あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

國家改造運動・昭和維新運動 1

2021年09月25日 15時32分15秒 | 國家改造・昭和維新運動

昭和十一年七月十二日
十五名が処刑された時、獄中にあった西田税が
かの子等はあを
ぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもすおもふ 
と 歌ったように
「 涯なるくに 」 に 「 かの子等 」 は消え去ったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二・二六事件は、いわゆる 「 國家改造運動 」 「 昭和維新運動 」 が、
最大の規模の直接行動となったものである。
事件の決行者であった靑年將校らの敗北と処刑によってそれは終熄し、
「 運動 」 もまた、ここに大きな劃期を印すこととなった。
ここで彼等を行動にかりたてた「 國家改造運動 」、「 昭和維新運動 」
というイデオロギーの生れてくる過程を簡単に辿ってみる。
大正六年十月のロシア革命、
大正七年八月の米騒動、
大正七年十一月の第一次世界大戦の終結、
それにつづいて、戦後世界をおおった民族自決主義と世界的 「 改造 」 熱、
デモクラシー・自由主義の流行、
イタリーのファッショ独裁政権の出現、
こうした事件や状況を背景に、「 改造 」 という言葉が、新鮮な響きで人々に意識されるようになる。
雑誌 「 改造 」 は大正八年四月に創刊された。
吉野作造は民本位主義を提唱し、
日本共産党が大正十一年七月に非合法ながら結党された。
自由学園という名の学校も成立された。 ( 大正十年四月 )
この新しい改造時代の到来を如実に示す一つの例が老壮会の集りであった。
会の実質的世話人であった満川亀太郎は 『 三國干渉以後 』 ( 昭和十年九月、平凡社 )
老壮会の前身 「 夜光会 」の集りから老壮会になるまでの回想を記している。
この本の第十章は 『 改造運動揺籃期 』 と題されているが、
その冒頭の一節に左を引用して、この頃の運動家の持つ雰囲気を知る一端としたい。
米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想とは、
大正七年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき一個の契機とさへ見られた。
一つ誤てば国家を台無しにして終ふかも知れないが、またこれを巧みに応用して行けば、
國家改造の基調となり得るかも測り難い。
そこで私共は三年前から清風亭に集まって、時々研究に従事しつつあつた三五会を拡大強化し、
一個の有力なる思想交換機関を作らうと考へた。
かくして老壮会は出来上がつた。
老壮会の創立第一回の会合は、大正七年十月九日午後六時清風亭に開かれた。
・・・・・。
この老壮会の会員の右派が、いわゆる 「 國家改造運動 」 の指導者や、各種団体の中心人物となった。
周知のごとく 北一輝は大正八年八月上海で まさに直截的な題名をもつ
『 國家改造案原理大綱 』 ( 後の 『 日本改造法案大綱 』 ) を 書き上げた。
なお大川周明は、この時期の改造運動の傾向について説明している。
それは
第一、無政府主義的、
第二、共産党となるもの、
第三、社会民主主義的、
第四、國家社会主義的、
第五、猶存社を中心とするもの、
の 五つであるとしている。
満川、北、大川は国家改造を画策し、
これを実現する運動の第一歩として猶存社を結成した。( 大正八年八月一日 )
大川は後に北と別れ 大正十四年二月十一日 ( 紀元節の日 ) に行地社を設立する。
このとき定めた行地社の綱領と機関誌 「日本 」 でのべた、いわば行地社宣言の一節には
「 行地運動は國家改造運動である 」 と 明確にうたっている。
同時に陸軍においても、
さきの大戦終結前後の内外の風潮や諸事件に無関心ではありえなかった。
とくに戦車、戦闘機、爆撃機、毒ガス等の新兵器の出現は、
これまでの戦略、戦術に一大転換を招来することを予想させるに至った。
また ロシア革命の勃発からロシアの単独休戦、
自國に敵の一兵も侵入せしめずして降伏したドイツの状況をみて、
今後の戦争はたんなる戦場の勝敗のみで決するのではなく、
思想、経済もまた戦争に大きく繰り込まれるものと判断した。
この判断は、本書の 「 國家総動員に就て 」 の解説でふれるように、
整備局の新設、内閣資源局の設置となって具体化する。
大正十四年五月の高田、豊橋、岡山、久留米の四個師団廃止を骨子とした宇垣軍縮の目的は、
結果はともあれ、歩兵師団を縮小して重機関銃、戦車、航空機の増強をはかったものであった。
こうした改造機運を陸軍の軍人としてもっとも端的に表明したのが陸軍大佐小林順一郎であった。
小林は陸軍砲工学校、同高等科を、ともに主席で卒業し、あえて陸軍大学には入らず、
フランスに駐在する。 ( 明治四十二年--四十五年 )
第一次世界大戦でフランス軍に従軍を命ぜられ、
大正五年八月から同十一年二月までフランスに駐在した。
彼はこの戦争に参加し、また講和会議での平和条約実施委員となって、
つぶさに新しい戦争における化学兵器の威力を目撃し、その体験、知識から、
日露戦争時とかわらぬ歩兵の肉弾戦を基幹とする我が陸軍の戦争方式に抜本的改革を行う必要を痛感し、
自分の意見をまとめて山梨半造陸相に提出した。( 大正十一年、小林四十三歳のとき )
しかしこの意見の容れられる余地の全く無いのを知った彼は、大正十三年二月 自ら軍籍を退いたのである。
フランス人を妻とし、陸軍でもっともフランス語に堪能であり、かつ砲工学校以来フランスで勉強した小林は、
野に下るや山梨陸相に提出した意見をもとに一著を公刊した。
この小林の意見がいかに抜本的であったかは、日本の陸軍を一度解散して新軍を編成せよという主張でも知られる。
そしてこの著の題名が 『 陸軍の根本改造 』 であった。 ( 大正十三年十一月、時友社 )
小林の場合は野にあっての提言であるが、現役軍人として陸軍を改造し、ひいては日本の改造を意図し、
それを着々と実行していった軍人たちがいた。
永田鉄山を中心とする軍人たちである。
彼等は昭和の初頭、双葉会、一夕会の名でしばしば会合を続け、方策を練っていたのであった。
その最初の具体的なあらわれが満洲事変であり、この事変の計画と実行には一夕会の会員であり、
共に論じあった仲間である関東軍高級参謀板垣征四郎、参謀石原莞爾、
陸軍省の軍事課長永田鉄山の緊密な協力が強く作用していたといわれている。
爾来日中戦争、太平洋戦争において一夕会に集まった軍人は戦争の指導者となり、
東條英機に代表されるごとく、政府の首脳ともなった。
彼らが実現せんとした改造とは、一言にいえば軍事はもとより、
思想、政治、経済のすべてを軍政の下に一元化する 「 國家総動員体制 」 を完成することであった。

