あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税と靑年將校運動 2 「 靑年將校運動 」

2021年09月27日 05時40分32秒 | 國家改造・昭和維新運動

昭和二年七月 西田は、
軍部、民間における少壯革新分子を糾合して鞏力な國家改造團體の結成を圖るため、
それらの革新分子に天劔党規約と題し急進的な革新意欲を盛った文章を配布した。
・・・リンク→ 天劔党事件 (2) 天劔党規約 
その同志録には七十一名の名がのせられていたが、
大部は大尉以下の隊附將校で、彼がこれ迄獲得した同志將校であった。
その天劔党規約は天劔党大綱、天劔党戰闘指導綱領よりなっていたが、
その大綱の中には、
「 天劔党ハ日本ノ對世界的使命ヲ全國ニ理解セシメ、
以テ日本ノ合理的改造ヲ斷行スル根源的勢力タルヲ目的トス
天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ普ク指導的戰士ノ結合ヲ計リ、
以テ全國ニ號令スルノ日ヲ努力ス 」
とあり、
また、その戰闘指導綱領には、冒頭に、
「 天劔党ハ軍人ヲ根基トシテ全國ノ戰闘的同志ヲ聯絡結盟スル、
國家改造ノ秘密結社ニシテ、日本改造法案大綱ヲ經典トスル實行ノ劔ナリトス 」
といい、また、
「 古今東西凡テノ革命ノ成否ガ其國軍人軍隊ノ嚮背ニ存スルコトヲ知ラバ、
眞ニ近ク到來スベキ日本ノ革命ニ於ケル帝國軍隊ノ使命ガ、如何ニ重大ナルカハ考察ニ餘リアリト云ベシ。
然シテ革命指導者ノ中堅的戰士ガ、其ノ大部ヲ擧ゲテ軍隊ノ中ニ潜在協力シ、
軍隊外ノ同志ト秘盟聯絡シテ、革命ノ根源的勢力、軍人部隊ガ--劔ヲ國家其者ヨリ奪取スルコトガ、
不可欠ノ條件タルコトヲ悟得セザルベカラズ。
國家ノ革命ハ、軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ、最終トス 」
と 書いていた。
それは明らかに 『 日本改造法案大綱 』 に示す國家革命の主動力を軍隊に求めたものであった。
しかし、これが配布されたのは、昭和 二年九月のことであった。
彼の同期生では、片山、平木の両中尉、三十七期の菅波、村中、野々山の各少尉、
生駒、高村、両見習士官 ほか 四十数名に及んだ。
東京憲兵隊では特高課長坂本俊馬少佐が主となって、西田税を取調べた。
また、これが配布をうけた在京将校に対しても憲兵隊に出頭せしめ、
西田との関係を追及したが、名は秘密の結盟というが、実は西田の独創であることがわかり、
秘密結社としての存在を確認することができなかったので、
西田に対しては、将来を厳重戒告して釈放し、
配布をうけた将校は所属長において訓戒し その監督を厳重することにして、
この事件を解決した。
だが、何等の連絡もなく配布をうけた将校の中には、西田の勝手な独走に不快を示し、
西田との絶交を宣言するものもあり、一時は、西田の人気もおちた観があったが、
しかし在野における西田の存在は不動で、彼による隊附将校の啓蒙、獲得は、堅実に伸びていた。
だが、それらは、あくまでも秘密のものであったし、一つの結盟というには、なお程遠いものだった。
大岸頼好中尉
ところが、それから三年たって昭和五年に入ると、
一世を聳動した浜口内閣のロンドン軍縮にからんで、政府の統帥権干犯、
これにつづく宮中での加藤軍令部長帷幄上奏阻止の問題がおこった。
新聞もかきたてたが、革新右翼はいかった。
このとき陸軍に 「 兵火事件 」 なるものがおこった。昭和 五年四月のことである。
仙台陸軍教導学校の区隊長だった大岸頼好中尉は、
浜口内閣の統帥権干犯、
ことに、浜口政府が宮中の側近と結んで、加藤軍令部長の帷幄上奏
