「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章 血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である
第二節 計画熟し民間側第一陣を引受く
陸軍側其の他との提携に努む
井上は昭和五年十月 藤井斉 の依頼に応じ海軍側同志の連絡機関として活躍するため、
護国堂を去り上京したのであつた。
愈々上京するに当って、護国堂時代 井上を盟主と仰ぐに至つた青年や海軍将校連は
同志檜山誠次方二階に於て井上の送別会を催した。
海軍側の藤井斉、鈴木四郎、伊藤亀城、大庭春雄、
大洗青年組古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、以下数名が出席した。
井上は此時自分の意中を述べて、東京では革命革命と口では云つて居るが、
皆命を惜しんで自分の国家のため捨石にならうとする者かない。
国家に対して真の大慈悲心を抱く者が始めて革命の捨石になる事が出来ると語つて居り、
一同は無言の裡に革命のため井上と生死を共にすることを堅く誓つたとの事である。
井上は初めは気の長い宗教的方法に依る国家改造を考へて居つたのであるが
ロンドン条約以後改造運動者は一九三六年前に改造を成就せねばならないと云ふ声が高くなり、
井上も藤井と交はるに至り 之に同意し 次第に急速な手段を考究するに至り、
上京せんとするこの頃に至つてはテロ手段に依つて革新の烽火を挙げ、
支配階級に生命の危険を感ぜしめて其の自覚を促し
一方陸軍海軍民間側の革新分子が彼等の後を継いで革新の実を挙げることを期待して居つたのである。
・
彼が暗殺手段を採用した理由として
第一、同志が少ない
第二、資金が皆無だ
第三、武器兵力が無い
第四、言論機関が改造派の敵である
第五、国家の現状は一日も早く烽火を挙げねばならない
等を数へて居る。
斯くして井上は宗教的熱意を以て改造を志す数名の青年を率い、
同じく国家改造の熱意に燃える海軍士官一派と握手して愈々中央に乗り出して来た。
・
井上は直ちに金鶏会館に止宿した。
筑波旅行によつて有力たる闘士として望をかけて居つた金鶏寮止宿の上杉門下七生社同人四元義隆、
池袋正釟郎と接触し、之を同志に獲得した。
・
一方井上は大学寮以来藤井等海軍側同志が親しくして居つた西田税に近付き、
中央に於ける改造運動の情報を探り、又 北一輝、満川亀太郎、大川周明等にも面会し
北、大川の大同団結を計らうとした。
改造運営の要所要所に手を延ばし情勢を探り、藤井斉等地方にある海軍側同志に之を通報して居た。
・
同年 ( 昭和五年 ) 十二月
大村航空隊に在つた藤井斉より 九州に於ける革新分子の会合があるから来いとの通信があり、
井上は四元義隆と共に西下した。
十二月二十七日午後より翌日にかけて福岡県香椎温泉に於て
海軍側 藤井斉 三上卓 村上功 鈴木四郎 太田武 古賀忠一 古賀清志 村山格之
陸軍側 菅波三郎
民間側 大久保政夫 ( 九大生 ) 上村章 ( 福高生 ) 山口半之丞 ( 福岡県社会課 )
井上富雄 ( 天草郡小学校訓導 ) 外九大生某
井上昭 四元義隆
の会合に出席した。
その内容は之より組織を持たうと云ふ程度に過ぎず 井上は頗る失望したが、
海軍側三上卓、陸軍側菅波三郎等有力なる人々と親しくなつた。
更に 四元と共に同人の郷里鹿児島迄行き、菅波中尉と懇談を遂げ親密の関係となつた。
又大村に於て藤井の紹介により陸軍士官東少尉外数名と会つた。
其帰途 呉鎮守府、横須賀鎮守府に立寄り 藤井の統制下にある海軍士官多数と面会し、
真の同志たるべき者を探し求め、相当の収穫を得て翌六年二月帰京した。
当時井上の観察する処では陸軍側革新分子は九州に於ては菅波中尉 東少尉が中心であり
而も其運動は相当古くよりのものであり、
東北に於ては仙台の教導学校より青森聯隊に転じた大岸頼好中尉が
海軍側に於ける藤井斉の如き立場に居る有力なる中心人物であつた。
而も之等陸軍側三名は孰れも藤井斉と連絡を有して居り、菅波中尉 東少尉とは九州旅行により井上は懇親となり、
大岸中尉とは其以前 金鶏会館に於て藤井斉の紹介により相識の間柄となつて居た。
斯くの如くにして井上は藤井との連絡によつて陸軍側の青年将校の中心人物菅波、東、大岸等と相知ったのであつたが、
未だ同志として心より提携するには至らなかつた。
・
井上が九州旅行より帰ると間もなく同年 ( 昭和六年 ) 三、四月頃
陸軍側上層部に所謂三月事件なるクーデターに依る国家改造の計画があつた事が風説として一般にも伝へられた。
これは一般民間側改造運動者にも相当の刺戟となつた。
井上は上京後早々から西田税 に近付いて彼の許に集まる情報を聞いて居つたが
三月事件の情勢を西田其他より聞いて愈々改造運動に着手せねばならぬと考へた。
彼は藤井よりの依頼もあつたので民間側の巨頭である北一輝、大川周明との仲直りも策した。
井上はこの以前北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を読み、北の非凡な頭脳の所有者であるを知り、
前田虎雄と共に訪ね、自分等も国家改造のため尽力し度き意思を持つ者である事を伝へた。
北は井上等に満川亀太郎を紹介し、満川は更に井上等に大川周明を紹介した事があり、
井上は北、満川、大川とも面識があつたのでその大同団結を計らうとしたが、
西田税が北の幕下であり 大川を口を極めて避難したので、
井上は此の様な情勢にては北、大川の提携は不可能であることを知った。
即ちこの両者は相対立する関係にあるので北、西田と結べは大川と提携し得ず、
大川と結べば北・西田とは対立することを知った。
井上は同志として握手している藤井斉一統が西田と親しい間柄であるので、
大川と結べは遂には藤井等をも失ふに至るであらうことを考慮し、
西田と提携し西田を擁して国家改造に進むことを決意した。
そして井上は西田に近付き提携して改造に進むに至つた。
・
当時西田は日本国民党より脱退を余儀なくされ、
一方陸軍側 菅波、大岸等とも天剣党事件以来往復をして居らず、寧ろ不遇の状態であつた。
民間側改造運動 津久井一派の如きは西田を大いに非難して居る有様であつたが、
井上は西田が大学寮以来改造運動に従事すること十余年、
其の間彼が尽くした貢献は大なるものがある。
自己に生活の資を得る途のない彼が
有資産者、俸給生活者の如く公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ当然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。
現代史資料4 国家主義運動1 から
次ページ 血盟団・井上日召と西田税 2 『郷詩会の会合』 に 続く