あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國家改造運動・昭和維新運動 2

2021年09月23日 12時09分39秒 | 國家改造・昭和維新運動

二・二六事件は、いわゆる 「 國家改造運動 」 「 昭和維新運動 」 が、
最大の規模の直接行動となったものである。
事件の決行者であった靑年將校らの敗北と処刑によってそれは終熄し、
「 運動 」 もまた、ここに大きな劃期を印すこととなった。
・・・國家改造運動・昭和維新運動 1

 昭和天皇と鈴木貫太郎

最初に記したように、二・二六事件はこの運動の頂点となった直接行動である。
ところが事件の収拾から、軍事裁判へと進んでいった時、
決行した将校たちを苦悩の底におとしいれたのは、
自分たちの行動の正当性の根源であると信じていた 天皇・國體 が、
此の世の政治からきり離
された超然たる信仰対象ではなく、
現実の政治的最高主権者であり、
頗る人間的反応を示し、
討伐の実行を権力層に命じる西欧におけると同じ元首だったということである。
この事件の判決こそは、
彼らが、攻撃目標とした --事実殺害した-- 権力層の、その頂点に立つ天皇の彼らへの回答なのであった。
この苦悩の底から天皇制の本質を剔抉しているのが磯部浅一の 「
獄中手記 」 である。
青年将校がニ・二六事件を決行し、
内大臣という天皇の唯一の政治顧問をはじめ、首相以下の大官を襲撃した時、
つまり 「 蹶起趣意書 」 にうたった 「 稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除 」
し 「 奸賊を誅滅シテ大義ヲ正シ、國體ノ擁護開顕 」 せんとした瞬間 出てきたのが 「 大臣告示
」 である。
これは事件の起きた日の正午頃から軍事参議官が宮中に集った会議の席で作成された文書である。
「 告示 」 は五項目からなっているがその全文は本書の五八九頁にある。
第二項 「 諸子の行動は國體顕現の至情に基くものと認む 」 は、
叛乱行為を明確に肯定し かつ、 「 蹶起趣意書 」 に十分応えたことを意味する。
叛乱を起した靑年將校たちが、之れを読んで 「 昭和維新成れり 」 と 一瞬信じたのは当然である。
だが この第二項が事件に直接的にかかわるものとすれば、
第三項 「 國體の真姿顕現 ( 弊風を含む ) に就ては恐懼に堪へず 」
第五項 「 之れ以上は一つに大御心に俟つ 」 は、事件の処理を天皇に一任して甚だ漠然としている。
具体的処理という実務を、天皇がとられるはずはないという、考え、
逆に天皇は神であらせられるのだから無謬であり、
したがって自分らの真意に十分に添うよう処理して下さるはずだという、期待を持った。
このことは彼らの 「 獄中遺書 」 でうかがえるのである。
もちろんこの 「 告示 」 は当然公表されていない。
叛乱軍にこれを伝えるべく命ぜられた堀第一師団長、橋本近衛師団長のうち
橋本師団長にいたっては、「 こんな怪文書 」 といって握りつぶしてしまったという。
まして新聞にも報道されず、一般の国民誰一人、この 「 告示 」 の存在すら知る事はなかった。
これがどんなに当時は秘密にされていたかは次の事例でもわかる。
この 「 告示 」 の問題を衝いた --もちろんこれのみではないが-- 磯部浅一の 「 獄中手記 」
の一部が刑務所に面会に来た磯部夫人から岩田富美夫 ( 北一輝の門下、大化会会長、このときは、やまと新聞社長 )
の手に入った。・・・リンク→磯部浅一の嘆願書と獄中手記をめぐって 
岩田はこれを絶対に公表しないことを取引の条件として、
第一次処刑の後、獄中にいる、北、西田、磯部、村中孝次の救命
( 磯部、村中の死刑判決の有期刑への減刑、北、西田の刑量考慮 ) を杉山陸相に迫った。
しかしこの交渉の間、直心道場の一員が、磯部夫人から一日この 「 手記 」 を借り、
謄写して一部の人々に発送してしまった。
これが 「 磯部怪文書 」 といわれ、憲兵隊に押収され、
杉山陸相は岩田に 「 約束を破った 」 として交渉を御破算にしてしまった。
関係者は不穏文書臨時取締法違反で検挙あるいは留置された。 ( 磯部夫人、西田夫人も含む )

