あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件と士官候補生 (二)

2018年02月17日 19時07分03秒 | 五・一五事件


日本魂 燃える青春
 五・一五事件を顧みて
東京日野ロータリークラブ

昭和四十九年十月三十日卓話
池松武志 ( 元陸士四五期生 )


前頁 五・一五事件と士官候補生 (一) の 続き

井上日召自首の直後、
昭和七年三月頃、海軍側同志よりの誘いにより、
士官候補生有志一同出向くべき所、坂元と私が一同を代表して、出掛けてゆき、
海軍側М中尉、中村中尉両名と会った。
場所は記憶していないが、会合の秘密を保つために、海軍側で借りた、二階建の空家であった。

海軍側の話の趣旨は次の通りである。
十月事件が失敗したので、計画的、全国的決起は実現が六ヶ敷いので、
血盟団による、一人一殺主義で、国家改造への端緒を摑もうとしたが、井上日召の自首で後が続かない。
それで、小人数局地的の実行で、戒厳令を誘発し、一挙に国家改造に突き進むことが必要である。
陸軍側に相談したが、彼等は、全国一斉方式にこだわり、自重論を云って、我々の決行に賛成しない。
士官候補生は是非参加して欲しい。
愛郷塾は、参加を承知してくれた。
坂元と私は、士官候補生一同と相談して、返事すると云い、その会合を打切った。
その直後、士官候補生は、私を含めて、十二名、海軍側の計画に従って、決行することにし、それを海軍側に伝えた。
当時、私は、陸士中退の身で、体が空いていたので、士官候補生を代表して、海軍側との相談、連絡に当たり、
次いで、海軍側も動きが、思うに任せないので、襲撃ヶ所の調査、偵察もやらなければならなかった。

決行の目的は、
犬養総理及び牧野内府を殺害して、異常な政治的衝動を、中央並びに全国に与え、
次いで、警視庁と決戦、
又東京周辺の変電所を破壊して首都に大不安を惹起し、
首都の戒厳令を誘発、
在京並びに全国の陸海軍同志により、一挙に国家改造へ、踏み切らせることにあった。
特に、今度の決行につき、直接連絡はなかったが、平素よりの盟約から云って、
戒厳令の誘発、改造の断行については、
在京のN中尉を中心とした陸軍側同志に、全幅の期待を置いていた。

従って決行の条件は、
第一に犬養総理と牧野内府の在宅並びにその確認であり、
第二が、人数的にも多数を占める、士官候補生の行動が決行直前迄、士官学校当局に感知されないために、
外出可能な休日であることが必要であった。
その他、変電所破壊の影響を、考慮して、時刻的に、夕方に続くことが大事、であったが、
当時、士官学校休日の帰校点呼は午后五時であり、
この時刻を余り過ぎては、同志士官候補生の未帰校から、決行が感知されるおそれがあり、
戒厳令誘発への、陸軍側将校動きを考えると、決行時刻の決定は、やはり、重要なポイントであった。

武器は、拳銃、手榴弾を使用することにし、その手配は海軍側が引き受けたが、
拳銃は、陸軍側同志に感付かれないように揃えることは、困難で、結局、充分には用意出来なかった。

決行の日を五月十五日 ( 日曜日 ) に絞っていったが、前述したように、犬養総理、牧野内府の在宅確認が問題であった。
私はその頃、毎日のように、首相官邸、内府邸を偵察していた。
内府邸は、白金三光町にあり、裏が断崖で、広さも大したことはなく、休日には殆んど在宅していた。
正門の警備巡査は、内府在宅の時は、正門の稍外側に立ち番しており、不在のときは、正門に居なかった。
それで、内府の方は、五月十五日決行の時の在宅は大体確実であり、
又その直前の様子で、警備巡査のあり方により、在不在を判断出来た。

右に反し、首相官邸の方は、簡単に行かなかった。
広さが相当にあり、出入門が表門と裏門 ( 秘書官、又は邸内の人達の私用、雑用の出入口であった ) があり、
警備も極めて厳重で、表門等は、立ち止って中の様子を見ることは出来ない位であった。

 私は、首相官邸付近の割と精密な地図を入手し、
( それが市販のものであったかどうかは記憶にないが、極秘的な入手でなかったことは確実である )
これを拡大描写して、それに、偵察により窮知し得たことを記入していた。
これは、決行直前に海軍側に渡した。

五月十五日首相在宅の件については、
多分新聞紙上であったと思うが、
首相が在宅しなければならない行事が十五日の夕方頃、官邸内であることを、十二、三日頃知り、
それを、多分電話によって、新聞社か、政党関係かに確かめて、確認し、直ちに海軍のM中尉に連絡した。

かくて決行は、五月十五日午後五時半ときまり、
襲撃目標毎に、
各班は、集合場所と、時刻をきめ、襲撃後出来るだけ早く、警視庁前に集合、警視庁と決戦することにした。
警視庁は、当時、左翼による大事件になやまされ、
それに対処するために、所謂新撰組などを用意していると云われていたから、
これとの決戦は、さぞかし、手ごたえあるものと期待していた。

右等のことは、私が士官候補生を代表して、当時、霞ヶ浦海軍航空隊にいたM中尉と、相談、連絡し、
士官学校内の同志に、主として、坂元を通じて分るようにしていた。
( 後に、民間の裁判で、検事が論告求刑の中に、
池松がいなければ、この事件は起り得なかったろうと云い、求刑十五年でも軽過ぎると云った所以である )

坂元との連絡は、夜間か、人目のつかない時に、道路に面した、生垣又は障壁を隔てて、書きものにして授受していた。
坂元には又、この連絡に協力する、下宿の娘がいて、彼女が非常に役立ったことを覚えている。
下宿とは、各県の出身士官学校生が、校外民家の部屋を借り、休日外出時の休憩、食事又は会合等に使用していた所である。

いよいよ決行の当日である。
私は、海軍側と、事件決行をすることに決めてからは、
自重論の陸軍側同志の所に居るのは、よくないので、N中尉のアパートを出て、別の所に部屋を借り起居していた。

決行の前日であったか、
多分、同志士官候補生を通じて、N中尉が、至急、私に会いたいから来てくれという話があった。

私は、決行前に、N中尉に会いたいが、どうしたものかと迷っていたので、
早速、会う気になり、
五月十五日、決行当日の朝早く、N中尉のアパートに訪ねて行った。

N中尉は、決行の日を知らせるように、私に云ったが、それは出来ないと答えると、
拳銃が足りないだろうから、拳銃をやる、それで、決行の日取りを知らせろと、再度、云ったが、私は教えなかった。
・・・リンク→五・一五事件・「士官候補生を抑えろ」
非常に苦しかったが、やむを得なかった。
只、陸軍側同志の中心として、
又陸軍士官候補生同志の指導者として、決行後の彼の善意と善処を期待するだけであった。
彼としても亦、今日が決行の当日であろうとは思ってもいなかったようである。
分れぎわに、決行の日取りは教えられないが、
私達が決行したら、必ず、貴方達は、それに引きづられるであろうと云った。
我々決行の影響の重大さと、国家改造牽引への自信と、陸軍側への期待をこめたものであった。

彼は、その朝、弁当箱大の真黒い羊羹を出し、ナイフで切って私に食べさせてくれた。
それは今でも昨日のように思い出される。

決行の分担で、
私は、第二組の対牧野内府に属し、集合場所は、泉岳寺前の多分蕎麦屋であったと思うが、
食堂めいた家の二階であった。
内府邸はその近くにあった。

定刻午后五時頃迄にM中尉、私、士官候補生三名、計五名全員が集った。
私の背広服以外は、皆軍服であった。

先づ、皆は私に、牧野内府の在宅を確かめた。
私は、集合場所に来る直前にも、内府宅を見て、警備巡査の様子から、
内府の在宅を確めているので、在宅間違いなしと皆に答えた。
次いで武器の配布をした。
M中尉は拳銃のみ、私は拳銃と手榴弾、士官候補生は三人共手榴弾のみであった。
別にM中尉が、事件決行の趣旨を印刷した謄写の激文を用意して来ていた。
警視庁へ行く途中散布するつもりであった。

