アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

朝鮮戦争の休戦・終戦に抗った天皇裕仁と安倍晋三

2023年07月27日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 7月27日は、70年前(1953年)のこの日、朝鮮戦争の休戦協定が締結された日です(当事国は朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)、中国、韓国、アメリカ=写真左)。朝鮮戦争はまだ終わっていません。朝鮮とアメリカ(「国連軍」)・韓国の戦争は継続中です。それを理解することが朝鮮半島情勢と日本の関係を把握するための必須条件であり、1日も早く平和協定を締結して朝鮮戦争を終結させる必要があります。

 ところが日本は、そもそも植民地支配で朝鮮戦争の根源をつくったうえ、アメリカの兵站基地となり、機雷掃海など直接朝鮮戦争に参戦したばかりか、その休戦・終戦(平和協定締結)に一貫して反対してきました。その中心人物が、天皇裕仁と安倍晋三元首相です。

 スターリンが死去(1953年3月5日)し、「朝鮮戦争休戦」の機運が高まっていた最中の1953年4月20日、天皇裕仁は離任する米国特命全権大使ロバート・ダニエル・マーフィーを皇居に招きました。その時のもようを豊下楢彦氏はこう記しています。

「(裕仁は休戦を)歓迎するどころか、全く逆に「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日本人の世論にどのような影響をもたらすか憂慮している」と述べるのである。なぜなら「日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している」からなのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)

 裕仁は敗戦直後、「国体」=天皇制護持と自らの戦争責任追及を回避するため、沖縄をアメリカに差し出す「沖縄メッセージ」(1947年9月19日)をアメリカに送りました。
 そして、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約(1951年9月8日調印)締結を裏で工作し、それによって植民支配した朝鮮人や台湾人を切り捨て、沖縄はじめ全国を米軍の基地化しました(全土基地方式)。

 そうやってアメリカ従属体制をつくった裕仁は、朝鮮戦争が終わって半島に平和の機運が訪れ米軍が日本から引き揚げるような事態になることを「不幸」と考え怖がったのです。「朝鮮戦争は昭和天皇をして、米軍の存在の重要性に関する認識を決定づけるものであった」(豊下氏、前掲書)のです。

 その裕仁の対米従属を引き継いだのが安倍元首相でした。

 5年前の2018年4月27日、韓国・文在寅大統領と朝鮮・金正恩委員長の歴史的会談が行われ、「板門店宣言」が発表されました(写真右)。「宣言」には、「(朝鮮戦争)停戦協定締結65年になる今年、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で堅固な平和体制構築」に向かうと明記され、平和協定締結の機運と期待が大きく高まりました。

 それに水を差したのが安倍氏でした。
 「板門店宣言」の翌日、安倍政権は、朝鮮のいわゆる「瀬取り」を監視するためと称して、「オーストラリア軍とカナダ軍の哨戒機が沖縄県の米軍嘉手納基地を拠点に警戒監視活動を行うと発表」(2018年4月29日付朝日新聞)したのです。

「両国軍機の嘉手納飛来は異例」(同日付沖縄タイムス)のことでした。それは、「豪州、カナダ両軍が今回、在日米軍基地を拠点に活動する根拠は朝鮮戦争に伴う国連軍地位協定に基づくもの」(同朝日新聞)だという意味を持っていました。安倍氏は「異例」の手段を使って「朝鮮戦争に伴う地位協定」をアピールし、平和協定締結に抗ったのです。 

 天皇裕仁や安倍元首相のこうした朝鮮戦争休戦・終戦への敵対を、日本人は歴史の事実として知る必要があります。
 そして逆に、朝鮮戦争平和協定の早期締結、朝鮮半島の平和的・民主的統一の世論を日本で広げることによって、裕仁や安倍がつくった負の歴史を塗り替える必要があります。
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