磯部浅一 ・ 獄中手記 
・ 磯部浅一 獄中日記
・ 
磯部浅一 ・ 獄中からの通信

このように一般には、その存在すら知られておらず、
叛乱を起した靑年將校には、唯一の約束の文書であった 「 大臣告示 」 が具体化された結果が
一九名刑死という判決であった。
判決を知った國民の大多数には、陸軍の断固たる決意の現れと感じられた。
しかし國家主義者たちには、もともと陸軍に対する彼等の期待と一体感ともいうべき親近性があったのである。
本書x1iii頁にある吉村検事の報告に
「 実務上感ずる事柄は今日右翼団体の活動の背後には必ず或る種の強力なるものの存在することなり 」
とあり、婉曲えんきょくな言いまわしであるが 「或る種の強力なるもの 」 とは陸軍を指している。
だからこの峻厳な判決の背後に、
あらためて元老、重臣と一体となっている天皇の存在を感じざるを得なかった。
彼らは 「 昭和維新運動 」 はこの事件をもって、ひとまず終熄したと判断するに至る。
このことは後に紹介する
「 新聞紙雑誌に現れたる二十六日事件の批判 」 の一節が如実に物語っている。

昭和維新運動が、
「 君側の奸の芟除 」 と 「 國體の擁護開顕 」 に最終の目標がおかれたとすれば、
ここで 「 國體 」 とは、彼らにとり、どう観念せられていたかが問題となる。
これは遠く 明治末年の一木喜徳郎・美濃部達吉 対 穂積八束・上杉慎吉の論争にまでさかのぼる。
この論争が純然たる憲法上の論争にとどまらず
最後に昭和十年の國體明徴問題 ( 天皇機関説問題 ) と爆発し、
この機関説問題が 「 無血クーデター 」 とまでいわれるほど
國家主義運動の一大劃
期を呈したのは一つは上杉の存在による。
上杉は東京帝國大学教授であって、
同時にまた桐花学会 ( 大正二年 )
経綸学盟 ( 大正十二年 )
七生社 ( 大正十四年 ) の創立者、会長であり、
建国会 ( 大正十五年、会長赤尾敏で、初期の頃は井上日召、前田虎雄も関係す ) 顧問でもあった。
東京帝大の教え子、また薫陶を受けた者には 天野辰夫 ( 新兵隊事件の首謀者 )、
四元義隆、池袋正釟郎、田中邦雄、久木田祐弘 ( いずれも東京帝大の学生で血盟団の一員 ) 
を出している。
昭和九年九月十一日、血盟団事件の公判廷で林逸郎弁護人は
「 昭和維新促進連盟に於きまして相集めました減刑の 『 上申書 』 壱千四百枚を御覧賜りたいと思ひます 」
として藤井五一郎裁判長に 「 減刑上申書 」 を提出した。
その第三章は 「 國家革新運動の醸成 」 と題され、
第一節の(一)は 「 天皇機関主義の思想 」(イ) 「 逆徒一木喜徳郎 」 という見出しから始まっている。
ここで林は一木が明治三十二年に出版した 『 國法学プリント 』 をあげて一木を批判する。
その最大の要点は 「 憲法が國務大臣は元首の行為に付ても責に任ずることを規定せるは 即ち、
国務大臣に与ふるに元首の命令の適法なるや否やを審査するの権を有し
従て其違法と認むるものは之を執行せざる責任を有する 」 という一木の学説にあった。
ここで元首とは、日本では天皇である。
國務大臣には、天皇が下す命令を審査する権利を持つ、
また 天皇の命令に違法があるかもしれないとは、何事か、
それでは 「 斯の如き説を仮に信じますならば國務大臣の地位は洵に元首の地位の更に上位に位する 」
こととなると林は一木学説を批判したのである。
政党政治にあっては、立法府たる議会を構成する議員を過半数集めた者が内閣総理大臣になる。
その議員とは何者か、
三井、三菱、住友という大財閥から地方財界におよぶ独占資本から選挙資金を貰い、
日頃金を得て養われている走狗である。
選挙ともなればこの金を使い、法定選挙費用違反に始まり、
各種の違反、買収をやって当選してくる犯罪人なのである。
提出する法案、成立する法律は國民生活よりも、
この財閥の利益を必ず優先させ、自党と自己の利益のみ考え行動する。
この犯罪人を過半数集めた者が首相になり、国務大臣を決定する。
かくて立法府と行政府の長は同一人で、しかも司法大臣もまた首相が任命するとすれば、
憲法にうたった三権分立の定めは有名無実ではないか。
この國務大臣が天皇を審査するとは---と批判し攻撃するのである。