集合場所から出掛ける直前、M中尉が皆に次の事を話した。
警視庁との決戦が大事であり、内府邸から警視庁迄遠いから、
第二班は、
牧野内府の在宅に係らず、邸内には、入らず、外から手榴弾だけ投げ込んで、警視庁に直行することにする。
私始め士官候補生等は意外に思ったが、
決行に際しては、年長者の指揮に従うとの約束もあり、今となってはM中尉の言に従う外なかった。

午後五時半近く外に出て、私が先に道路に出て、通りがかりのタクシーを止め、全員乗り込んだ。
私は拳銃を持っていた事もあり、運転手に指示する関係から、運転手の左側の助手席に乗り込んだ。

数分で内府邸の正門に着いた。
牧野内府在宅のしるしに、警備巡査が門の外側に立っていた。
M中尉と私が車を降り、門の方に向うと、警備の巡査が近付いて来たので、
M中尉が、拳銃を一発撃ち、同時に、私が手榴弾を邸内に投げ込んだが、爆発音はきこえず、
不発に終ったようである。
警備巡査は、拳銃を発射され、すぐ、中に走りこんだ。 ( 彼がこの時負傷したことは後に聞いた )

M中尉も私も車に乗り込み、私は、運転手に、警視庁に向うよう、指示した。
運転手も既に事の異常を感じたであろうが、
私が、彼の左傍にいて、右手に拳銃を持っていたので、彼はすっかり動転し、
車のスピードを早め、交通信号を無視し、歩道に乗り上げたりして、走った。
途中、決行の趣意を書いた激文を散布して行った。
 檄文

我々が登視庁に着いた時には、何の動きもなく、不断と変らない様子であった。
我々は意外な思いをした。
その頃には、首相官邸も、大騒ぎの筈であり、その他、政友会本部、日銀等が襲われて、
とっくに、警視庁に通報が来ており、強力な密備隊、所謂新撰組等が、待機か、出動中とのみ思い込んでいたのである。

警視庁の表玄関を前にして、一同車を降り、M中尉だけ、車の側に立ち、拳銃をかまえていた。
士官候補生等が、各自手榴弾を警視庁に向って投げ、
そのうち二発位が爆発したら、玄関口に、正私服入り乱れて数十名、どっと出て来た。
M中尉が、撃てと叫んで拳銃を一発発射し、私も玄関口の人数に向って一発撃った。
玄関口の人達は何の抵抗もなく、拳銃の発射音に驚いて、我れ先にと、中に逃げ込み、その後何の反応もなかった。

しばらく様子を見ていたが、他の班の者も来ず、警視庁も反撃の様子がなかったので、
M中尉の指揮で、一応、憲兵隊本部に、引き上げることにし、車で憲兵隊本部に向った。

その時、私の感じたことは、拳銃を一発撃つ迄は感じなかったのに、
一発撃ってからは、もっと撃ちたいという、むしろ衝動的なものを感じ、
それを、非常な心残りとして、一同について行ったということである。

憲兵隊本部に着いたとき、隊長であったと思うが、ていねいに我々を迎え入れ、何の拘束も受けなかった。
同志一同の話合いでも、決行後は、憲兵隊本部に引き上げるという云い方をしていたので、
自首する意味とか、拘束を受けることとか考えていなかったから、憲兵隊本部内の空気は当然と思っていた。

しばらくして、他の班も来着し、首相を倒したことを聞いた。
そして、変電所襲撃の成果を待ったが、電灯も消えず、陸軍側からの戒厳令誘発の効果も出て来なかった。

幾時間を経てからか記憶にないが、やがて憲兵隊長より、話があり、一応衛戒刑務所に行くことになった。
この時も、我々は手錠等の拘束もなく、拳銃等を差出したのみで、自動車に乗り込み、衛戒刑務所のある代々木に向った。
私のグループは、私の外、士官候補生A、萩原・坂元・西川であった。
我々に付いているのは、運転手の外、憲兵の下士官一人であった。

車の中でAが云い出して、このまま代々木に行ってしまっては、目的も達し得ず、動きも取れなくなるから、
ここで同乗の憲兵から、拳銃を奪い、今一度やろうではないかという相談を始めた。
あわや、その通りなるかと思われたが、A、萩原(後に支那の五礼原で敵の包囲下切腹して果てた)の強硬論に対し、
西川が自重を説き、私が西川に賛成して、そのまま衛戒刑務所に着いた。

後で聞いたことであるが、私が決行当日に朝、会ったN中尉は、
我々が事を起すや、陸軍側在京の同志と共に、完全武装して、陸軍省に乗り込み、
陸軍大臣荒木に、ひざづめ談判で、我々の志を無にせず、
一挙に国家改造断行へ踏み切るよう、長時間にわたって迫ったそうである。
私はそれを聞いて、今更のように、N中尉の至情を憶い、当日朝のことを思い出した。
・・・リンク→菅波中尉 懸河の熱弁  と  今日の事件は、お前がそそのかしたのであろう

衛戒刑務所に着いてから、二ヶ月位経た頃、
当局より、話があり、私は民間裁判にまわることになり、市ヶ谷の未決監に移った。

陸軍当局としては、刑事交渉法により、私が軍籍になくても、同志士官候補生同志と同じ立場であるから、
一緒に軍事裁判に持って行こうとしたが、検事局がどうしても承知しなかったのだそうである。
私は、むしろ軍人としての事情と意見を、私以外に民間の裁判に出ることを、絶好の機会として期待した。

民間の裁判に於て、裁判所も私の立場を理解して、
長時間 ( 毎日四時間位づつ三日間にわたった ) 陳述の機会を得、
予備的にも、陳述の趣意を書いて提出しておいたので、誤りのない陳情が出来た。

裁判で印象に残ることは、意外に多くの減刑歎願書が殺到したこと、
私の兄と小学校時代同期であった弁護士が、
私の希望を容れて、私を極刑に処すべきであると、弁論したこと等であった。

『 5月15日に寄せて  私の上司 ・ 池松武志先生と五 ・ 一五事件  隠居歳時記 』
・・・を、精読 感銘したるもの
( 写真、リンク  文字は 私の書込みによるもの )

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五・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」

2018年02月16日 19時13分13秒 | 五・一五事件

  大蔵栄一 
 « 昭和34年--1959年 » 
--いまからちょうど二十七年前のことである。
昭和七年五月十五日
その日、午前九時頃、日曜日の眠りから醒めた私は ガバッと床を蹴った。
のんびりしておる時ではない。
今日 はなさねばならぬ、重大な仕事があったはずだ。
連日の気づかれて、疲れは十分抜け切っていない。
だが、私はソコソコに朝食をすまして、家を飛び出した。
どんよりと曇った五月の空は、私の気持のように重苦しい。
今日こそは、どんなことをしても士官候補生と連絡をつけて、
その動向をはっきり摑まなくてはならないのだ。
私は疲れた身体に鞭打って急いだ。

