ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

温度と炭酸ガス濃度が高くなれば、植物の成長は飛躍的に高まります

2008年09月23日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月23日12時40分
CO2増えたら植物どうなるの? 各地で研究中
 大気中の二酸化炭素(CO2)の濃度が上がると、植物はどう変化するのか。人間の排出量削減の取り組みは進むが、吸収する植物や農業への影響はわかっていないことが多い。地球温暖化の未来をより正確に予測するための基礎研究が、各地で続いている。 農業環境技術研究所(茨城県つくば市)の長谷川利拡・主任研究員と東北農業研究センター(盛岡市)とで共同で実験を進めている。

地球温暖化炭酸ガス主因説の科学者(?)は、こんなバカな実験を税金を使ってやっています。
植物生理の原理を疑うような科学者が本当にいるのかな。こんなバカな研究者には税金を使わせないようにしよう。地球の歴史では最初の大気中の炭酸ガス濃度はきわめて高かった。植物が炭酸ガスを吸収して酸素を吐き出したおかげで今日の大気組成が出来た。温度と炭酸ガス濃度が高ければ植物の生育は向上することは火を見るより明らか。
人類が石炭・石油を燃焼させてエネルギーを得てからまだ200年ぐらいであり、早晩石油はなくなるだろう。石炭石油燃料は古い時代に繁栄した生物の化石から出来ているので、炭酸同化(空気中の炭酸ガスを生体有機物に変える)によって固定された炭素である。それを現代で再び炭酸ガスに開放しても、もとの古い時代の炭酸ガス濃度に戻るだけである。宇宙が誕生して150億年、太陽系が生まれて45億年、その寿命もあと50億年たてば元のガス・塵に戻るらしい。地球と生命の誕生から今までの歴史を見ることは、すなわち地球環境と人類の運命を予測する事に役立つはずだ。基本的には地球は冷えつつあるのだ。温暖化がおきたことは一度もなかった。生物は氷河期を一番恐れていた。地下からマグマが噴き上げてくれば、温暖化よりも大陸が分裂する。生物の絶滅もあるかもしれない。そんな大きな時間とスケールで人類の命運を考えてみませんか。


産科の看護師不足は深刻です 

2008年09月23日 | 時事問題
asahi.com 2008年9月23日
新生児救急「ミルク一人飲み」常態化 人手不足のあおり
 生後間もない赤ちゃんの命を守る新生児救急の現場の多くで、乳児を抱かずにミルクを飲ませる「一人飲み」が常態化している。看護師の配置が不十分な現状が背景にあるが、ミルクが誤って気管に入るなどすれば、生命にかかわりかねない。制度の不備を訴える声が広がりつつある。

「看護師不足」 
東京大学医科学研究所上昌広氏によると、2008年8月23,24日「安心と希望の医療確保ビジョン」具体化の検討会が、舛添大臣参加で都内のホテルでおこなわれた。この検討会は医学部定員を10年かけて50%増員する方向で合意し、医師不足問題は解決の方向で進んでいます。また医師の偏在を招いている卒業後の「臨床研修制度」を見直す検討会も文部省と合同で設置する事になった。政治主導で医療制度改革が進む中、コメディカル不足、なかんずく看護師不足は深刻です。検討会では佐賀大学医学部看護学科井上範江教授が看護業界の問題点を以下のように報告した。「看護師の数と質が患者の安全性に深く関係することはアメリカ医学界の研究で明らかにされた。それによると日本の看護師数は危険な状態にあるといわれている。看護師数の少ない原因は厚生省の保険点数制にあり、看護師による看護、医療行為に高い保険点数をつけないと、病院は看護師を雇うわけには行かないという関係にある。さらに看護師の教育が高等教育になり、学士取得が要求されている。看護師の教育やキャリアアップ機会に魅力ある制度が用意されないといけない。」というものでした。


読書ノート  橋本治著 「日本の行く道」 集英社新書

2008年09月23日 | 書評
今の日本の社会はどっかおかしい もうひとつの選択肢があったら 第1回


いまさら橋本治氏の紹介をするまでもないが、若し知らない人のために蛇足の紹介をする。東京都杉並区出身。アイスクリーム屋の息子に生まれる。大学在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目される。イラストレーターを経て、 1977年の小説『桃尻娘』(第29回小説現代新人賞佳作)を振り出しに、文筆業に転じる。該博な知識と独特な文体を駆使して評論家・随筆家として活躍する一方、古典文学の現代語訳・二次創作にもとりくむ。著作では「窯変源氏物語」、「「ひらがな日本美術史」、「双調平家物語」、「三島由紀夫」、「蝶の行方」などが有名である。

橋本治氏は日本文学の文芸評論家かと思っていたが、最近社会問題への関心を示した二冊の本を読んだ。同じ集英社新書から、橋本治著「上司は思いつきでものを言う」と「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」である。今回読んだ「日本の行く道」も産業革命以来の日本の近代化の歴史を点検するもので、全二書と同じような現代文明評論である。簡単に振り返って纏めておくと、本書にも同じような現代の切り口が見えてくる。