を阻止したことに痛憤し、
同志達に蹶起を促そうと、「 兵火第一号 」 を 四月二十九日 ( 天長節 ) 附を以て秘密出版し、
同志に配布し、さらに、引きつづき 「 兵火第二号 」 を印刷配布して、
同志を激発しようとした。
その第二号、戦闘方針を定むべしという項の中で、
一、東京を鎮圧し宮城を守護し天皇を奉戴することを根本方針とす。
     この故に、陸海国民軍の三位一体的武力を必要とす
一、現在、日本に跳梁跋扈せる不正罪悪--宮内省、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々を明らかに摘出し、
     国民の義憤心を興起せしめ、正義戦闘を開始せよ
一、陸海軍を覚醒せしむると共に、軍部以外に戦闘団体を組織し、この三軍は鉄のごとき団結をなすべし。
    これ結局はクーデターにあるが故なり。
    最初の点火は民間団体にして最後の鎮圧は軍隊たるべきことを識るべし
と 書いている。
この革命の思想は、国家改造法案に通じ、
西田の天剣党の戦闘指導綱領に通じていることが注目される。
この檄文配布は憲兵の探知するところとなり、大岸中尉はもちろん、配布をうけた将校も、
ことごとく取調べられ その数三十数名に及んだ。
しかし、それは大岸中尉の激発的行動で、
そこには、いささかの計画準備と認められるものはなかったので、
憲兵は単なる説論に止め、その処置は所属長に一任した。
だが、西田を中心とした青年将校一連の結びつきは、天剣党当時よりは、さらに一歩の前進を示し、
このような行動にも出かねまじき状態にまで進んでいた。
その後の国内情勢は、国民は不況にあえぎ政党は利権の争奪に終始し、
外は幣原軟弱外交により満蒙の権益は危殆に瀕していた。
したがって、青年将校の啓蒙宣伝には多くの好条件をもっていた。
西田は北と結んで、その 「 改造法案 」 の実現のために、いよいよ軍の内部に同志の獲得をはかった。
しかも、その機会には、いつも恵まれていた。
東京及びその周辺には軍の実施学校がおおかった。
東京には、砲工学校と戸山学校があった。
千葉、習志野、下志津には、歩兵学校、騎兵学校、戦車学校、瓦斯学校、
野戦砲兵学校、飛行学校、工兵学校 ( 松戸 ) 等々、
ここには三ヵ月乃至六ヵ月の短期間、隊附将校を入校させて、普及ないし補備教育が行われていた。
将校団をはなれてこの短期間に、同志の獲得が行われ、革新の洗礼をうけて帰隊した青年将校は、
さらに、その将校団ないし衛戍地将校に、同志を拡げて行く。
だが、現役の軍人、軍隊を以て革命の中核とする、北、西田の思想は、軍にとっては危険なことだった。
「 改造法案 」 のみならず、
のちのニ・二六事件将校らの信条とした 「 順逆不二ノ法門 」には、
国家ノ革命ハ軍隊ノ革命ヲ以テ最大トシ、最終トス。
革命ハ暗殺ニ始リ暗殺ニ終ル。
近代武士ガ単ニ階級ノ上ナル者ト云フノミニ対シテ拝詭はいきする奴隷ノ心ハ、
階級ノ下ナル者ニ向ツテ増上尊大トナル。
近代武士ハ速ニ封建思想ヨリ脱却スベシ
と教えている。
それは軍の階級観念を消磨せしめ、下剋上思想を扶植し これを革命軍隊に導入しようとするもので、
軍隊存立上、許容すべからざる思想が、淊々と一部の青年将校の心根に流れていたのであった。
これこそ、軍の健全化を願う憲兵のもっとも力を注ぐべき軍事思想警察であったが、
憲兵も軍人であり、軍隊である限り、時代の悪弊の前に、国家改造運動に理解をもつと称していた。
そのために、これらに対する抜本的警察的処理に欠いていたことは、
結果として青年将校運動を助長せしめることになったといえる。


大谷敬二郎 著  『 昭和憲兵史 』
二  革新のあらしの中の憲兵 ・・から