あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』

2021年09月15日 08時24分54秒 | 井上日召

「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 ( 司法省刑事局 )
第一章  血盟団事件
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、

東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である


井上日召

第二節  計画熟し民間側第一陣を引受く
十月事件挫折後、西田 、菅波一統 陸軍側同志 俄に態度を改む
併し、十月事件は暗から暗へ葬られ、
首脳者となつて大活躍をした橋本中佐以下十数名が
重謹慎処分の名義で最高二十日間位 各地の憲兵分隊長官舎に分宿せしめられ、
其後地方に転勤を命ぜられたに止り、其他の関係者に対しては何の処分もなされなかつた。
従つて十月事件総ての準備を終り 一命を抛なげうつて事に当らうと待機して居つた井上一統、
海軍側同志 及 西田、菅波一統に於ては十月事件の挫折により何等打撃を受けかつた。
彼等は孰れも古くより国家改造を計画しその貫徹に進んで来たのであるが、
十月事件当時は偶々陸軍の大勢力が動く形成にあつたため、之に便乗しようとしたに過ぎず、
その挫折に依つて古くよりの決心に何等動揺を来さず、
却つて其の後は十月事件の如き他の計画に便乗するに非ずして、
彼等が手動的立場に於て事を挙ぐべき順序となつたのである。
井上一統及海軍側に依つて行はれた血盟団事件、五・一五事件はこの流れを其儘延長せしめたのであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に程度を変化し、従来提携し来つた井上一統及海軍側の勧誘に応ぜず、
満州事変により国際情勢緊迫の際 国内改造を計る時期に非ずと称して蹶起を肯ぜざるに至つた。
その結果、井上一統海軍側同志は斯く陸軍側の豹変したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、
遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。

右の如き経過のみを以てすれば、
血盟団被告等が西田を非難する如く西田、北等は革命ブローカーに過ぎずして、
真に革命に殪れる覚悟なきものと推断し得るのであるが、
其後 西田、菅波一統の革新の激流は
救国青年埼玉挺身隊事件、十一月事件、永田軍務局長殺害事件に其の物凄き片鱗を示し、
遂に二・二六事件の大爆発となつて自らも殪れて行つたのである。
これより観れば 北、西田等を以て真の革命精神なきブローカー輩と断ずる事は出来ない。
然らば如何なる原因が十月事件直後 西田、菅波一統をして
従来急進的であつた態度を俄かに漸進的にせしめ 一歩退却せしめたのであらうか。
満州事変により国際関係の悪化を顧慮した点もあらう。
西田等は革命は一生一度しか行ひ得ざるものであることを堅く念頭に置いた点も事実であらう。
併し 俄かに陸軍側の態度を変じたのは
十月事件後間もなく内閣更迭により荒木陸相の出現した事が最も大きな原因と考へざるを得ない。
武力を有する陸軍の一部が国内の政治機構を一挙に変革せんとした
十月事件の影響は国家の各方面に大なる刺戟となつた。
当時内務大臣の職に在り国内治安の責に任じて居た安達謙蔵は
十一月九日大演習のため西下する車中で次の如き時局談を語つた。
「 世界的に共通な財界の不況に加へて満洲事変の突発があり、
真に未曾有の重大事局に際会したのであるから 政友会と聯立内閣を組織して協力一致 この国家の難局に処すべし
とする所謂聯立組閣運動がある事は聞いて居る。
政党が国内的政争を中止して一致国難に当ることは、現下の如き真に息詰る様な重大事局に当面している際には
考へられる事で、吾輩もこの考へ方に反対するものではない。」 ( 東朝十一月十日 )
ここに協力内閣問題が表面化し
政友会久原房之介、民政党富田幸次郎を各中心とする政友民政の一派により聯立内閣の組織が策動されたが、
若槻首相の周囲竝現状維持の各閣僚は之に反対し 十二月一日若槻内閣の総辞職となり
翌日十二日政友会総裁犬養毅に後継内閣の大命が降下し 犬養内閣の出現となつた。
陸軍大臣は南次郎より荒木貞夫となり、海軍大臣は安保清種より大角岑生となつた。
荒木新陸相は古くより行はれて居た軍内粛正----閥打倒----の運動の一有力者であり
又 三月事件 十月事件以来急速に激化しつつある国家改造運動の理解者であつたので
彼は殆ど全軍の与望を担つて現はれた。
犬養内閣発足
荒木陸相は熊本第六師団長当時より皇道精神の発揮にを力説し閥族の跋扈ばっこする軍内の実情を憂ひて
一切の私を去り皇軍本来の精神に帰り各自の生活を道義化すべき事を主張した。
又 好んで若い将校を引見し 心よく談笑したので、革新的意識を持つ青年将校は荒木将軍に心服して居た。
殊に青年将校の中心人物 菅波三郎は元来鹿児島歩兵第四十五聯隊に居り、
当時熊本第六師団長であつた荒木将軍より優秀なる青年将校として知遇を受けて居った。
又 荒木が教育総監本部長として中央に乗出すや間もなく、
荒木は菅波の如き精勤し優秀なる青年将校を陸大に入学せしめ度い意向にて
昭和六年八月麻布歩兵第三聯隊に転隊せしめたる ( 菅波述 ) 因縁もあり、
荒木陸相の出現は青年将校一派にとつて時節到来を感ぜしめずには置かなかつたであらう。
革新的青年将校の一団は荒木陸相の出現を契機として自己革命を遂行し、
彼等の所謂粛軍を行ひ部内全般を一貫した革新的大勢力たらしめ、
然る後 国内改造に向はんとしたものと見られる。
三月事件、十月事件は青年将校に一種の下剋上的風潮を植え付け 上層部必ずしも頼むに足らずとなすに至つたし、
又 両事件の失敗は青年将校より見れば 指導精神の問題にあつた。
茲に於て 彼らは真の国体原理より発したる革新思想を以て先づ部内の粛正を遂げねばならぬとなし、
又 彼等の心服する新陸相に依つてこれを成し遂げようとしたものと見られる。
而してここに始めて彼等が俄かに国内改造に向つて一歩後退の情況を呈し 部内革命に突進し
遂に陸軍部内に暗流が激成され 永田軍務局長殺害事件、二・二六事件を生むに至つた根源を理解し得るのである。