海軍と士官候補生の密約

これより先、
昭和七年三月二十三日の春季皇霊祭の佳日に、
麻布第三聯隊の安藤輝三大中の部屋で、陸海軍同志の秘密会合が、
海軍側からの要請で催された。
陸軍から相沢少佐、村中孝次中尉、香田清貞中尉、朝山小二郎中尉、安藤輝三中尉
それから私の六人の将校と、坂元士官候補生とが出席した。
海軍からは、古賀中尉が緊急な用事のため 欠席したので、中村中尉が一人でやって来た。
「 小沼、菱沼 等のあけた突破口を、この際速やかに拡大して、
一挙に革新を断行すべきである。
坐して機の到るを待つことは かえって彼等を犬死にさせるようなものだ。
時期は来ておる、最早一刻の猶予もゆるさぬ、
陸海の同志は決意を新たにして、敢然蹶起すべきである 」
と、中村中尉は、
海軍側の決意をほのめかしながら、陸軍側の蹶起をうながした。
陸軍側は 「 時期尚早 」 という理由で、その申し入れを一蹴した。
そのため、この秘密会合は簡単に終わった。
一同が雑談に移った頃、中村中尉は秘かに、坂元士官候補生を廊下につれ出して、
何やら相談していた。
私達はこの二人の行動について、別段気にもかけなかった。
その時以来、士官候補生らは私達との連絡をプッツリ絶ってしまった。
これまでは、日曜ごとにやって来て、溌溂たる談論を風発して、私達を辟易させていたのに、
それが一度に消えてなくなったように来なくなったことは、
陸軍側同志に一抹の淋しさを抱かしめると共に、少なからぬ不安を感じさせた。

四月のなかば、私は霞ケ浦の海軍航空隊に、古賀、中村の両中尉を訪ねて、
それとなく士官候補生との交渉の有無を探ってみたが、
彼等からは、何もそれらしい確証をつかむことは出来なかった。
私達の不安はだんだんつのって来た。
あるいは歩三の廊下での短時間の囁きが、海軍と士官候補生との間に、
ある密約を成立せしめたのではないか、とも想像を逞しうするようになった。
しかし、日曜日以外は外出の出来ない士官候補生りことだから、
霞ケ浦の海軍との連絡は、そう簡単にうまくとれるはずがない、そのうち、なんとかなるだろう、
と 一縷いちるの望みをつないでいた。
 朝山小二郎 中尉
四月もいよいよおしせまった頃、
下志津の砲兵学校に学生として派遣中の朝山中尉が、
「 池松武志の存在を忘れてはいけない。
彼がその連絡の任にあたっているかもしれん。楽観は禁物だ 」
と、言い出した。
池松は、朝山中尉と同聯隊の後輩だ。
最近ある事件をおこして、士官学校を退校させられたばかりだ。
池松なら、十分連絡の任務がはたせるに違いない。
このことに思い到った時、私達は愕然とした。
生一本で純情な士官候補生のことだ。
私ら陸軍側の 「 時期尚早論 」 にあきたらず、
海軍側の 「 窮新論 」に引きずられたに違いない。
もし、そうだとしたら是が非でも、
彼等を海軍側から、速やかに引きはなさねばならない。
そこで、朝山中尉が必死になって、池松を追い廻したが、なかなかつかまらない。
焦燥感は私達同志を完全に支配した。
昨十四日も、朝山中尉が何回となく、青山の表参道の近くにある池松の下宿を訪ねたが、
いつも不在だ。
「 ヨシ、こうなったら仕方がない。
明日は朝早くから彼の寝込みを襲って、必ずつかまえてやるぞ 」
と言う、
朝山中尉のなみなみならぬ決意に信頼して、私達は、昨夜遅く家路をたどったのである。

 菅波三郎
菅波中尉に会え

私が、代々木山谷の西田税の家についた時には、
菅波三郎中尉、村中孝次中尉がすでに来ていた。
この西田の家は、当時青年将校の連絡に、あるいは会合によく利用されたもので、
あたかも梁山泊のごとき観すら呈していた。          ( ・・・梁山泊・・・有志の巣窟 / 集りし處 )
菅波中尉は本年初頭 ( 昭和七年 ) 栗原安秀中尉らと共に、
第一次上海事変に出征して、三、四ヶ月の間、東京を留守にしていたのだったが、
つい最近凱旋して帰郷したばかりだ。
私達は、雑談を交しながら、朝山中尉からの連絡を首を長くして待った。
雨模様であった空がうすれて、弱弱しい微光が庭樹を照らした。
新緑の若葉が目に清々しい。
「 ヤア、すまんすまん、大分遅れちゃった。池松の奴、てこずらせやがる 」
朝山中尉が、アタフタと駆け込んで来て、坐りこみながら額の汗を拭いた。
「 予定通り、朝早く寝込みを襲ったんだ。
 ところが、池松の奴、ゆうべも帰っていないんだ。
オレは、あきらめかけて、下宿屋の前の喫茶店に陣取って、気ながく見張ったんだ 」
と、言いながら 朝山中尉は煙草に火をつけた。
「 随分長いこと待ったんだが、なかなか帰って来ないんだ。
 いらいらしてくるし、今日もまた駄目かとあきらめて、立ちかかった途端に、
池松の奴 ノコノコ帰って来たんだ。
そこで、一緒に下宿に上り込んで、とつくり話し合った。
しかし、頑強に構えて、なかなか口を割ろうとせんのだ。
怪しいふしは沢山あるがね 」
「・・・・・・」
「 一筋縄じゃ駄目だ。オレの手にはおえんと思ったから
『 オイ、池松ッ、今日は是が非でも、ほかの候補生と一緒に、菅波中尉にあえよ、
 菅波も久し振りに是非会いたいと言っていたぞ 』
と、半分命令的に頼みこんだんだ 」
その頃、菅波中尉に対する士官候補生の尊敬は絶大で、あたかも、松下村塾における、
吉田松陰 対 高杉晋作、久坂玄端 等のそれのような観すら呈していた。
「 午後二時だ。 何回も念を押して確約したんだ。必ず訪れるからね。・・・・
 オイ、菅波、しっかり頼んだぞ 」
「 ヨシ、判った 」
菅波は、荘重にのみこんだ。
一瞬、彼の眉間に自信のひらめきが走った。

敵中した奇想天外の判断

私と朝山中尉と、西田の寓居を辞して、
菅波中尉の下宿を青山六丁目に訪れたのは、午後四時過ぎであった。
菅波中尉は、在宅して私達の訪問を待っていた。
綺麗好みの菅波の部屋は、よく整頓されていて気持ちがいい。
机の上の一輪ざしが、午後のうす日をうけて暖かそうだった。
「 士官候補生は来たか 」
私は、着座の前、緊急の一問を発した。
「 ウム、来た。三人だ 」
「 誰と誰だ 」
朝山中尉は坐りながら、ホットした気持ちで訊ねた。
「 池松と菅と野村だ 」 ・・註、この記憶は確かでない
菅波中尉は、話をまとめるような恰好で、窓の外に眼を移した。
「 結論から言おう。彼等は明十六日、金丸ケ原に現地戦術のため、野営出発だ。
二週間後に、帰ってから、あるいは決行するかもしれん。
いや、必ず決行すると思う。
だが、ざんねんながらその時期は今のところ不明だ 」
「 海軍とは、やはり連絡をとっていたんだね 」
朝山中尉が尋ねた。
「 その通りだ。池松が想像通り連絡係だ。朝山の言う通り なかなか口が堅いんだ。
 そこで、オレは机の抽き出しから、拳銃を出して 『 どうだ、これはいらんか 』 と、やったんだ。
そうしたら、彼等期せずしてだね 『 ハッ、下さい 』 と、一緒に手を出すじゃないか。
オレは、しめたと思ったので、ことさら平気をよそおいながら、
『 時期と交換しよう  』 と、言ったら
『 ハハ・・・・・その手にはのりませんよ 』 と、涼しい顔をして手をひっこめちゃった。
そうして、間もなく 『 会う人がありますから 』 と、言って
早々に引き上げて帰って行った 」
「 ・・・・・・」
私は、無言のまま考えこんだ。
「 会う人があると言って早々に帰ったんだなァ・・・・臭うなァ・・・・
まさか今日、決行するんじゃないだろうな・・・・」
朝山中尉は、奇想天外のことを言い出して、自分で自分の言葉にびっくりした格好だ。
「 今日は絶対にやらんな。野営から帰って来てからだよ 」
菅波中尉は、強く否定しながら、
「 そこで、オレは思うんだ 」
と、いつもの癖である、口をへの字にまげて話を続けた。
「 彼等が、現地戦術の出張から帰って来るまで、二週間ある。
その間に十分準備を整えておいて、万一のために、遺漏のないように期せねばならぬ 」
「 ようし、オレはこれから早速 憲兵司令官を訪問して、彼の腹をたしかめて来る 」
私は、起ち上った。
だが、菅波中尉と士官候補生との対談時における、彼等の淡々たる態度によって、
今までの私の張りつめたる気持ちは、何となしにゆるんでいた。
当時の憲兵司令官は秦真次中将である。
去る三月十一日、私の自宅で、古内栄司が逮捕された時、中央は警視庁と再三交渉して
« 現役軍人の自宅から、古内を逮捕したことを発表せず »
という方針を決定した。
従って、犯人隠匿罪で検挙されることをまぬかれていた。
以来、秦中将と私との親密の度は深さをましていた。

