トルコのトピックス

トルコの新しい話題をご紹介しています

ブルガリア人旅行者がエディルネでPCRテスト受けている

2022年01月26日 | 国際
1月26日 トルコ北西部のエディルネに買物に来るブルガリア人たちが、ブルガリアに帰る前に、エディルネ市内でPCRテストを受けています。

 Hurriyet


ブルガリアではPCRテストは100レフ(600~700トルコリラ)かかりますが、トルコの保健施設では170リラでできます。「私たちはPCRテストを受けるブルガリア市民たちを関心を持ってみてきました。トルコではブルガリアより安く受けられるのですから」と、エディルネの私立病院の内科部長ビュレント・ハムザさんは言いました。

この2か月ほど、大勢のブルガリア人たちが買物と休暇のためにエディルネを訪れています。ところが、ブルガリア政府は、最近、国外に出た市民に対し、帰国時にPCRテスト証明を提出させることにしたため、エディルネを訪れるブルガリア人が減ってきました。ブルガリアのワクチン接種率は約27%です。

エディルネ当局は、エディルネで受けられる割安のPCRテストが、またブルガリアの人々を惹きつけるだろうと、楽観視しています。「テスト結果は1時間半で出るし、テストは非常に信頼できます」とハムザさんは言いました。

ブルガリア市民はエディルネでまず買物をし、その後、PCRテスト・センターに行きます。「テストはブルガリアでは高価です。私はワクチン接種を4回も受けているのに、ブルガリア政府は国内に入る前にPCRテストを要求します。だから私はここでテストを受けたのです」とブルガリアから来たエミン・トゥンジャさんは言いました。


トルコのシンドラーが97歳でなくなった

トルコのユダヤ人社会では有名な人物ラファエル・エスライルさんが、97歳でフランスでなくなりました。1940年代、彼は、ドイツ・ナチに捉われたユダヤ人たちを強制収容所から救いました。

 Hurriyet

エスライルさんは有名なハリウッド映画「シンドラーのリスト」に描かれた人物と同様、ナチとの闘いの日々を送りました。来週、フランスのビアリッツでエスライルさんの葬儀が行われます。

エスライルさんは1925年5月10日、トルコのエーゲ海地方マニサで生まれました。1歳のとき、両親は全財産をマニサに残し、イズミルに住む親族とも別れて、彼を連れてフランスのリヨンに移住しました。

[1943年、彼はナチに対する抵抗運動に身を投じ、ドイツ人と戦い始めました」と、フランス・ソルボンヌ大学のトルコ人研究者プナル・クラヴスさんは1月25日、ヒュリエット紙に語りました。

1947年以来、トルコで刊行されているユダヤの週間新聞「シャローム」のパリ特派員でもあるクラヴスさんは、「エスライルの使命は、ユダヤ人を強制収容所から救うために、偽の身分証明書をつくることにあった」と言いました。

ナチは1933~45年、ドイツとドイツが占領したヨーロッパ各地に1000以上の強制収容所を設けました。エスライルさんとその友人たちが、何人のユダヤ人を救ったかは定かではありません。「シンドラーのリスト」はオスカー・シンドラーの生涯を描いたハリウッド映画で、ドイツの実業家シンドラーは、1000人のユダヤ難民を彼の工場で働かすことによって、彼らをホロコーストから救いました。

クラヴスさんによると、エスライルさんは1944年1月8日、ナチ警察に捕らえられ、パリ郊外の強制収容所ドランシー・キャンプに送られ、そこで妻となるリリアンヌさんと出会いました。その後、ナチはエスライルを何百人ものユダヤ人捕虜とともに、ポーランドのアウシュヴィッツ・キャンプに送りました。

アウシュヴィッツでは110万人が殺害されています。エスライルさんは何度も逃亡を試みましたが、第2次世界大戦が終わる1945年までアウシュヴィッツにいました。1948年、リリアンヌさんと結婚したエスライルさんは、1980年代、強制収容所の日々を描いた自伝を書き、「アウシュヴィッツ居住者協会」を結成しました。

「エスライルさんは2020年5月に妻を失ってから2年後になくなりました」とクラヴスさんは言いました。イズミルのウルら地区には、彼の両親の家だった館が、いまは市のゲストハウスとして残っています。


・・・日本にも「日本のシンドラー」と言われる杉原千畝さんがいらっしゃいましたね。

   「ときどきダイアリー」ヘ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする