先日行って来ました東海道五十三次の備忘録としてまとめたものです。
東海道を歩き始めて1年が経とうとしておりますが、まだ、箱根まで辿り付かずにおります。
今回は、大磯宿から国府津宿までという比較的短い区間でしたが、それでもおよそ10キロです。
松並木
大磯宿は、鎌倉時代から宿場として栄えておりましたが、明治時代になって宿場が廃止されると、多くの宿場と同様に大磯も寂れてしまったそうです。
明治末になると、中央の高官達が別荘を構え、日本一の保養地としての地位を得ることになります。
延台寺
延台寺 曽我兄弟の仇討ちの物語は、「曽我もの」と呼ばれ、歌舞伎や映画そして講談などで有名になりました。
私も子どもの頃、映画で見た記憶があります。
虎御前は、曽我兄弟の兄・十郎の恋人だと伝えられている女性で、虎御前の成長と共に大きくなったという石が曽我堂に霊石として安置されております。
法虎庵曽我堂
このお堂の中に、虎御前の成長と共に大きくなったと伝えられる石が安置されていました。
このお堂が開けられるのは、5月に行われる「虎御石まつり」の時だけだそうです。
虎御石
この石が、虎御前と共に大きくなったとされる石です。
藤村夫妻の墓
ここ地福寺には、藤村が生前からの願いによってお墓が作られております。
藤村71才でなくなるとここに葬られ、静子夫人は77才で亡くなると一緒の墓に入り静かに眠っております。
このお寺は、梅の寺として名高いそうですが、ちょっと遅かったようです。
杵新
歴史あるお菓子屋さんで、この店で同行の人たちは饅頭を買っておりました。
少し歩くと海水浴場発祥の地の看板があります。
昔は、脆弱性な人は塩水(海水)につかると丈夫な体になると云われ、今のような夏の遊びではなく、治療的な意味があったそうです。そのために海水浴と云ったそうです。
海水浴場発祥の地
ここの看板のある三角地には、今でこそ何もないところですが、以前は百足屋旅館があり、新島襄終焉のところとして有名になりました。
新島襄終焉の地
この辺が湘南と云われておりますが、その名の発祥の地がありました。
湘南発祥の地
湘南とは、元々中国湖南省に流れる湘江の南部をいい、小田原で外郎(外郎)を商いとした崇雪は、中国から渡って来て成功した一人でした。
成功した崇雪が草庵を結ぶにあたり碑を建て、その裏に「著盡湘南清絶地」書いたのが始まりだとされております。
鴫立庵
日本三大俳諧道場として有名ですが、元々は、先の崇雪が、西行法師に憧れ、西行法師が歌を詠んだこの地に草庵を結んだのが始まりです。
その後、元禄八年に大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し、庭や庵を整備して「鴫立庵」と名付け今に至っております。
今でも当時のまま茅葺屋根のたたずまいを残しております。
西行法師像
入った正面にある円位堂には、西行法師の等身大の木造坐像が安置されております。
鴫立庵は西行法師の詠った歌からの命名です。
心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 西行
ここ鴫立庵から路地に入って行くと島崎藤村旧宅があります。
島崎藤村旧宅
藤村は、昭和十六年からこの家を借りておりましたが、気に入ったので購入し、「静の草屋」と呼んでいたと云われ、昭和十八年八月に「涼しい風だね」の言葉を残して他界したそうです。
25坪ほどのこじんまりとした旧居でした。
松並木
東海道の中でも比較的長く、そしてきれいな松並木として知られているそうで、中々のものでした。
街道を整備する時に、人馬を日差しや風雪から守るために、ここ東海道では海沿いであるために潮風に強い黒松が植えられたそうです。
そして、道路と並木の保守は沿道の農村に区割りされ、清掃、伐採、捕植などを負担させたそうです。
伊藤博文旧邸
プリンスホテルとして使われておりましたが、ホテルが廃業した後は再利用されることなく荒れておりました。
吉田茂邸 兜門
広大な敷地が公園として開放されております。
2009年3月に全焼して、今は再建のために準備中という事です。
裏千家の兜門とよく似ております。
園内の竹林
いたるところに花が咲いておりましたたが、一番印象に残ったのが竹林でした。
竹藪になりがちな竹を整然と見せるのは大変な管理が必要かと思います。
吉田茂像
サンフランシスコを向いているそうです。
建物が再建されると,無料で入れなくなるでしょう・・・ガイドさんの独り言
17里の標識
舗装道路に埋め込まれておりました。
東海道を歩いている・・・。そんな気にさせてくれます。
左に海を見ながら
小田原市に入る
小田原市の標識が出て来ました。
日本橋を歩き始めて80キロもう直ぐ国府津駅のゴールです。
朝10時から昼食を挟んで5時間、21000歩の東海道五十三次散歩でした。