経済問題 富田俊基著 「財投改革の虚と実」  東洋経済新報社

2008年09月23日 | 書評
財政投融資の実の改革は財投事業の見直しだ 第1回

序(1)
国家財政破綻とか言われてもう久しくなるが、一向によくなったと云う話も聴かないのですが何故日本国は破綻しないのでしょうか。国家財政の摩訶不思議で、民間企業は会社法で連結決算を義務つけられているが、国家は地方自治体と云う子会社を持っていて、三位一体改革といって地方に財源と債務を移譲しておりますが、地方自治体の財政はとっくに破綻しています。病院の廃止、健康保険の値上げ、住民税の値上げなど地方自治体の手に負えるものではないと思う。一体全体国家財政とはどうなっているのでしょうか。素人の私にはさっぱり分からない。自分の資産が全部ゼロですといわれて始めて気づくことなのだろうか。優秀といわれていた官僚に任せていた国家財政が危機的状況にあるようだがその実態がよく見えない。その疑問を解きほぐすために、先ず手ほどきに今年の一月新聞広告に出ていた、富田俊基著 「財投改革の虚と実」と云う本を買って読んだ。悲しいかな私は経済学部や法学部出身ではないので、しかも国家財政方針は政治が決めるので一筋縄では理解できないところがある。とかく財政改革とは政治問題と理解して与党を攻撃してしまうものだが、政策の優先順序が異なる民主党に政権が変わっても簡単に債務が減るとも思えない。自衛隊をなくすると云う選択をするくらいの劇的な優先順位の交代がなければと諦めの境地になってしまう。1990年バブルが破綻し不良債務処理と景気向上のために莫大な資金を使った。その時点で日本の国家財政は膨大な債務を背負った。債務解消のため橋本内閣いらい小泉内閣を通じて行政改革は何代もの内閣の天命であった。21世紀になってようやく日本経済は復興して財務基盤は改善され、これからが国家債務の償却の時期である。この辺で行政改革と財政改革の整理をしておく必要がある。そういう意味で本書は私の目を開かせてくれた。国家財政の構造・問題点について考える出発点を提供してくれた。


文藝散歩 五味文彦著 「源義経」 岩波新書

2008年09月23日 | 書評
源平合戦の英雄「源義経」像を文献・史料から探る 第14回

4)奥州藤原氏と源頼朝挙兵、義仲追討ー「平家物語」より (4)

老馬
大臣平宗盛卿は、義経が三草を破ったので山の手へ向う人を募ったが、誰も尻込みして手を挙げなかった。そこでいつものことながら能登教経が越中前国司盛俊、三位通盛ら一万余騎を率いて一の谷の後ろ、鵯越えの麓に向った。六日の明け方、義経は土肥次郎実平に7千余騎を預けて一の谷の西木戸口へ向わせ、自分は三千騎で一の谷の後ろ鵯越えへ向った。別府小太郎清重はこの難所を越えるには老馬に道案内させることが一番と見知らぬ深い山へ入っていった。武蔵坊弁慶は老翁を携えてこの崖を越える方法を問うたが老翁は無理だと云う。義経はでは鹿は通えるかと問えば、「丹波の鹿は播磨の印南野へ行く」と答えたので、義経鹿の通えるのに馬の通えないわけはいと、十八歳の鷲尾三郎義久に案内をさせる事になった。(ここに、武蔵坊弁慶が始めて平家物語に出た)

一二駈
義経の別働隊、一の谷の搦め手の土肥次郎実平の7千余騎のなかに、熊谷・平山と云う先駆けを争う二人がいた。土肥次郎実平の本隊を離れ熊谷次郎直実、子息の小次郎直家らの主従三騎で一の谷の塩屋から西の木戸口へ先駆けした。直ぐ後ろから平山季重ら二騎が追いかけた。六日朝になれば、熊谷・平山の五騎が先陣にいて、平家側から木戸を少し開けて兵衛盛嗣、五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らの侍二十騎が出て矢を交えて小競り合いをした。これを熊谷・平山の一二の駆けという。華々しい関東武士の功を競う先陣争いである。

二度駈
そして土肥次郎実平七千騎の本隊が一の谷西木戸口の攻撃に移った。同時に東の生田の森で源氏五万騎の大手軍でも戦闘が始まった。河原太朗私高直、次郎盛直の二騎が生田の森の先陣を駆けた。平家の真名辺四郎・五郎兄弟は柵を乗越えようとする二人を取り囲んで討ちとった。梶原平三五百騎は生田の柵を破って進入したが、取り囲まれて善戦して退いた。これを梶原の二度の駆けという。

逆落
源氏の生田の戦いは凄まじい争いとなったが、雌雄を決することは出来ず膠着した。そこで七日、九郎御曹司義経三千騎は鵯越えを敢行する事になるのである。断崖の上から平家の城郭を見下ろしていた義経は、「馬を落としてみよ」とためしに何頭かの馬を崖から落とした。中にはうまく下りられた馬がいた。義経は自ら三十騎ばかりで真っ先に降りれば、続いて三千騎も皆鵯越えができた。平家の屋敷を焼き払い濱へ押し寄せると、不意を突かれた平家軍はただ逃げ惑うばかりであった。船に乗って逃げた平家も多かったが、能登殿教経は馬で西に逃げ、播磨の高砂で船に乗って讃岐の屋島へ渡った。この鵯越えで平家軍は総崩れになって、一気に勝敗が決した。この鵯越えの戦いで義経は不朽の名将(軍事的天才)と謳われるようになった。