・・・リンク
・ 五・一五事件と士官候補生 (一)
五・一五事件と士官候補生 (二)

犬養首相暗殺の号外

朝山中尉と二人で、青山の電車通りに出た時は、もう五月の太陽は大分傾いて、
黄昏のうすあかりが、レールの上から、しのび去ろうとしていた。
「 腹がへったなア 」
「 鰻丼でも喰うか 」
手近な食堂に入って、私達は簡単に晩飯をすました。
わたしが、食後の煙草を一ぷく深々と吸い込んだ時、電車の響きを縫って、
号外の鈴音が、けたたましく飛び込んで来た。
「 号外だ、何だろう ? 」
と、朝山中尉は首をかしげた。
しかし帝都をひっくり返すような大事件、
いわゆる 五 ・一五事件が、勃発しておるとは夢想だにしなかった。
食堂を出た私達は、
世の中が大事件によって、呼びさまされた緊張とは別に軽い緊張を覚えながら、円タクを拾った。
「 九段の牛ケ淵に行ってくれ 」
自動車は、静かに走り出した。
「 ダンナ、大変な事が起きましたね 」
車が走り出すと同時に、運転手が、話しかけて来た。
「 大変なことって何だい 」
「 犬養首相が暗殺されたんですよ、ダンナ方、御存知ないんですか 」
運転手は得意そうに言って、
首相暗殺という大事件に、一国民として無関心でいられぬという態度を示した。
「 何っ ! 」
私達は、鉄砲で頭を殴られた思いがした。
「 犬養首相が、誰にやられたんだ 」
私は、身体をのり出した。
「 馬鹿なことを言え、そんなことがあり得るもんか 」
私は、つい今しがた、菅波中尉と交わした談話を反芻はんすうしながら否定した。
「 そんなこと言ったって、ダンナ、わたしゃこの目で、今四谷見附の電柱にはってあった号外を、
 確かに見て来たんですから間違いっこありませんや 」
運転手は、私の否定に対して、喰ってかかって来た。
「 しまった ! やつぱり士官候補生の連中に一杯喰わされたんだ。 残念だなア 」
朝山中尉は、あるいは今日 ?  という先刻の奇想天外の判断が、不幸にも的中したことを、
しきりに口惜しがったが、今は時すでに遅しだ。
「 オイ、運転手、号外のあるところに車を走らせてくれ 」
電柱にはってある号外は、疑いもなく、大事件を報じている。
私の眼は、一字々々に喰いいっていた。
運転手は、私達の驚愕の余りに激しかったのに、むしろびっくりして、ハンドルを握りしめた。
車はうす暗い初夏の闇の中を、
血の気のうせた二つの肉塊をゆさぶりながら、九段下に向って疾駆した。

想像を絶した西田の射殺

「 誰かっ 」
憲兵司令官の官舎に、夢中で飛び込んだ私達は、警戒中の憲兵に誰何すいかされて面食らった。
「 憲兵司令官に面会だ 」
私は、無茶苦茶にどなった。
「 一体、アナタ方は何者ですか 」
憲兵は、私達の異様な風体と態度とを うさん臭そうに、
上から下まで、なめるように見廻して、
油断なく身構えている。

気がついてみると、私達は今朝、家を飛び出した時の服装のままで、着流しの和服姿だ。
憲兵が、油断なくかまえるのも、無理からぬことだ。
「 戸山学校教官大蔵中尉と砲兵学校学生の朝山中尉だ。秦司令官閣下に緊急面会したいんだ 」
私は、漸く落ち着きをとり戻して、慇懃に来意を通じた。
「 本日は、司令官閣下は、どなたとも面会謝絶です 」
「 とにかく、来意だけ通じてくれ。閣下は必ず会われるはずだ 」
私は、面会したい一心から、しつこく喰い下がった。
官邸は、さぞごったかえしておるであろうと想像していたのに、
海の底のように沈んでいて、
人の子一人通らないのみか、物音一つしない。

「 残念ですが、閣下は只今閣議の方にお出でになっていて不在です 」
半分喧嘩腰で、交渉を繰返したが、遂に目的を達せず、空しく引き返した。
不安と焦燥とにかられながら、全く情況不明のまま、
とりあえず、菅波中尉の下宿に急ぐべく、
再び円タクを拾った。

車は走りに走った。
しかし、菅波中尉は、すでに行く先を告げず、軍服を着込んで、どこかに飛びだした後たった。
部屋にはいってみると、拳銃の弾丸が、座敷一杯にばらまかれている。
軍刀もない。
武装して行ったに違いない。
しかも余程あわてて飛びだしたらしい。
「 困った奴だ。なんぼなんでもこの態ざまではなァ 」
つぶやきながら朝山中尉、ちらばっていた弾丸をかき集め出した。
直ちに引き返して、次の行動に移らんとした私は
<オイ、朝山。そんなものは、ほっとらかして早く行こう > と、うながそうとしたが
朝山中尉の落ち着きはらった周到な態度に、いささかたじろいだ。
<お前は、あわてん坊だぞ、それでいいのか、もっと落ち着け> と、自分で自分を叱りながら、
朝山中尉と一緒に集めた弾丸を押しいれ仕舞い込んで部屋を出た。
三たび、車を拾って、私達は代々木山谷に駆けつけた。
西田税の家に通ずる路地をはいっていけば、
そこには全く想像もつかぬ陰惨な空気がただよっているではないか。
塀のまわりには野次馬で黒山だ。
二階の書斎の障子は破れて、廊下のてすりに倒れかかっている。
百燭光の電灯の光が、庭の繁みを空しく照らしているのも気にかかる。
「 何事が起こったんですか 」
私は、野次馬の一人に尋ねた。
「 ここの御主人が兇漢に拳銃で射たれたんですよ。
いつもは、書生さんが沢山いたんですが、今日に限って、誰もいなかったんですから 」
「 やった奴は誰ですか 」
「 それが、まだ誰だかわからんようです 」
私と朝山中尉は、合点のいかぬ小首をかしげた
< 西田が射殺された。ハテ、誰にだろう >
私は、独り自問自答してみた。
だが全く五里霧中で、それは、およそ想像を絶することなのだ。
朝山中尉の瞳の奥にも、疑問の光が底びかっている。
私達は、辛うじて門まで近づいた。警官が厳然と佇んでいて、一切寄せつけない。
家の中では、警察の調査がはじまっているらしい。
在京部隊は、非常呼集が実施されておるにちがいない。
その上、西田がこの有様では同志との連絡は完全に絶たれてしまった。
海軍の連中や士官候補生らは決行後どうしたろうか、
決行の範囲はどの程度に及んでいるだろうか、
陸軍の同志達はどこで、どうしているだろうか、
犬養首相の暗殺と西田税の遭難とは、果して関係があるだろうか、
西田の生死はどうだろうか。
私の脳裡にはいろいろな考えが、走馬灯のごとく去来した。