井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担当し、
革命の為め一命を捨てる覚悟をしたので、十月事件の挫折によつてもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し 陸海民間の聯合を組織して蹶起しようとして居つた。
同年 ( 昭和六年 ) 十二月二十八日、当時井上は十月初頃より、
当時の東京府豊多摩郡代々木幡町代々木上原百八十六番地 成事 権藤善太郎 方附近の
同人管理する所謂権藤空家に居つたのであるが
冬の休暇で状況して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一統と権藤方に於て忘年会を開いた。
出席者は
海軍側  村上功    沢田邲    古賀清志    伊藤亀城    浜勇治    中村義男
陸軍側  菅波三郎    栗原安秀    大蔵栄一    佐藤某
民間側  井上昭    古内栄司    池袋正釟郎    四元義隆    田中邦雄    久木田祐弘
            西田税
            権藤成卿
等で単純なる顔合せに過ぎなかつた。
然るに 其の直後 同月 ( 十二月 ) 三十一日
西田税の発議で陸海民間の同志のみで会合することとなり、
府下 下高井戸料亭松仙閣に於て会合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田清貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年会には出席せず 其直後揃つて上京し
而も 従来の関係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず何の挨拶もなかつた。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事かを画策して居る。
即ち 西田、菅波が自分より離れて了つたことを直感したと称している。
その上 宴会に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜井上は泥酔した。
正月になり菅波から古内等に井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る
と 排斥的な注意があつた。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて来た。
井上は非常に苦しみ、
同志に対し これ迄指導的立場に在つて、今斯様な状態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する青年達や海軍側同志は
陸軍側の離れつつあるのを偏へに西田の所為となして西田に対し強い反感を抱いた。

現代史資料4  国家主義運動1  から


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