東海道を歩き始めて1年が経とうとしておりますが、まだ、箱根まで辿り付かずにおります。
今回は、大磯宿から国府津宿までという比較的短い区間でしたが、それでもおよそ10キロです。
松並木
大磯宿は、鎌倉時代から宿場として栄えておりましたが、明治時代になって宿場が廃止されると、多くの宿場と同様に大磯も寂れてしまったそうです。
明治末になると、中央の高官達が別荘を構え、日本一の保養地としての地位を得ることになります。
延台寺
延台寺 曽我兄弟の仇討ちの物語は、「曽我もの」と呼ばれ、歌舞伎や映画そして講談などで有名になりました。
私も子どもの頃、映画で見た記憶があります。
虎御前は、曽我兄弟の兄・十郎の恋人だと伝えられている女性で、虎御前の成長と共に大きくなったという石が曽我堂に霊石として安置されております。
法虎庵曽我堂
このお堂の中に、虎御前の成長と共に大きくなったと伝えられる石が安置されていました。
このお堂が開けられるのは、5月に行われる「虎御石まつり」の時だけだそうです。
虎御石
この石が、虎御前と共に大きくなったとされる石です。
藤村夫妻の墓
ここ地福寺には、藤村が生前からの願いによってお墓が作られております。
藤村71才でなくなるとここに葬られ、静子夫人は77才で亡くなると一緒の墓に入り静かに眠っております。
このお寺は、梅の寺として名高いそうですが、ちょっと遅かったようです。
杵新
歴史あるお菓子屋さんで、この店で同行の人たちは饅頭を買っておりました。
少し歩くと海水浴場発祥の地の看板があります。
昔は、脆弱性な人は塩水(海水)につかると丈夫な体になると云われ、今のような夏の遊びではなく、治療的な意味があったそうです。そのために海水浴と云ったそうです。
海水浴場発祥の地
ここの看板のある三角地には、今でこそ何もないところですが、以前は百足屋旅館があり、新島襄終焉のところとして有名になりました。
新島襄終焉の地
この辺が湘南と云われておりますが、その名の発祥の地がありました。
湘南発祥の地
湘南とは、元々中国湖南省に流れる湘江の南部をいい、小田原で外郎(外郎)を商いとした崇雪は、中国から渡って来て成功した一人でした。
成功した崇雪が草庵を結ぶにあたり碑を建て、その裏に「著盡湘南清絶地」書いたのが始まりだとされております。
鴫立庵
日本三大俳諧道場として有名ですが、元々は、先の崇雪が、西行法師に憧れ、西行法師が歌を詠んだこの地に草庵を結んだのが始まりです。
その後、元禄八年に大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し、庭や庵を整備して「鴫立庵」と名付け今に至っております。
今でも当時のまま茅葺屋根のたたずまいを残しております。
西行法師像
入った正面にある円位堂には、西行法師の等身大の木造坐像が安置されております。
鴫立庵は西行法師の詠った歌からの命名です。
心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 西行
ここ鴫立庵から路地に入って行くと島崎藤村旧宅があります。
島崎藤村旧宅
藤村は、昭和十六年からこの家を借りておりましたが、気に入ったので購入し、「静の草屋」と呼んでいたと云われ、昭和十八年八月に「涼しい風だね」の言葉を残して他界したそうです。
25坪ほどのこじんまりとした旧居でした。
松並木
東海道の中でも比較的長く、そしてきれいな松並木として知られているそうで、中々のものでした。
街道を整備する時に、人馬を日差しや風雪から守るために、ここ東海道では海沿いであるために潮風に強い黒松が植えられたそうです。
そして、道路と並木の保守は沿道の農村に区割りされ、清掃、伐採、捕植などを負担させたそうです。
伊藤博文旧邸
プリンスホテルとして使われておりましたが、ホテルが廃業した後は再利用されることなく荒れておりました。
吉田茂邸 兜門
広大な敷地が公園として開放されております。
2009年3月に全焼して、今は再建のために準備中という事です。
裏千家の兜門とよく似ております。
園内の竹林
いたるところに花が咲いておりましたたが、一番印象に残ったのが竹林でした。
竹藪になりがちな竹を整然と見せるのは大変な管理が必要かと思います。
吉田茂像
サンフランシスコを向いているそうです。
建物が再建されると,無料で入れなくなるでしょう・・・ガイドさんの独り言
17里の標識
舗装道路に埋め込まれておりました。
東海道を歩いている・・・。そんな気にさせてくれます。
左に海を見ながら
小田原市に入る
小田原市の標識が出て来ました。
日本橋を歩き始めて80キロもう直ぐ国府津駅のゴールです。
朝10時から昼食を挟んで5時間、21000歩の東海道五十三次散歩でした。