以降  五・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 
同志の裏切りに斃れる に 続く


井上日召 ・ 五、一五事件 前後

2018年02月15日 19時02分31秒 | 井上日召

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である
    
 
井上日召            古賀清志海軍中尉   中村義雄海軍中尉

井上日召の活動を記してある
現代史資料4 国家主義運動 1 から

第二部  血盟団、五 ・ 一五、神兵隊事件
第二章  五 ・ 一五事件
第一節  第二陣海軍側の暗躍
(一)  古賀、中村 両海軍中尉 日召と聯絡しつつ陣容整備に努む。
一月三十一日の權藤空家に於ける最後の會合により、
民間側同志が先づ立って第一陣として一人一殺主義による暗殺をなし、
海軍側は第二陣として同志の凱旋を俟って菅波一統の陸軍側を引摺って陸海軍聯合軍を組織し、
大々的蹶起をなすことに決定し、井上昭は第一陣の暗殺には直接參加せず、
背後にあって聯絡統制の任務を担當すると同時に海軍側同志を指導し、
後續部隊の陣容整備の任に當たることになった。

井上は權藤空家に居って第一陣の民間側同志の統制聯絡に當たり乍ら、
同時に藤井齊 上海出征後、
中央に近い霞ヶ浦航空隊に居り 海軍側同志の聯絡に當って居た海軍中尉古賀清志、同 中村義雄の兩名と
屡々會合し、海軍側同志の結束 及 情勢の探索に努めて居った。
古賀、中村兩海軍中尉は毎土曜、日曜に上京し、井上、古内等と聯絡し、
其の指導を受けて各方面を奔走し、陸軍側、民間側の情勢を探って之を井上に報告して居った。

二月三日頃、
古賀は一月三十一日の會合の結果を、上海に出征中の藤井齊、村山格之 及 海軍側同志に通報した。
二月六日、古賀、中村は航空隊敎官より藤井の戰死の報を聞き、
直ちに上京して權藤空家に行き、井上 ・ 古内 ・ 四元等に会ひ、之を報告した。
其の後 井上より大川周明が何事か畫策中であるから其の計畫を探り出來るならば之と合體を計るか
或は大川周明が三月事件當時爆弾 ・ 拳銃當多數を入手し保管して居る筈だから
之を此方の計畫に提出して貰ふ様、とにかく大川を訪問し形勢を探ることを指令せられた。

二月七日
古 ・ 中村は大川を訪問し、同人が拳銃を所持し居るのを探り、権藤空家に戻り井上に之を報告した。

二月九日、
小沼正が井上前蔵相を暗殺したので、井上は危険を察し、
天行会道場に身を潜め 古賀 ・ 中村に暫く上京を見合はせる様 通知し 両名は上京を止めて居った。

二月二十八日頃、
井上の旨を受けた浜勇治海軍大尉より中村 ・ 古賀に対し上京せよとの通知が発せられ、
それに応じ 三月二十日、古賀、中村は上京し
浜方の二階に於て血盟団の古内栄司、田中邦雄の両名が官憲の目を逃れて来て居るのに相会し
彼等より其後の形勢を聞いたが、
更に古賀は天行会道場に赴き 井上昭に会ひ、井上より
「 小沼正に続き同志の誰かから第二弾が発せられるれば全線暴露の危険がある。
直ちに西田税 の処へ行き軍部同志が集団蹶起する様に交渉して呉れ、
集団 『 テロ 』 は東京会館、華族会館、工業倶楽部等に支配階級が集った時期を見て、
之に対し敢行することにしたい 。
更に 明日 大川周明の所へ行き 既に第一陣を撃ったから同人の一派に於ても起つ準備をする様に勧めて呉れ 」
との
依頼を受けた。
古賀は天行会を出て、西田方を訪れ、
折良く同所に集合していた西田税、菅波三郎、栗原安秀、安藤輝三、大蔵栄一 等の陸軍青年将校一同に対し
「 第二弾が鳴ったから 我々の全線が暴露するかも知れぬから、
此際軍部同志が結束して例へば、東京会館、華族会館、工業倶楽部等に目標人物の集合した時機を見て
之を襲撃するやうにしたい。
尤も陸軍の方では実力部隊に居る者は本隊として残って貰はねばならぬが、
其の他の者は 此の襲撃に加って貰ひ度い 」 と告げた。
併し 種々議論が出て賛否何れとも定まらなかった。

翌二十一日
古賀は大川を訪ね、計画の大略を話し、之に誘致しようとした。
大川は政党財閥を倒し、軍政府を樹立する決心であるが必ずしも 「 クーデター 」 の様な非合法に依る必要はない。
などと云って判然たる意嚮を示さなかった。
其の正午頃、
地方から第一次二月十一日決行の計画を聞いて上京して居った同志、黒岩勇予備海軍少尉と井上と面接せしめるために、
上野公園前料亭 「 揚出 」 で会合が催された。
会したものは、井上昭、頭山秀三、浜勇治、黒岩勇、古賀清志、中村義雄であった。
頭山秀三は既に井上と深く結ばれ準同志の間柄であったので、井上は頭山を一同に紹介した。
古賀は井上に西田、大川方の模様を話した。

二月二十七日、
古賀、中村は上京し、天行会道場に行ったが、井上は不在であったので西田を訪問した。
西田方には西田、菅波、大蔵、安藤 等の一等が居ったが、
青年将校連は古賀に、自分等は近く上海に出征するから帰る迄待って呉れと言ひ棄てて帰った。
其の後を引受けて西田等を中心とする一統に起って貰ひ度いと話した。
併し 判然たる答はなかった。

翌二十八日
古賀、中村両名は大川周明を訪問し、愈々決行が迫ったことを話し、拳銃の都合を依頼した。
大川は之を承諾したので両名は直ぐに天行会道場に行き、井上に西田、大川訪問の報告をした。
当時古賀等の許に上海出勤中の村山格之海軍少尉から、手榴弾二十個入手したとの通知があり、
拳銃のみ揃へば武器は十分になるのであった。・
三月五日午後、
古賀、中村は上京したが、途中新聞号外によって菱沼五郎の団琢磨暗殺の事を知った。
上京し直ちに天行会道場に行き井上に会った。
井上と談合の結果、菱沼の第二弾により警戒は厳重になり、個人テロは至難の形勢になったから、
今後は残った民間同志と海軍側と聯合して、集団 「 テロ 」 を決行することに大体意見一致し、
大川周明一派に共同して起つ様交渉することとし、古賀、中村は井上と別れたが、これが最後の連絡となった。

翌六日、
古賀、中村は大川を訪問しようとしたが、浜大尉より危険であるからとて止められ、
両名は其の儘 霞ヶ浦に帰隊した。

其の後 井上の潜伏して居った天行会道場二階は警察官隊に包囲せられ
且つ権藤成卿 始め知人が取調を受ける様になり、井上は到底逃れざるを自覚し、割腹自殺の決意をなした。
此の時、本間憲一郎、天野辰雄は自決を思ひ止らせ、後事を引受けて
三月十一日、井上を自首せしめた。

(二)  日召自首後蹶起を急ぐ
一方、海軍側の古賀、中村両中尉は井上の自首を聞いて、最初の計画通り第二陣の決行を決心した。
この時 両中尉は井上と従来連絡のあった
一、橘孝三郎の愛郷塾一派
二、陸軍士官候補生の一団
三、血盟団の残党
を糾合し、海軍側との聯合軍を組織し、一方
四、大川周明
五、本間憲一郎
六、頭山秀三
の援助を求め、出来得べくんば西田税、菅波三郎一党の陸軍側をも蹶起せしめ、
一大集団テロを敢行しようと決意した。
此等の諸勢力と井上昭一派との関係は次の如くであった。

