





今回の韓国訪問の1つの目的は全泰壹(チョン・テイル)に“再会”することだった。
東大門(トンデムン)から歩いて5分ほどの橋の上に、巨大な全泰壹の像がある(写真1)。6年前に友人に案内されて初めて見た時は夜だった。胴体から上の巨大な像に驚いた。「焼身自殺をした労働運動家」ということはその時聞いたが、詳細は知らないままだった。
この像からそう遠くない所(地下鉄では東大門から2つ目の鐘路3街が最寄り駅)に「全泰壹記念館」(2019年開館)があると聞いて、ぜひ行きたかった。
「全泰壹記念館」は光化門から東大門へ流れる清渓川(チョンゲチョン)沿いにある。館の前には全泰壹がベンチに座っている像(写真3)があり、横に並ぶことができる。本を持って壁から飛び出しているオブジェもある(写真4)。館内では日本語のパンフレットが用意されていて助かった(入場無料)。以下、パンフから。
全泰壹は1948年、大邱(テグ)の貧しい家に生まれた。父親が事業に失敗し、幼いながらも傘を売ったり靴磨きなどで生計を担った。
17歳でソウル(東大門)・平和市場の縫製労働者になった(写真2)。労働環境は悲惨だった(記念館では当時の労働現場を再現)。劣悪な労働環境と低賃金。全泰壹は自分の交通費をはたいて幼い女性労働者たちにたい焼きなどを買い与え、自分は2時間以上歩いて家に帰ったこともある。
やがて労働環境・条件を改善するため「バボ会」「サムドン会」(労働組合)を結成した。労働基準法を勉強し、労働実態を調査して労働庁に陳情した。しかし労働条件は全く改善されず、全泰壹は「労働基準法火刑式」(パンフの言葉。焼身による抗議のこと)を執り行うことを決心した(1970年11月13日、享年23)。
全泰壹の焼身抗議は、労働問題に対する社会的覚醒を起こした。大学生と宗教界が声明を発表し、集会・デモ・追悼式などで連携を組んだ。労働現場では民主労組が組織された。(以上、パンフレットより)
その「労働基準法火刑式」を伝える写真に、全泰壹の遺影を抱きしめて、形容しがたい表情で悲しみの底にいる女性の姿が目に焼き付いた(写真5)。全泰壹の母、李小仙(イ・ソソン)だ。
李小仙は息子・全泰壹の焼身抗議を契機に労働運動に身を投じ、やがて「労働運動の母」と言われるようになった(写真6)。全斗煥政権は清渓被服労働組合に解散命令を出したが、李小仙はこれと闘い、労働組合を復活させた(1984年)。
パンフレットには、李小仙が全泰壹の遺影に語り掛けたという言葉が紹介されている。
「心配するな。私の命が付いている限り、ついに私があなたの志を果たす」
民族問題研究所(民問研)の金英丸(キム・ヨンファン)対外協力室長によれば、全泰壹は韓国労働運動の始まりで、その命日に合わせて毎年11月に労働者大会が行われているという。また、「イ・ソソン」の名を冠した合唱団もあるそうだ。息子と母の思いは今に引き継がれているのだ。
全泰壹が焼身抗議した1970年といえば、日本は大阪万博に浮かれていた年だ。日本に民主的労働運動の歴史を記録・継承する記念館はあるだろうか。連合が政権への接近を強め、労働運動の右傾化・低迷が続く日本。この分野でも、歴史に学ぶ国と、そうでない国の違いを思わずにはいられない。
<訂正>
11日付「韓国日記⑧尹大統領罷免の底流」で、見出しの「民族研」は「民問研」の、記事中の「光州事件」は「光州民主化運動」の誤りでした(すでに修正しています)。いずれも私の認識不足でした。おわびします。