アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記260・見過ごされた「はだしのゲン」の真価

2023年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 「記者だけが知っている~はだしのゲン連載50年~ 朝デジ×記者サロン」というオンライン企画が24日あった。朝日新聞の記者が取材体験を報告するシリーズ企画。タイトルにひかれて初めて参加した。故・中沢啓治氏が「週刊少年ジャンプ」に連載を始めて50年になるらしい。

 広島と長崎の若手記者の報告は平和への熱意が伝わった。しかし、全体的に期待外れだった。
 「記者だけが知っている」というタイトルだが、知らない裏話は何もなかった。

 それより残念だったのは、広島市教育委員会が「ゲン」を教材から排除した問題について、「市教委の言い分も分かる」と理解を示したことだ。到底納得できない(2月18日のブログ参照)。

 さらにそれにも増して残念だった(問題だった)のは、「ゲン」の価値を「被爆・平和」の視点からしか語らなかった(語れなかった)ことだ。

 「はだしのゲン」が優れた「反核・反戦」文学であることは言うまでもない。しかし、それは「ゲン」の3分の1の価値だ。あとの3分の2は、「天皇制批判」と「在日朝鮮人差別告発」だ(2016年5月5日のブログ参照)。

 この3つが「ゲン」の真価だ。それがあるからこそ、「ゲン」は他の「反核・反戦」文学にはない輝きと生命力を持っている。この3つはバラバラではなく、深く結びついていることも「ゲン」を読めばよく分かる。

 報告者の2人と編集委員ともう1人の4人の朝日新聞記者のトークだったが、だれの口からも「天皇制」「在日朝鮮人」の言葉は出なかった。4人とも「ゲン」はすべて読んだと言っていた。それでもこの2つのテーマに触れる記者が皆無とは…。
 触れることをあえて避けたのか(タブー視)、読んでもそこに真価があると思わなかったのか。いずれにしても暗澹たる思いだ。

<今週のことば>

 窪島誠一郎氏(「無言館」館主・作家)   野見山暁治さんを悼む

 (洋画家の野見山暁治さんが6月、102歳で死去。窪島さん(1941年生まれ)は野見山さんと共に全国の戦没画学生宅を訪ね歩き、「無言館」を立ち上げた)

「考えてみれば、ある意味野見山さんと私とは、画学生たちに共通の「負い目」を抱く相克の間柄だった。野見山さんには常に「生き残った者」だけが持つ葛藤と呵責があり、レベルは違っても、私にも敗戦の対価として与えられた戦後の繁栄を生き泳いだ「成功者」としての後ろめたさがあった。
 2人を“無言”のうちに結び付けていたのは、そんな屈折した戦後日本人の持つ自問と自省があってのことだったのではないか」(7月13日付京都新聞=共同)
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