アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「国葬」問題の核心は「国会軽視」ではない

2023年07月10日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義

   

 松野博一官房長官は3日の記者会見で、「国葬儀を行うと決定した場合は国会に説明し、終了後に概要を国会に報告する」「時の内閣において責任をもって判断する」と述べました。「国葬」は時の政権の判断で行い、国会には事前と事後に報告するだけ、ということです。

 昨年の安部晋三元首相の「国葬」(9月27日、写真)があれほど批判を浴び、岸田文雄首相は国会(10月の衆院本会議)で、「様々な意見、批判をいただいたことを真摯に受け止め…一定のルールを設ける」と公約しましたが、それを公然と反故にしたわけです。

「重要な事項に関しては国会の決定を通すという立憲民主主義の考え方が、結局定着していないことが、国葬をめぐる過程であらわになった」(石川健治・東大教授、7日付朝日新聞デジタル)

 その通りです。が、「国葬」問題の核心はそこではありません。

 戦前、天皇主権の帝国日本は「国葬令」によって「国葬」を制度的に行っていました。その目的は何だったか。「国葬」問題を研究している宮間純一・中央大教授はこう指摘します。

「国葬は過去、天皇制を補完する儀式で、国民を一つにまとめる統合のための装置でした。天皇が「この人はよくやった。国に尽くしてくれた。そういう人が亡くなったから私は悲しいんだ」とし、国民みんなでこれを共有しようという場が国葬でした。一つの模範像を示し、「みんなこれに倣え、これが国民の鑑なんだ」とする意味があった」(2022年9月28日付朝日新聞デジタル)

 だからこそ、主権在民の日本国憲法の施行に伴って「国葬令」は廃止されたのです。その「国葬」が法的根拠のないままなし崩し的に復活しました。それは、憲法上政治の前面に出られない天皇に代わって国家(時の政権)が戦前の「国葬」が果たした役割を復活させるためです。

 こうした「国葬」の性格・機能が、市民の「思想及び良心の自由」(憲法19条)を侵害する国民支配のツールであることは明らかです。

 留意しなければならないのは、「軍拡(安保)3文書」によって戦争国家化が急テンポで進められているいま、そして、ウクライナ戦争で国家と市民の一体化(市民の国家への取り込み)が強まっているいま、国家にとって「国葬」の存在意義はますます大きくなっていることです。

「もし日本が将来的に戦争に陥るといった危機的な状況に陥ることがあった場合、そのときにすごく人気のある政治家が出て、その人を国民全員でまつろうっていうようなことにならないとも限らない。こういうのが一番怖い。下から湧き上がってきて権力者をほめたたえる構造ができて、それが悪用される可能性は排除できない」(宮間教授、同上)

 それは仮定の話でも「将来」の話でもなくなっているのです。

 「安倍国葬」に反対し、国会軽視を批判する「識者」のコメントの中には、次のようなものがあります。「国葬は、政府が全国民に対して一政治家の死を悼むように要求するわけだから、非常に重大な事案のはずです。十分な議論を踏まえて国民的合意形成のために最大限の努力をすべきだった」(内田樹・神戸女学院大名誉教授、9日付沖縄タイムス=共同)。この主張は、「国葬」そのものの存在は否定しない、むしろ容認・肯定している。問題の核心を外しているばかりか、きわめて危険な主張と言わねばなりません。

「国葬」は誰のものであろうと、どのような「ルール」をつくろうと、国会にかけようとかけまいと、認めることはできません。「国葬」そのものを廃絶することが必要です。

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