一、橘孝三郎の愛郷塾一派
橘は茨木県水戸市外常盤村に於て兄弟村を経営し、愛郷塾を開き、農本主義に基く天地主義を唱へ、
農村を救済し延いで国家を救済する事を目的としていた。
昭和五年 同県郡珂郡渡村小学校に於て、農村問題の講演をなしたる際、
同小学校の訓導であった古内栄司と相識り、其後交際を続けた。
古内は井上昭と同志の間柄であるので、
昭和六年五月頃、古内の勧めで東京牛込区の林正一方にて橘は井上と懇談を遂げ、爾来 深い関係を持つに至った。
井上は橘の思想に全く同感であるが、橘の性格が学者肌であり、革命家には適しない処から、
橘に井上の破壊後に建設方面を担当させようと考えて居った。
然し 井上は、橘に破壊後の建設に当り、発言する資格権利を持たせようとして、
海軍側其他の同志に対し、同志としての取扱をして見せた。

昭和六年八月の青山青年会館の郷詩会の会合に、橘 及 愛郷塾教師 後藤圀彦を出席せしめた。
又 彼等を海軍側同志に紹介した。
橘は井上の同志たることは相違なかったが、破壊行動の同志ではなかった。
井上は、橘に、破壊は自分等が担当するから建設に当って呉れ
建設に必要なる貴兄は決して破壊方面に関与してはならない、と
言って居った。
従って橘は、血盟団事件に付ては関与して居らなかった。
然し斯かる微妙なる関係を知らなかった海軍側古賀清志等は、橘を井上の同志として取扱ひ、
第二陣の計画に参加せしめた。

昭和七年三月中旬、
古賀海軍中尉は愛郷塾に行き、橘に計画を打明け、参加を求めた。
橘は予て国家の現状を革新し、農村を瀕死の状態より救はねばならぬと考へて居ったので、直ちに之に応諾した。
塾の教師後藤圀彦 及 自己の妹婿で同塾の教師をして居た林正三に打明け、
両名等も革新的思想に燃えていたので、直ちに承諾し、愛郷塾生より適任者を選び、
愛郷塾一派が参加するに至った。

二、血盟団の残党
井上昭の護国堂時代その影響を受け、革新思想を持つに至った大洗附近の青年は多数あった。
血盟団事件に連座し、収容せられた以外にも急進的分子が数名残って居った。
古賀清志が第二陣の計画を樹て、三月中旬愛郷塾を訪ね、橘を参加せしめた際、
橘はこれ等大洗青年の数名をも動員することになり、
三月二十五日 後藤邦彦はその一味の堀川秀雄を同郡湊町の実家に訪ね、
井上昭一味の検挙された模様や、古賀中尉の第二陣の計画を話した。
堀川は直ちに之に参加を約し、井上残党の川崎長光、黒沢金吾、照沼操と共に、この四名の参加が決定した。

奥田秀夫は父が朝鮮咸鏡北海清津府に居住し、漁業を営む関係上少年時代を清津に於て過し、
当時清津にあって皇室中心主義を奉じ、敬愛学舎と云ふ私塾を立て、
少年に精神教育を施していた四元義正、其弟 四元義隆や その友人の池袋正釟郎と親しい間柄であった。
四元義隆、池袋正釟郎が七稿を出て東大に入学し、金鶏学院に居る頃、奥田は上京し、
明大に入学して居たので金鶏学院に四元等を訪ね、同時に其処で井上昭と接触し、
革命精神を吹き込まれた。
血盟団計画には奥田も参加し、木村久寿弥太の暗殺を引受け、偵察をして居った。
血盟団員の検挙が開始されるや、
彼は当時東京市外野方町四五三番地林新太郎方に下宿して居た四元義正方に逃避し、
官憲の追跡を逃れて居た。

古賀、中村両中尉が第二陣の計画を進めていた三月十二日、
中村中尉が浜勇治大尉の所で池袋に会った。
其後池袋は、自分は警視庁から召喚状が来ているので明日 出頭する。
此で全部検挙せられるのだから、後はよろしく頼む。
陸軍側も大蔵中尉あたりが中心だから極力引摺って呉れ、
尚 一味の中、奥田秀夫のみは警視庁に判らずに居るから決行の際は参加せしめて呉れ
と云ひ置いて行った。
それで中村中尉は三月二十日、林方を訪ね、奥田に会ひ、計画を打明け 同人を参加せしめた。
尚 当時奥田の親しいクラスメートに中橋照夫がある。
中橋は当時奥田と行動を共にして居り、五・一五事件によって強い革新的信念を持つに至り、
後に 二・二六事件に関係するに至った。

三、陸軍士官候補生 ( 附池松武志 ) の一団
士官候補生 後藤英範、篠原市之助、石関栄、中島忠利、吉原政巳、西川武敏、八木春雄、菅 勤、
野村三郎、金清 豊、坂元兼一 及 元士官候補生 池松武志は、
昭和六年十月  夫々所属部隊より派遣せられて、陸軍士官学校本科に入校した第四十四期生であるが、
入校早々 十月事件に際会し、
先輩将校の計画であったので極めて簡単に参加を約した。
当時はこれ等の外にも数十名参加の予定であった。
その後間もなく一同は
歩兵第三聯隊菅波三郎中尉が歩三に転隊前長く所属して居った鹿児島聯隊より派遣せられて居た後藤英範より、
菅波中尉が革新的人物なることを聞き、休日毎に菅波の下宿を訪ねる様になった。
十月事件の体験と、菅波の啓蒙に因り、第四十四期生は国体問題、社会問題に関心を高め、
此方面の有識者の所説を訊ねる様になった。
同年 昭和六年十一月頃から権藤成卿を一同が訪ね、その談論講義を聞くこととなった。
そして権藤方で井上昭とも知り合ひ、其後数回井上昭を訪ね、十月事件失敗の真相を尋ねた。
右の如くにして、一同の革新的気分は一層強められて行き、一同は井上昭の人物に敬服するに至った。

同年 昭和六年十二月、
第四十四期生の一人、米津三郎候補生が、
社会問題に付て論じた一文を執筆し謄写版にて印刷し、配布した事件が発覚し、
学校当局は翌七年一月二十五日、
米津三郎、池松武志 等 関係者を退学処分に付した。
その大略は
日本国家の政策は、日本の経済の盛衰が農業にかかっている関係上、農村本位たるべし。
綱領として現在の経済機構は不合理であるから、凡ての生産機関を国営となすべく、
其の過渡期に於ては戒厳令を布き、戦時給付の状態となすべきである。
と言ふのであった。
この処分問題や、其後起った井上一派の暗殺事件は、一同の革新気分を弥が上に高からしめた。

一方 井上昭は第二陣計画をなすに当り、
古賀、中村両中尉に、
この士官候補生の一団のあること 竝 井上と或る連絡のあったことを告げて自首したのであった。

三月十三日、
古賀、中村 両海軍中尉は天行会道場に頭山秀三を訪問し、井上昭自首の経過を聞いた。
両名は更に、大蔵栄一陸軍中尉宅を訪ね、大蔵、安藤輝三 陸軍中尉に、
井上等の後続部隊として蹶起方を促したが、満足な返答を得ることが出来なかったので、
古賀は安藤に、第四十四期生と会へる様連絡して呉れと頼んだ。
安藤は
候補生は焦って居って困るから煽動して呉れるな、
兎に角、二十日に歩三の自分の処で、陸軍側同志の会合があるが、
それに候補生が出ることになっているから、其時来て呉れ
と告げた。

三月二十日、
中村海軍中尉は歩三に行って、
陸軍側、安藤輝三中尉 ( 歩三 )、大蔵栄一中尉 ( 戸山教官
)、朝山小次郎中尉 ( 野戦砲工学校分遣中 )
村中孝次中尉 ( 陸士予科第一中隊第一区隊長 )、佐藤中尉 ( 歩三 )、
相澤三郎少佐 ( 千葉歩兵学校分遣中 )、士官候補生代表 坂元兼一
に面会し、陸軍側の蹶起を極力進めた。
併し 陸軍側は自重論を執って応じなかった。
坂元候補生は両者の説を聞いて居って、海軍側の決意に感動し、中村海軍中尉を別室に呼んで、
参加の意思のあることを打明け、明日同期生一同が面会することを約束した。
・・・リンク→ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」

