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京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

文科省有識者会議の「いじめ」定義見直し開始の持つ危うさ

2016-07-01 09:19:11 | 受験・学校

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160630-00000145-jij-pol

(「いじめ」明確化へ=学校で対応しやすく―文科省 時事通信 6月30日(木)20時26分配信 ヤフーニュース)

おはようございます。こちらの記事ですが・・・。

気になるというか、かなり「やばい」と思っていることが2点。

ひとつは、教職員側から見た基準を明確にして「わかりやすさ」「判断のしやすさ」を追求することが、子どもの学校での「生きづらさ」に気づくセンスをより悪くする恐れがある、ということ。

つまり、実際には子どもが学校で友達関係その他いろんなことで悩んでいても、教職員の側がそれを「いじめの基準には該当しない」と判断して、だから「たいしたことない」と思ってしまったら・・・という危険性が起こりうる、ということですね。

たとえ基準を明確にして判断しやすく、わかりやすくして、「いじめではない」といっても、その子ども自身の友達関係での傷つきや悩みが解消されているわけではないのですから。

もうひとつは、こうやって判断基準を明確にすることが、いじめの重大事態での第三者調査委員会、さらには訴訟での学校・教育行政側の対応を変える恐れがある、ということ。

要するに子どもが友達関係等々を苦に亡くなるような事態が生じても、「文科省の新しい基準でいう『いじめ』には該当しない」と主張して、第三者調査委員会の調査の対象からはずすとか、訴訟でも被告側としてそのような主張をくり返し、法的な責務は免れる・・・という話になりかねない、ということですね。

やっぱり「子どもの学校での『生きづらさ』と、それに気づいて適切に対応する教職員のセンスとスキル。さらには、そういう『生きづらさ』を感じながら学校で過ごしている子どもの生活の質」というもの。ここをどう考えるのか。基準を明確にするかどうかの問題よりも、そっちを問題にしてほしいですね、文科省には。

目の前で起きている子どもどうしのトラブルが文科省の基準でいう「いじめ」に該当するかどうか、その基準を明確化すること以上に、「そのことで子どもがどれだけ『生きづらい』と感じているか?」を見て、どのように具体的な対応を学校として考えていくのか。いじめ対応で問われているほんとうの課題は、そっちではないのでしょうか?



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