14回 最終回

21世紀の大統領制
クリントンとブッシュJrはともに戦後生まれのベビー・ブーマーである。ベトナム戦争反対、公民権運動といったリベラルなライフスタイルが当時の学生に浸透した時代であった。日本で言えば団塊の世代である。クリントンは南部出身だが、苦学してケネディの理想主義にあこがれて政治家になった。ブッシュは東部海岸のエスタブリッシュメントの名門の出で、学生時代は政治運動には見向きもしなかった。1980年代の12年間の共和党政権の新保守主義時代にクリントンはリベラルから中道の民主党政治家(リベラル修正主義者)になった。1993年クリントンは大統領となり最初の2年間は民主党が議会与党であったため順風の滑り出しで財政赤字問題に取り組んだ。94年の中間選挙で共和党が両院議会の主流派となるいわゆる分割政府では、クリントンは世論の動向にあわせた政策を重視して、民主党からも距離を置いた。大統領、民主党、共和党の三角関係で政権を運営した。ブッシュJrは2000年に大統領になると保守主義政策を掲げ、大型減税によって出身基盤に報いた。共和党の伝統的な支持基盤は実業界であり、特にエネルギー業界、軍産共同体である。結束は固い。これに対して民主党の支持基盤は労働組合、女性団体、環境保護団体といわれ結束は弱い。

レーガン大統領以来の新保守主義(ネオコン)は外交的・軍事的にはタカ派で、クリントン大統領になって野に下ったが、ブッシュJr大統領になって息を吹き返した。9.11以降のブッシュJr政権の軍事外交政策は基本的には外交エリートの少数派であるネオコンイデオロギーにそって展開され、ベトナム戦争以来のアメリカのトラウマであった外交戦略を革命的に変えた。孤立主義、先制攻撃主義がそれである。このブッシュドクトリンで一時大統領支持率は上昇したが、終わりが見えない占領政策で人気はしだいに下がった。さらにブッシュJr大統領は内政問題の政策決定に加わっていないようである。現在のサブプライムローンによる損失から端を発する株安、経済不況対策には殆ど無能であるように見える。最後に重要な問題は伝統的に共和・民主両党のイデオロギーが同質であったことや、ねじれ現象で一定の抑制力がかかっていた事を無視して、独走主義に走ったため社会が分裂したことである。クリントンの中道主義が片隅に追いやられた


経済問題  神田秀樹著 「会社法入門」 岩波新書

2008年09月22日 | 書評
21世紀の「会社法」はIT革命と資本市場への対応をめざすもの 第14回 最終回

会社法の展望 (2)
コーポレート・ガバナンスをめぐる議論が一連の企業不祥事で盛んになった。アメリカでは経営の監視、モニタリングと云う意味で使われ、欧州では経営者の説明責任、アカウンタビリティと云う意味で使われている。企業の不祥事防止という消極的な意味から企業のパフォーマンス向上という意味で議論しなければならない。アメリカでは株主の利益の最大化が経営の目的であると云う考えが主流である。最近の流れは取締役会の少人数化と執行役員制への以降、社外取締役の普及、三委員会式取締役会の普及である。欧州は外部監査の強化で進んでいる。いずれにせよコーポレート・ガバナンスは公正さと透明さが求められ、取締役会の機能が非常に重要である。情報開示(デスクロージャー)に重要性はいうまでもない。
会社法は国の経済政策の一つの重要な制度インフラである。21世紀の会社法は競争力を高める法的サポート、IT革命に対応した会社法、資本市場の拡大に対応した会社法が求められる。



文藝散歩 五味文彦著 「源義経」 岩波新書

2008年09月22日 | 書評
源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 第13回

4)奥州藤原氏と源頼朝挙兵、義仲追討ー「平家物語」より(4)

六箇度合戦
平家が一の谷に移ってから、四国で謀反がしきりに起った。備前下津井にいた門脇の大納言教盛・越前三位通盛・能登守教経親子三人は淡路国源氏の賀茂冠者義嗣・阿波冠者義久を攻め、散々の蹴散らし二百三十人の首を取った。兄越前三位通盛は阿波国花園を、弟能登守教経は讃岐屋島を攻めた。能登守教経は屋島から備後国蓑島の沼田にいた沼田次郎・河野四郎を攻め、河野は逃したが沼田を捉え一の谷に帰った。阿波の国安摩六郎忠景が謀反したので能登守教経は西宮沖の海戦で追い散らした。紀伊の国園辺兵衛忠康と安摩六郎忠景が和泉の国で城郭を構えていたので、能登守教経は城を攻め百三十人の首を切っった。豊後国臼杵次郎惟隆・緒方三郎惟義・伊予国河野四郎都合二千余人が備前国今木城に立て籠もっていたので能登守教経は三千余騎でこれを攻め、三人はバラバラに逃げた。田舎侍を相手とはいえ能登守教経の戦いぶりは目覚しかった。

三草勢揃
一月二十九日範頼・義経は平家追討を奏上する。二月四日平家側では福原にて故入道相国の忌日を執り行い、平中納言教盛卿を正二位大納言に昇らせるが、教盛卿これを受けなかった。源氏側は四日、軍を西へ移動し、七日、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合わせと定めた。源氏の陣は
大手の大将軍:蒲御曹司範頼 武田太朗信義、加賀美次郎遠光、小次郎長清、山名次郎教義、三郎儀行、 侍大将:梶原平三景時、源太郎景季、次郎平次景高、三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、五郎行重、小山四郎朝政、中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫広綱、小野寺禅師太朗道綱、曽我太朗資信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太朗広行、庄次郎忠家、四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太朗高直、次郎盛直、藤田三郎大夫行泰   都合五万余騎    摂津国毘陽野に陣を取る
搦め手の大将軍:九郎御曹司義経 安田三郎義貞、大内太朗惟義、村上判官代泰国、田代冠者信綱、 侍大将:土肥次郎実平、弥太郎遠平、三浦介義澄、平六義村、畠山庄司郎重忠、長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小次郎義盛、次郎義茂、三郎宗実、佐々木四郎高綱、、五郎義清、熊谷次郎直実、小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎資能、原三郎清益、多々羅五郎義春、太朗光義、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、金子十郎家忠、興一親範、源八広綱、片岡太朗経春、伊勢三郎義盛、佐藤三郎嗣信、四郎忠信、江田源三、熊井太朗、武蔵房弁慶   都合一万余騎   三草山の東の小野原に陣をとる。
一方平家の陣は
大将軍:小松の新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房  侍大将:伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方  都合三千騎   三草山の西で陣を取る。義経は侍大将の土肥次郎実平と夜討ちにするか明朝にするかを詮議したところ、田代冠者信綱の言により夜討ちと決定。山に火をつけて松明の代わりにして三草の山を越えた。平家は夜討ちに驚いて遁走し五百余人が討たれた。新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房は讃岐の屋島に逃げ、備中守師盛、平内兵衛清家、海老次郎盛方は一の矢へ合流した。


自作漢詩 「江行」

2008年09月22日 | 漢詩・自由詩
碧水陰雲動遠     碧水陰雲 遠空に動く

江城秋色老梧     江城秋色 梧桐老ゆ

孤舟一繋蕭蕭雨     孤舟一繋 蕭蕭の雨
    
燕子磯頭淅淅     燕子磯頭に 淅淅の風 

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(赤い字は韻:一東 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)