三月二十一日、
春季皇霊祭当日、東京市外大久保町百人町一七八番地 藤田儀治所有の家屋に於て、
古賀清志海軍中尉と、第四十四期候補生 後藤英範外十名
退校処分後一旦帰国したが当時上京して居た池松武志とが面談した。
古賀は陸軍将校は自重に傾き、ともに計ることが出来なくなったから、候補生の合同参加を要望した。
一同は之を快諾し、候補生等は従来、菅波等の統制下にあったのであるが
茲に海軍側と合体することになり、遂に其の参加を見るに至った。

四、大川周明  ・・・略
五、本間憲一郎
六、頭山秀三  ・・・略

(三)  古賀、中村 等の活躍
古賀、中村 両海軍中尉は、井上が十一日自首し、血盟団が全部検挙せられた後を承けて、
以上の諸関係勢力に向って直ちに働きかけた。
三月十三日午前
古賀、中村は、牛込区戸山町の大蔵栄一中尉宅を訪問した。
大蔵中尉は戸山学校教官 ( 体操 ) で、細事に頓着せぬ性格で菅波一統に属していたが、
井上昭一派とも近く、血盟団の古内栄司は二月下旬、官憲の追跡を逃れる一面、
大蔵中尉と密接な関係を結び、第二陣ら獲得しようとして大蔵中尉方に潜伏し、
三月十一日朝 同所から検挙せられたのであった。
古賀、中村 両名は大蔵方に行き、血盟団の池袋正釟郎と落合ひ、
大蔵栄一、及び 来合せた安藤輝三中尉に、口を極めて共に蹶起せんことを勧めた。
併し、大蔵、安藤は判然としなかった。
そこで古賀は、安藤中尉に、士官候補生に会へる様にして呉れ、と頼み
安藤は、
次の日曜日二十日に麻布歩兵第三聯隊の自分の許にて、
陸軍側の会合があってそこへ士官候補生が来ることになっている。
併し、候補生は焦っているから煽動的なことは言って呉れるな、
と云って会見の機会を作ってやった。

古賀、中村は其夕刻 天行会道場に行き、
頭山秀三に会ひ、井上昭の自首の模様を聞いた。
そして頭山に、自分等が近く起つことになっているから貴方も一緒に蹶起するやうに願ひ度い、
士官候補生も共に起つ見込みがある。
手榴弾は手に入っているから、拳銃を都合して呉れと頼んだ。
頭山は大いに喜んで拳銃も機関銃もある。拳銃三十挺位は準備出来る。
自分でも極力同志を動員するやうに計画を立て地方を廻って見ようと申した。

三月二十日 ( ・・・リンク→ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
)
中村上京し、歩兵第三聯隊に行き、前記の如く士官候補生と提携することが出来た。
同日古賀は愛郷塾に行き、橘孝三郎 及 後藤圀彦に計画を打明け、さんかを求め両名の承諾を得た。
中村は大蔵方を出て長野朗を訪ね様として、明治神宮表参道同潤会アパートの菅波の留守宅を訪ね、
菅波の留守を預って居った、渋川善助、池松武志に教へられ長野方を訪れ、同人の改造意見等を尋ねた。
更に 中村は其夕刻
池袋正釟郎より十三日上京の際、血盟団で四元の連絡下にあり警視庁に判らずに居る奥田秀夫の住所を聞いて居ったので、
市外野方町新井四五三林新太郎かた四元義正 ( 義隆の兄 ) の許に居った奥田を訪ね、
同人を参加せしむることにした。

三月二十一日、
東京市外大久保百人町 ( 現淀橋区百人町三丁目三七八番地 ) 藤田儀治所有貸家に於て、
後藤英範等十名の士官候補生 及 池松武志と古賀、中村 両名が会合し、
古賀等より其の所信 及 計画を披露し参加を求めたところ、
士官候補生 及 池松 等は即座に快諾し 其の提携が成った。
当時陸軍青年将校の一団は、自重的態度に決して居ったので、
従来菅波の統制下にあった候補生が、海軍側に走るのを制止しようとして居った。
この会合のあることを察していた大蔵栄一中尉は、この会談の済んだ頃同所に来たが、
此時は既に海軍側及候補生等は、陸軍側の自重的態度を慊あきたらずとして、
是と全く絶縁して決行する決意を固めた時であったので、
大蔵中尉にこの会合の結果を秘して別れた。
尚 池松は此日迄、菅波が上海出征の動員業務のため帰宅せぬ様になったので、
其の留守を預っていたのであったが、此の提携が成立して直ぐ、菅波の留守宅を失踪して、
菅波一統に住所を秘して海軍側に連絡しつつ、襲撃準備のため首相官邸の偵察を始めた。

三月二十三日、
本間憲一郎自宅 ( 茨木県土浦町真鍋大一、二二三番地築山塾 ) より電話があって、
古賀は築山塾に行った。
本間は頭山秀三より話を聞いた。
拳銃は自分が都合するから、あまり頭山秀三を表面に出さない様にして呉れ、
と頭山満翁に累の及ぶことのない様注意した。

三月二十六日、
古賀は愛郷塾を訪れ連絡した。
三月二十七日、
古賀、中村は大川周明を訪問し、愈々四月中旬から五月中旬迄の間に於て一斉に起つことを話す。
大川は拳銃軍資金を都合することを約束した。
中村は其帰途、天行会に行ったが頭山秀三は病気にて面会出来ず、本間より古賀に対すると同じ話があった。
一方古賀は、士官学校附近の三省舎に於て、坂元候補生に会ひ、
更に後藤候補生の下宿に行き、後藤、中島 両候補生に会ひ所要の連絡を執った。

三月二十八日、九日頃
古賀、中村は其の下宿、土浦町大和町 来栖万之助方にて第一次計画を樹てた。
それに依れば
会員を六組に分ち
第一弾に於て、首相官邸、牧野内府邸、華族会館、工業倶楽部、政友会本部、民政党本部
の六箇所を襲撃し
第二弾に於て三組に分ち
一組は、東郷元帥邸に到り 同元帥を宮中に御伴する。
二組は、権藤成卿を荒木陸相官邸に連れて行く。
三組は、刑務所を襲ひ 血盟団被告を奪還する。
ことと東郷元帥を推戴し、戒厳政府を出現せしめ、
権藤の主催する自治主義を基礎として国家改造を行ふと云ふのであった。

四月一日、
愛郷塾後藤圀彦に右計画を打明けた。
四月三日、
古賀上京して大川周明方を訪ね、大川より拳銃五挺実包百二十五発と軍資金千五百円を貰ひ受けた。
それより古賀、中村は三省舎に行き、坂元候補生に会ひ 第一次計画を話し各候補生の配置を定め置くことを依頼した。
更に 池松武志と連絡し、池松に襲撃個所の偵察方を命じ、
其後毎週火曜日夕刻、土浦町山水閣にて連絡することを定めた。
池松、奥田は、其後偵察に努め、鳥観図等を作り、山水閣にて毎週一、二回連絡を続けた。

四月四日、
古賀は同志村山格之 ( 上海 )、林正義 ( 佐世保 )、山岸宏 ( 鎮海 )、村山功 ( 舞鶴 ) に計画を通報した。

四月十日、
古賀、中村は近く臨時議会開催せらるとの報を聞いて、計画を変更し議会襲撃を計画した。
池松に議事堂の偵察を命じ橘に依頼し、風見代議士より傍聴券を貰ふこととした。

