3月31日 トルコ市民は今日、市や地区の長や市会議員、村や地域の“村長”を26党から選出する地方選挙の投票を始めました。
地方選挙に投票する資格を持つトルコ人は5200万人。約2700万人の女性と2600万人の男性が全国の約20万個の投票箱に投票します。
地方選挙に投票する資格を持つトルコ人は5200万人。約2700万人の女性と2600万人の男性が全国の約20万個の投票箱に投票します。

この選挙は地方行政のための選挙以上のもの
選挙する人は投票所に、身分証明書、パスポート、運転免許証などの寫眞つきの公式書類を持参しなければなりません。
今度の選挙はトルコ市民にとっても、国際社会にとっても、地方行政の長を決める以上の重要性を持っています。この結果は、国内外の政治にも大きな影響があるだろうと予想されます。
この選挙は、昨夏のゲジ公園プロテストと、昨12月17日の汚職手入れ後、初めての選挙、つまり公正発展党(AKP)の信頼性が問われる選挙です。
選挙する人は投票所に、身分証明書、パスポート、運転免許証などの寫眞つきの公式書類を持参しなければなりません。
今度の選挙はトルコ市民にとっても、国際社会にとっても、地方行政の長を決める以上の重要性を持っています。この結果は、国内外の政治にも大きな影響があるだろうと予想されます。
この選挙は、昨夏のゲジ公園プロテストと、昨12月17日の汚職手入れ後、初めての選挙、つまり公正発展党(AKP)の信頼性が問われる選挙です。

エルドアン首相は自宅のあるイスタンブール・ユスキュダル地区で、2014年地方選挙の投票をしました。首相は投票後、「国民は最終的な声を聞くだろう」と言いました。
エルドアン首相はエミネ夫人、令嬢シュメイエさん、エスラ・アルバイラクさん、令息ビラル・エルドアンさん、婿のベラト・アルバイラクさんとともに、投票所の公立学校を訪れました。
エルドアン首相はエミネ夫人、令嬢シュメイエさん、エスラ・アルバイラクさん、令息ビラル・エルドアンさん、婿のベラト・アルバイラクさんとともに、投票所の公立学校を訪れました。

ギュル大統領はアンカラのチャンカヤ地区で投票しました。
「今日、私たちは、民主主義の最もよい部分を体験している」とギュル大統領は言い、「今回はいささか厳しい選挙戦だった。いま、トルコはトルコ自身の問題を見つめるべきだ。すべての市民は、わが国は強い国であり、その組織も強力であることを知るべきだ」と付け加えました。
ファースト・レディ、ハイルニッサ夫人もともに投票しました。
「今日、私たちは、民主主義の最もよい部分を体験している」とギュル大統領は言い、「今回はいささか厳しい選挙戦だった。いま、トルコはトルコ自身の問題を見つめるべきだ。すべての市民は、わが国は強い国であり、その組織も強力であることを知るべきだ」と付け加えました。
ファースト・レディ、ハイルニッサ夫人もともに投票しました。

共和人民党(CHP)のケマル・クルチュダルオール党首が投票の列に並んで順番を待っていたら、記者団から「党首も行列に並ばれるのですか」と声がかかり、「それがフツーじゃないの」と党首は答えました。
東南部の村では対立候補支持者間で銃撃殺人
3月30日、地方選挙でライバル候補を支持するグループの衝突で、8人が死亡しました。治安当局によると、東南部シャンルウルファ県の、シリアと国境を接するヒルヴァン地区のユヴァジュク村で、2家族間の銃撃戦で6人が死亡しました。

同じくシリアと国境を接する南部のハタイ県では、クルクハンのギョルバシュ村で、2人の候補者の親戚間で撃ち合いが起こり、2人が死亡したと、当局の発表がありました。
2人の候補者は無所属でした。
その他の地域では選挙は平和に行われました。東部のシイルト県では、130歳!と記されたIDカードを持ったメフメット・エセンさんが、「トルコとクルドの人々の平和と兄弟愛のために、投票に来ました」と言って、投票所に入っていったそうです。
2人の候補者は無所属でした。
その他の地域では選挙は平和に行われました。東部のシイルト県では、130歳!と記されたIDカードを持ったメフメット・エセンさんが、「トルコとクルドの人々の平和と兄弟愛のために、投票に来ました」と言って、投票所に入っていったそうです。
クリミア・タタールは自治を望んでいる
クリミア・タタール人の国民会議(Kurultay)は土曜、臨時会合を開き、自治権についての投票を行いました。
クリミアの土着の住民である30万人強のタタール人社会は、ロシア併合の賛否を問う3月16日の国民投票をボイコットしました。
クリミアの土着の住民である30万人強のタタール人社会は、ロシア併合の賛否を問う3月16日の国民投票をボイコットしました。

ロシアは今月初め、この地方を一方的に併合しましたが、タタール人はこれを遺法としています。
ロシアの法律は政府の制定した行政上の支部団体以外の団体を禁じているとかで、タタール人たちは自分たちコミュニティの団体が禁止されるのではないかと心配しています。
1944年、タタール人はロシア政府によって中央アジアに集団追放されました。そのため彼らはクレムリンの意図に疑惑を深めているのです。
ソ連邦が崩壊しはじめた1980年代後期、タタール人はクリミアに帰ることを許されました。タタール人の多くは勝手に空き地を手に入れ、新しい家を建てました。
その後、ウクライナ政府は彼らの土地の所有権を認め、タタール人は晴れて自分の土地に住み、今日までそこで働いてきたのです。
ロシアの法律は政府の制定した行政上の支部団体以外の団体を禁じているとかで、タタール人たちは自分たちコミュニティの団体が禁止されるのではないかと心配しています。
1944年、タタール人はロシア政府によって中央アジアに集団追放されました。そのため彼らはクレムリンの意図に疑惑を深めているのです。
ソ連邦が崩壊しはじめた1980年代後期、タタール人はクリミアに帰ることを許されました。タタール人の多くは勝手に空き地を手に入れ、新しい家を建てました。
その後、ウクライナ政府は彼らの土地の所有権を認め、タタール人は晴れて自分の土地に住み、今日までそこで働いてきたのです。