「 最近の右翼思想運動に就いて 」 において、
佐野検事と被告との間に 「 幕吏 」 問答がなされたことが記されているが、
この被告とは血盟団員を指している。
彼らは以上のごとく、首相以下、政治を担任する者、これを支えている者を 「 君側の奸 」 とし、
林と同じ論旨を幾度も陳述している。
内閣、議会が天皇を機関としてのみ扱って権力をほしいがままに行使するとき、
政治を担う人々の一群を幕吏とみたてた。
相澤事件前後に出た怪文書には、
林陸相、永田軍務局長で動かされている陸軍を幕府になぞらえたものがあり、
また、後の大政翼賛会を幕府だと攻撃して骨抜きにしたのも同じ発想である。
一木の学説は
「 天皇と議会とは同質の機関とみなされ、一応 天皇は議会の制限を受ける 」
というにあった。
美濃部学説は
「 立法権に関する議会の権限を天皇のそれと対等なものに位置づける 」、
「 原則として議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない 」
という。
この一木・美濃部学説についての議論は、ここでは問題でない。
ただ 昭和初年の政党内閣が失政を繰り返すばかりか、疑獄 ( 汚職 ) の続出などによって
議員を犯罪人だと断定していた國家主義者には、
「 議会は天皇の命令に服するものではない 」
という説は到底承認しえなかったであろう。
ましてこの時、天皇とは彼らにとっては神であったのである。
また美濃部は 「 國體 」 は 「 本来法律上の語ではなく
歴史的観念もしくは倫理的観念 」 だとして 「 政體 」 と峻別しているが、
國家主義者には、この区別こそ重大であり、行動への起爆力となったのであった。
「 國體 」 は観念ではなく、実存する天皇と一體化している、倫理的かつ政治的実体であり、
神聖にして侵すべからざるものであった。
「 政體 」 は内閣総理大臣を長とする、下からの國民の代表の集団であり、
交代を前提とする政治機構にすぎなかった。
まさに中江兆民がいうごとく
「 政府とは何ぞ、役人と成りたる人民の集合体 即ち是れなり 」
であった。
だからもし政府が、悪しき政治を行っていると判断すれば、
いかなる手段 --時には暗殺しても-- を用いても打倒しなければならない。
これが、國體 ・天皇に忠実なる人間の責務だと信じていた。
相澤中佐は 「 上告趣意書 」 に、
「 永田を殺さずして台湾に赴任することは不忠であり、永田を殺して台湾に行くことこそ、忠義である 」
と のべている。
・ 相澤三郎 ・上申書 1 
・ 相澤三郎 ・上申書 2 

また 二・二六事件の 「 憲兵調書 」 で叛乱軍の将校は、
第一師団が満洲に移駐する前に 「 君側の奸の芟除 」 をしなければ、
國家の為に、なすべきことをなさないという結果になる、
と 陳述している。

「 昭和維新運動 」 とは、
大日本帝國憲法第四条 「 天皇ハ國ノ元首にして統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ 」
ヲ超えて 第三条 「 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ 」 を絶対化してしまう運動なのであった。
たとえば、相澤中佐が死の直前まで唱えていた言葉は 「 尊王絶対 」 であった。
・・・リンク→
新聞報道 ・ 第一回公判開廷 『至尊絶對』 
だが 二・二六事件が決行されたとき、
天皇は 「 第四条 」 通りの元首であった。
天皇は元首として事件を起した軍隊を自ら最初に 「 叛乱軍 」 と定義し、討伐を要求した。
この強い意志 ( 大御心 
) は、腰を浮かし、去就定まらぬ陸軍の首脳を叱咜して急速に事件を終熄させたのである。
「 磯部手記 」 に代表される、この大御心の実體につき当り、天皇信仰が崩壊していく過程は、
戦後になり、遺書、手記が公刊されるまでは、國家主義者はもとより殆どの國民には不明であった。
前に述べたように苛酷な刑の実行は、ひとえに陸軍の意志と受けとられたのであった。

つぎに内乱の問題。
事件四日間の後半二日は叛乱軍と包囲軍との間に 「 皇軍相撃 」 という事態の発生が予想されてきた。
叛乱軍は 「 大臣告示 」 第二項で自分らの行動は天皇に承認されたと安堵し、
第三項により、國體の真姿は顕現したと、その目的達成に楽観し、
第五項により、あとは天皇がよろしく処置して下さることと確信して、
占拠地帯を動かなかった。
他方、この事件に対する 「 大御心 」 の内容を知った陸軍の首脳部は、
高崎、甲府、佐倉にある歩兵聯隊を東京に終結し、残留した近衛師団の兵とともに叛乱軍を包囲した。
ここで叛乱軍と包囲軍が戦端を開けば、「 皇軍相撃 」 =内乱は十分に予想された。
地方にある聯隊には東京の状況は正確に伝わっておらず、
旅団長、連隊長、師団参謀長という上級者には判断停止に陥っていた者もあり、
まして天皇の意志が那辺にあるかなどは全然不明であった。
だからもし両軍が弾丸を撃ち合ったとなれば、必然的に隊付將校を中心に動揺を来し、
第二の蹶起が続出する懸念があった。
内乱の招来である。
内乱とは権力を持つ人々には、秩序の崩壊、國體損傷の危険を来すものであった。
叛乱軍には、陛下の軍隊の同志討ち、戦友との殺戮であった。
この両面からの危機感が辛うじて相撃を回避せしめ、
叛乱軍の降伏をもって事件は終結したのである。


現代史資料23  国家主義運動3
解説

二・二六事件以後の国家主義運動について
1 はじめに   ・・を書写


この記事についてブログを書く
« 井上日召 『 血盟團 』 | トップ | 國家改造運動・昭和維新運動 1 »