我等士官の現代日本に処する純忠報告の第一義は
天皇大權の擁護により日本國家使命實現の實行力たるに在る。
而して今や日本は經濟的不安と人材登庸の閉塞による民心の動揺
及 道義失はれたる祖國に言ふべからざる深憂を抱ける志士の義憤とによりて、
維新改造の風雲は孕はらまれつゝある。
今に至つては 如何なる個人及團體が政權を執りて漸進的改造を行はんとするも
遂に収拾すべからざるは論なし。
暴動か、維新か。
希くは 我等は日本を暴動に導くことあらしめず。
天皇大權の發動によつて政權財權及教權の統制を斷行せんと欲する
日本主義的維新運動の支持者たるを要する。
これ非常の時運に際會せる國軍及軍人の使命を日本歴史より導ける斷案である。
然らば平生行動の眼目は何であるか。
軍人はすべて同志たるの本義を自覺して先輩後輩上下一員切磋し琢磨しつゝ名利堕弱を去り、
剛健勇武の士風を作興し、
至誠奉公の唯一念に生きつゝ 日々の職分を盡しつゝ 下士官兵の教育に力を用ふべきである。
良兵を養ふは良民を作る所以、良民なくして良兵あることなし。
我等は良民を社会に送ることによつて 國家全般の精神的指導者たらねばならぬ。
明治大帝の汝等を股肱に頼むと詔へる深刻偉大なる知己の大恩義に感泣せよ。
嗚呼 是れ 軍人たるの眞乎本分であるのだ。
消極退嬰たいえいに堕せる海軍の過去に我等は一切の弁解---自己欺瞞---
を 脱却して深甚なる責任を負はねばならなぬ。
海軍出身在郷軍人の現狀は如何。
在役下士官兵の心境は如何。
我海軍 我祖國をして露獨の覆轍を踏ましむる勿れ。
嗚呼 我等の念々切々の祈りをもつて。
天皇を奉じて革命的大日本建設の唯一路に向はしめよ。
・・・ 藤井齊 『 憂國概言 』
藤井齊 フジイ ヒトシ
『 海軍の先驅け 』
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藤井が大學寮に西田税 を訪れたの
はこの年 ( 大正14年 1925年 ) の夏 ( 7月 )、兵學校を卒業した直後のことと思われる。
西田税も同じ軍人出身であったし年齢も近く、性格にもあい通ずるものがあってウマが會い、
同志盟友として急速に親しくなっていった。
藤井齊が海軍部内で國家革新の同志を獲得しだしたのは昭和三年三月からで、
彼は 「 王帥会 」 を結成して同志に呼びかけた。
・・・ 海軍の先驅、藤井齊
海軍に於て最初に改造運動を起こしたのは藤井齊であると云はれて居る。
彼は海軍兵學校在學中休暇等を利用し日本主義者の立籠つて居た大學寮に出入りし
大川周明、満川亀太郎、安岡正篤、西田税 等と接触し 國家改造の緊急必要たる事を信じ
海軍兵學校に於ける同級生、下級生等に啓蒙運動を起した。
昭和三年三月 海軍部内の青年士官中の同志を集め王帥会を組織した。
發會式當時の會員は
藤井齊 鈴木四郎 花房武蔵 浜勇治 上出俊二 後藤直秀 河本元中 福村利治 林正義
等であつた。
・・・ 藤井齊 ・王帥會
軍令部は政府に對し、
統帥權の獨立を將來に保證せよと迫ると共に、軍事參議官會議の召集を要求した。
五月二十九日 海相官邸に於て同會議が開かれ、
財部海相と加藤寛治軍令部長とは正面衝突をなし、
三時間半に亙る討論が行はれたと報道されている。
六月十日 加藤軍令部長は參内し
「 是の如き兵力量を以て完全なる國防計畫を確立する事には確信が持てぬから職責上辭職したき 」
旨 ( 東京日日 ) を理由として骸骨を乞ひ奉つた。
・・・ ロンドン條約問題の頃 1 『 民間團體の反對運動 』
國民党は大車輪の働きをなしつつあり。
八幡氏大いに戰ひつつあり。
二道三府二十五県に組織官僚せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水會 ) なり、
統制委員長は西田氏、幹部の肝は政治的大衆運動にあり。