しかしながら右のごとき陸軍の上級將校、とくに省部  ( 陸軍省、参謀本部 ) の枢要な地位にあった將校たち、
別の言葉でいえば 「 幕僚 」 による國家改造運動とはまったく別個の方式で、
同じく国家改造を目ざし 運動を続けた下級将校---憲兵隊の書類の上では 「 
一部青年将校等  と記載され、
通称では、「 靑年將校 」 と呼ばれ、勤務上の区分から 「 隊付將校 」 といわれた---の一団があった。
この軍人たちが後年 二・二六事件を起すのである。
彼等の 「 國家改造 」 とは何を意味し、どう実現するのか。

西田税 
ここであらためて考えられるのは西田税の存在であろう。
西田は陸軍士官学校在学中 北の 『 支那革命外史 』 に大なる影響を受け、
当時の言葉で 「 大アジア主義者 」 の自覚を持つに至る。
広島幼年学校を首席で卒業 ( 大正七年七月 ) 
陸士では秩父宮と同期生。
秩父宮とは「 殿下に特別親近した一人 」 だった。
秩父宮がイギリスに留学にあたって意見書を呈している。
大正十四年 病気を理由に軍籍を退いた西田は上京して大学寮に入る。
この大学寮時代に陸士の後輩でニ・二六事件まで國家改造運動を続ける
菅波三郎、大岸頼好、末松太平、村中孝次らと相識り、
海軍の藤井斉や五・一五事件の首謀者となった古賀清志との交わりも始まるのである。
大川と北とが分離してから、西田は生涯 北の忠実かつ唯一人の門下となる。
北が西田を必要とした一つの理由は、
北が中国革命から得た教訓---近代國家の革命は下級將校と下士官、兵の武力によってのみ達成される。
大隊長 ( 少佐 ) 以上の軍人は権力層の一員で必然的に腐敗している---から、
西田の下に集る靑年將校への大なる期待にあった。
この西田に 「 無眼私論 」 という 随想録がある。
陸士在学中に病気で入院中に書いたもので大正十一年三月十一日より筆を起している。
「 而も十億の同族が涙ににじむ今宵の月 」 のように大アジア主義が感傷的にうたわれたりしているが、
三月二十日付の随想には 「 大正維新 」 という表題で頗る重大な考えが述べられている。
たとえば
「 大権---神聖なる現人神の享有し給ふ心理実現の本基たるべき---の発動による國家の改造、
『 クーデッタ 』 吾等はこれを断行しなければ無効だと信ずるのである。
---爆弾である。剣である。」
と。
次の一節は 「 昭和維新 」 の本基 についての考え方を見事に示している。
今や現実を直視するとき、一たび明治維新の革命に於て建設したる
「 天皇の民族である、國民の天皇である 」 といふ理想を闡明せんめい
燦然さんぜんたる真理の聖光を宇内に宣揚したる至美の真日本は已に已にその一端をも留め得ずして
後人理想の誤り 真理を忘れ、至聖至美至親の天皇は民族国民より望み得ず
両者の中間には蒙昧愚劣不正不義なる疎隔群を生ずるに至つたのである。
この中間の 「 蒙昧愚劣不正不義なる疎隔群 」 の排除を、
爆弾と剣によるクーデターで実現すること、
この要求が 「 昭和維新断行 」 への直接行動のエネルギーの源なのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
佐郷屋留雄  井上日召
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

