6月1日(月)
今日から6月です。
6月に入ると梅雨をイメージしますが今日も快晴です。
気温もグングン上がって、真夏日の記録を残すと思います。
今日は昨日の疲れを休めるためにかんぜんオフの一日でした。
私は、「東海道五十三次次街道歩き」の備忘録をまとめる事にいたしました。
稲毛公園
稲毛公園は稲毛神社の境内と云ってもよく、神社と隣接されております。
前回がこの公園がゴールでしたので、今回もこの公園が集合場所となりました。
三々五々集まって来る参加者は受付を済ませて指定された班ごとに行動を共にいたします。
真っ直ぐな道
川崎宿を出て暫くすると、「八丁畷」と呼ばれている通りになりますが、今はその面影は皆無といったところです。
説明によると、この辺りは八丁ほどの長さに真っ直ぐな道が通っていたためにそう呼ばれるようになったそうです。
鉄道を通すために分断されてしまったそうです。
芭蕉の句碑
八丁畷に芭蕉の句碑が建っておりました。
江戸を出て故郷の伊賀に帰る芭蕉を門人たちがここまで送って別れたところだそうです。
麦の穂を たよりにつかむ 別れかな 芭蕉
市場の一里塚
市場の一里塚は江戸から五番目のもので、今は碑が一本残されているに過ぎない。
お稲荷さんの祠があるから目を引きますが、写真のような碑が建っているだけでは通り過ぎてしまいまいそうです。
鶴見橋関門旧跡
安政六年に横浜港が開かれ、多くの外国人が日本に来たために、外国人への加害防止のために作られたといいます。
それにも関わらず、「生麦事件」が起こってしまったのです。
生麦事件の碑
生麦事件は、文久二年に江戸から京に向かっていた薩摩藩主島津久光の行列が生麦村に差し掛かった際、横浜在住のイギリス人四名が乗馬のまま行列を横切った事に怒った薩摩藩士が切りかかり重傷を負わせたという事件です。
この一太刀が日本の運命を変えたといっても過言でありません。と説明してくれた地元の方が力説しておりました。
生麦と云う地名ですが、江戸幕府二代将軍秀忠の行列がこの地を通る時、道に水が溜まっており、通行できなかったのですが、村人たちが街道脇の麦を刈り取って道に敷いて、行列を無事に通したそうで、その時の村人の行いに秀忠はいたく感銘をうけ、この地一帯を生麦と云う地名を与え、村人に漁業を営む特権を与えたと言い伝えられているそうです。
浦島伝説
ここ神奈川宿は数ある浦島伝説が伝えられている一つのところでもあります。
街灯の上の亀と波のデザインが、神奈川宿の人たちの気持ちをあらわしているようです。
そして、最後に、日本広といえども、一宿場町の名前が県名になったのは「神奈川県」だけです。と胸を張っておりました。
今回の「東海道五十三次次街道歩き」は、これと云った見るべきところはありませんでしたが、歩いて見れば、今まで見えなかったものが少しずつ見えるような気がいたしました。
今日から6月です。
6月に入ると梅雨をイメージしますが今日も快晴です。
気温もグングン上がって、真夏日の記録を残すと思います。
今日は昨日の疲れを休めるためにかんぜんオフの一日でした。
私は、「東海道五十三次次街道歩き」の備忘録をまとめる事にいたしました。
稲毛公園
稲毛公園は稲毛神社の境内と云ってもよく、神社と隣接されております。
前回がこの公園がゴールでしたので、今回もこの公園が集合場所となりました。
三々五々集まって来る参加者は受付を済ませて指定された班ごとに行動を共にいたします。
真っ直ぐな道
川崎宿を出て暫くすると、「八丁畷」と呼ばれている通りになりますが、今はその面影は皆無といったところです。
説明によると、この辺りは八丁ほどの長さに真っ直ぐな道が通っていたためにそう呼ばれるようになったそうです。
鉄道を通すために分断されてしまったそうです。
芭蕉の句碑
八丁畷に芭蕉の句碑が建っておりました。
江戸を出て故郷の伊賀に帰る芭蕉を門人たちがここまで送って別れたところだそうです。
麦の穂を たよりにつかむ 別れかな 芭蕉
市場の一里塚
市場の一里塚は江戸から五番目のもので、今は碑が一本残されているに過ぎない。
お稲荷さんの祠があるから目を引きますが、写真のような碑が建っているだけでは通り過ぎてしまいまいそうです。
鶴見橋関門旧跡
安政六年に横浜港が開かれ、多くの外国人が日本に来たために、外国人への加害防止のために作られたといいます。
それにも関わらず、「生麦事件」が起こってしまったのです。
生麦事件の碑
生麦事件は、文久二年に江戸から京に向かっていた薩摩藩主島津久光の行列が生麦村に差し掛かった際、横浜在住のイギリス人四名が乗馬のまま行列を横切った事に怒った薩摩藩士が切りかかり重傷を負わせたという事件です。
この一太刀が日本の運命を変えたといっても過言でありません。と説明してくれた地元の方が力説しておりました。
生麦と云う地名ですが、江戸幕府二代将軍秀忠の行列がこの地を通る時、道に水が溜まっており、通行できなかったのですが、村人たちが街道脇の麦を刈り取って道に敷いて、行列を無事に通したそうで、その時の村人の行いに秀忠はいたく感銘をうけ、この地一帯を生麦と云う地名を与え、村人に漁業を営む特権を与えたと言い伝えられているそうです。
浦島伝説
ここ神奈川宿は数ある浦島伝説が伝えられている一つのところでもあります。
街灯の上の亀と波のデザインが、神奈川宿の人たちの気持ちをあらわしているようです。
そして、最後に、日本広といえども、一宿場町の名前が県名になったのは「神奈川県」だけです。と胸を張っておりました。
今回の「東海道五十三次次街道歩き」は、これと云った見るべきところはありませんでしたが、歩いて見れば、今まで見えなかったものが少しずつ見えるような気がいたしました。