・・・ ロンドン條約問題の頃 2 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (1) 』
海軍の中で靑年士官は勿論、將官級の有力なる人が同志となつた。
陸軍の靑年士官と提携は出來た。
而して又陸軍の重鎮或師團長と海軍のそれとの提携も成つている。
○○中にも一名ある。
北氏一派と陸海軍との聯絡は出來た。
これからは益々この結束を固め、深くし、廣くし、勃々然たる力となさねばならぬ。
而して生野と大和の旗擧が又必要、民間同志の火蓋を切る必要がある。
・・・ ロンドン條約問題の頃 3 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (2) (3) 』
北---西田 この一派最も本脈なり。
先の不戰條約問題以來 北---小笠原長生---東郷。
今度の海軍問題に於て
陸 第一師團長 眞崎甚三郎
海 末次信正 加藤寛治
( こは積極的に革命に乗り出すことは疑問なれども軍隊の尊嚴のためには政党打倒の決心はあり )
霞ケ浦航空隊司令小林省三郎少將、長野修身 ( この二人は兄弟分 )
而して
○○○○○○
は北、西田と會見せり。
第一師と大いによし。
一師、霞空は會見せり。
斯くて革命の不可避を此等の人々は信ぜり。
然れども之をして起たしむるは青年の任なるは論をまたず。
四十を過ぎたる者は自ら起つこと稀なるべし。
豫後備にて有馬良橘大將よし。
西田氏等今や樞府に激励すると共に、政党政治家資本閥の罪状暴露に精進しつつあり
( 牧野の甥、一木の子、大河内正敏の子が共産党にして、宮内省内に細胞を組織しつつあること攻撃中 )
・・・ ロンドン條約問題の頃 4 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (4) (5) (6) 』
建設の具體策 及 思想は 権藤翁の 『 自治民範 』 ---北氏の 『 改造法案 』、この二つ也。
中央に於て心配を頼むべきは、西田、北、権藤、井上の数氏
・・・ ロンドン條約問題の頃 5 『 藤井齊の同志に宛てた書簡 (7) (8) 』
私は軍人だ。
軍人は軍命令で何時、如何なる死地にも赴かねばならんのだ。
私は國家改造をやらねばならんから その方は御免だと言う譯にはゆかぬ。
もし 萬が一 私に何事かあったら、
小沼君、君は 私の分まで働いてくれ。
頼む・・・・。
藤井中尉は、私の手を荒々しく握って、その手に力をこめた。
「 藤井さん、人間は老生不定で お互い様だ。
私に 萬一のことがあった場合には、
その時は、藤井さん、私の分までやって下さい 」
よし、お互い二人分だぞ
私は瞳が熱くなった。
藤井中尉の眼にも キラリと光るものがあった。
・・・ 藤井中尉、血盟團 小沼正、國家改造を誓う
・ 藤井齊 『 昭和6年8月26日の日記 』
・ 藤井齊 『 昭和6年8月27日の日記 』
・ 藤井齊 『 内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイ、即時決行シタイ 』
以前 海軍の藤井少佐が所謂十月事件の後
近く上海に出征するのを控へて
御維新奉公の犠牲を覺悟して蹶起し度い
と云ふ手紙を 昭和七年一月中旬自分に寄越したのでありましたが、
私は當時の狀勢等から絶對反対對其儘一月下旬には上海に出征し、
二月五日上海附近で名誉の戰死を遂げたのでした
私から言へば單に勇敢に空中戰を決行して戰死したとのみ考へる事の出來ない節があります
此の思出は私の一生最も感じ深いもの ・・・
・・・昭和十一年二月二十二日、西田税は安藤大尉にしみじみ そう語った
・・・ 西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」