佐郷屋留雄の浜口雄幸首相暗殺事件 ( 昭和五年十一月十四日、死去は翌年八月二十六日 ) 、
血盟団事件 ( 昭和七年二月九日、三月五日 )、五・一五事件 ( 昭和七年五月十五日 )
と 連続し、最後に二・二六事件に至る。
昭和維新運動には、この 「 疎隔群 」 の打倒にその目的の一つがあった。
即ちこれらの事件の報告の被告の法廷での陳述や、いわゆる怪文書、
二・二六事件の 「 蹶起趣意書 」、「 獄中遺書 」 などには、
「 君側の奸を排除し、斃して天皇と国民が直結する、即ち天王親政の政治体制を実現する 」
ことが繰り返し述べられているのである。
当時の政治、社会、経済の状況は、政党政治が自党の政権獲得と維持に狂奔し、
國民不在の政治に堕し、さらに資金関係から党人は腐敗し、
確かに彼らのこの信念を強めさせる客観的状況を展開していた。 
「 疎隔群 」 たる 「 君側の奸 」とは、
元老 ( 西園寺公望 )、重臣 ( 総理大臣の前官礼遇者、内大臣、侍従長、区内大臣らをいう )
軍閥、財閥、政党、官僚の首脳を指している。
國家を改造する、という第一次世界大戦終結前後頃より起った運動に
維新 という意識をもちきたしたのは西田だけではない。
たとえば大川は行地社の綱領第一項に 「一、維新日本の建設 」 とうたい、この綱領第一の説明をしている。
「 維新日本の建設とは 」 「 君臣君民一体の実を挙げる 」 我國を現出することであり、
「 君民の間に介在して一体の実を妨げるものが現れた場合は晩かれ早かれ其の介在者を掃蕩して
國家本来の面目に復帰せしめずば止まぬ、」 
すなわち天皇と国民との間の権力たる 「 介在者の掃蕩 」 が維新運動である。
「 介在者 」 は西田のいう 「 疎隔群 」であることはいうまでもない。
『 日本及日本人の道 』 ( 大正十五年二月、行地社出版部 ) において雑誌 「 日本 」 に宣言したのと同様に、
行地社の名の由来をのべ、行地社は今後何をなさんとするかをのべている。
そしてここでも 「 かくて行地同人は維新日本の建設に一身を献げる 」 といっている。

大川・西田に代表される 維新 とは王政復古を実現した明治維新につらなっている。
しかし昭和時代になって実際に 「 昭和維新運動 」 で直接行動をなした人々の法廷での陳述、
獄中遺書を読むと、彼らの行動の歴史的範例の一つは大化改新にもとめられていたことがわかる。
それは天皇の眼前で皇太子とともに革新を志す者が、君側の奸---蘇我入鹿---を暗殺したという事実に、
自分らの行動のありうべきイメージとの一致を見い出していたのである。
大化改新をこう解釈しうるかどうかは別の問題であろうが、彼らの理解はこうであったのだ。
国家を改造するには維新を断行しなくてはならない。
それでは維新とは何か。
これは西田の 「 随想録 」 大川の所説からでもその一端がうかがえるが、次のようなものと思われる。
天皇は神であるとともに日本を統治する最高の主体である。
神には信仰も思想も倫理も、統治には此の世のすべての政治行為が、天皇に帰一し奉っている。
この天皇が君臨する日本において、現実に悪い政治が行われていれば、
それは全く、現在政治を担当している人々と、これを支える人々、即ち権力層が悪いのである。
だからこの人々を君側の奸して屠つてしまえば、
天皇がいるのだから、日本はおのずから良くなる、という論理である。
この場合、天皇はいわば絶対の規範として考えられた。
これが後にいう彼らの 「 國體観念 」 である。
だから西欧の革命と 維新 が根本的に異るのは、
革命が最高主権者を打倒して政治変革をめざすのに対し、
維新 は絶対にこの最高主権者には手をふれず、
それどころか、そこに自分たちの行動、運動の正当性の根源を置いたのである。


現代史資料23  国家主義運動3
解説

二・二六事件以後の国家主義運動について
1 はじめに   ・・を 書写
次のページ  国家改造運動・昭和維新運動 2
へ続く