四月十六日、
古賀は愛郷塾を訪問し、橘に第二次計画を話し、傍聴券の件を依頼した。

四月十七日、
古賀上京、頭山方に行き本間より拳銃三挺実包若干を貰ひ受けた。

四月二十一日頃、
村山格之突然土浦に来た。
古賀、中村は村山より佐世保の林正義の下に手榴弾が到着したことを聞き、村山より拳銃一挺実包百五十発貰ひ受けた。
此の日頃、西田税が此の計画を探索し、他に洩らすらしき様子があるとして、
古賀、中村は橘、後藤と相談し、川崎長光をして西田を暗殺せしめることに決定した。
尚 此の日頃、本間憲一郎宅にて同人より、拳銃二挺実包若干貰ひ受けた。

四月二十三日、
電報あり、古賀は横須賀水交社に行き 山岸と会ひ、同人が血盟団関係にて軍法会議の取調を受けたことを聞き、
至急決行を決心した。

四月二十七日頃、
古賀、中村は議会開会中は、士官候補生が富士山山麓に野営に行くことが判り、
五月十五日、首相官邸にてチャップリンの歓迎会開催の予定であるから、
其の席上を襲撃することに変更した ( 第三次計画 )

四月二十九日、
古賀上京、大川周明り軍資金二千円貰ひ受け、五月十五日決行を話した。
黒岩勇を佐世保に派遣し、鈴木四郎、古賀忠一、林正義、三上卓に連絡せしむることとした。
此の日頃、チャップリンの件は、不正確なことが判り、古賀、中村は第四時計画を樹てた。
これに依れば次の如くである。
「 第一段、  全隊を三組に分ち、首相官邸、牧野邸、工業倶楽部を襲撃する。
第二弾、  一、二組は憲兵隊に自首し、三組 ( 工業倶楽部 ) は東郷元帥を宮中に参内せしめること。
別動隊として、愛郷塾は変電所を襲撃し、東京市内を暗黒化する。
川崎長光は西田税を暗殺すること。
斯くして軍政府樹立した暁は、大川と通ずる陸軍同志、長野朗を中心とする農民一派、
大川、頭山系の民間革命家其他一般愛国団体が、此の軍政府を支持することを予想する。」

其後同志間の往復頻繁に行はれていた。
尚 血盟団事件の取調に依り、海軍側同志の身辺も漸次危険となって、
既に浜大尉は三月初より取調を受けて居り、村山格之は上海より呼び返され、禁足を命ぜられる状態で、
海軍側では非常に決行を急いで居った。

五月六日、
佐世保より手榴弾二十一個を持って帰京して居った黒岩勇り、
北豊郡王子町下十条 田代平方に於て、愛郷塾一派の同志林正三に変電所襲撃用手榴弾六個が交付された。

五月八日、
豊多摩郡淡谷町神宮通り一丁目二十番地 蕎麦屋方 万盛庵に於て、
古賀、黒岩、山岸、村山等海軍側と士官候補生と会合し、五月十五日決行と決定した。

五月十三日、
茨木県土浦町山水閣に於て、古賀、中村、池松、奥田、後藤圀彦が会合し 最後の計画を協定した ( 第五次 )

五月十五日午後五時半、遂にこの計画に依って一斉蜂起した。

第二節  犯罪事実の概要
以下省略


西田税と十月事件 『 大川周明ト何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ 』

2018年02月11日 15時46分40秒 | 十月事件

 
西田税 

西田税と大學寮 1 『 大學寮 』
・ 
西田税と大學寮 2 『 靑年將校運動発祥の地 』 


大正十四年の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
間もなく、長居は無用と思ったか
「 出よう 」
と ぶっきらぼうに私を促がして、トットと歩き出す。・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」


 大川周明
被告人ハ、大川周明ト
何ガ原因デ意見ガ衝突シタカ

私ハ、人ノ惡イ事ハ申上ゲタクアリマセヌガ、
大川トノ關係ニ改造ノ信念ニ附左程距離ガアルトハ思ハレマセヌシ、
又距離ノアル程ノ具體案ヲ大川ヨリ示サレタ事モアリマセヌ。
思想的衝突ヨリモ感情的衝突ガ大デアリ、
其ノ感情的衝突モ私自身ノ感情ヨリモ先輩諸士ノ感情デアリ、大川其ノ者ノ感情デアリマシタ。
其ノ譯ハ、先輩ガ大川ニ對シテ言ヒタイ事ガアルト私ヲ嗾そそのカシ、
私ハ若氣ノ至リデ夫レヲ引受ケテ大川ニ言フ云フ始末デ、
改造意見ニシテモ私ハ言ヒタイ事ハ福藏ナク言ヒ、
聞キタイ事ハ遠慮ナク聞クト云フ風デアツタ爲、
何時ノ間ニカ私ガ表面ノ人トナリ、大川ノ感情ヲ碍
シタノデアリマス。
ソシテ、結局私ガ行地社ヲ撹乱シタト云フ様ナ事ニナツタノデ、
其ノ責ヲ負フテ脱退シタノデアリマス。

十月事件トノ關係ハ
此事件ニハ、最初ハ民間側ハ參加セシメズ、軍人ダケデ重臣ヲ襲撃スルノダト聞イテ居リマシタ。
其ノ内同年 ( 昭和六年 ) 九月彼ノ満洲柳樹屯事件ガ勃發シ、皇軍ガ満洲ノ野ニ於テ轉戰スルニ至リ、
前途ノ見透シガ附カナクナツタ時、第一ニ憤慨シタノハ、
元老重臣ノ一團 ト 軟弱外交家ノ方面デ、
満洲事變ハ軍ノ侵略主義ノ陰謀デ、陸軍ニ於テ作爲シタト云フ者ガ出テ來マシタ。
私ハ、満洲事變ハ國家改造ノ前奏曲ダトノ信念ヲ持ツテ居リマシタノデ、
斯様ナ言ハ斷ジテ許ス事ハ出來ナイ、黙過シテ置テハ日本ハ將來何ウナルカ判ラヌト思ヒ、
大ニ義憤ヲ感ジ、爲ニ内容如何ニ依ツテハ、十月事件ニ參加シタイト云フ希望ヲ抱クニ至リマシタ。
一方聞ク処ニ依リマスト、表面民間側ハ參加セシメナイト云ヒナガラ、
既ニ大川ハ參加シテ維新詔勅ノ原案ヲ書イテ居ル事ガ知レ、
私モ怒リマシタガ、青年將校、殊ニ菅波ハ私以上ニ大ニ怒リ、
大川ヲ參加セシメル位ナラ、同ジ民間側デモ 元軍人タル西田ヲ何故參加セシメナイカト言出シタ結果、
私ハ橋本ヨリ、十月ニ入レバ君モ參加シ同志ヲ聯レテ斬込ムデクレ、
尚 青年將校ノ方ヲ宥なだメテクレト頼マレマシタ。
然シナガラ、私ハ、大川ガ詔勅原案ヲ書イタリシテ 陛下ヲ強要シ奉ルノハ不都合ダト思ツタ計リデナク、
聞ケバ近衛ノ聯隊ヨリモ出ルトカ、機關銃隊ヲ引率シテ出動スルトカ、
軍旗ヲ持出シテ二重橋前ニ集合スルトカ、蹶起シタ者ニハ勲章ヲ授与スルトカ、
誠ニ不都合ナ計劃ナルコトガ耳ニ入リマスノデ、
私ハ事ノ意外ニ驚キ、自分ノ信念ヨリシテモ困ツタ事ダト思ヒ、
橋本ニ對シテ随分思切ツタ反對意見ヲ述ベテ忠言シ、
最後ニハ同月十六日午後橋本ニ會ツテ計劃ノ實際ヲ知リタイト言ヒ、
結局 同月十九日午後 若イ者ノ納得する様ニ話シテ貰フ事ニシテ、再会ヲ約シテ別レタノデアリマスガ、
其ノ夕刻頃ヨリ彈壓ガ始マリ、其ノ夜ノ内ニ幹部ハ憲兵隊ニ聯行サレタノデアリマス。
斯様ニ、私ハ、十月事件ニハ最初青年將校ガ團結蹶起シテ重臣大官ヲ襲撃シ、
陸軍參謀本部、警視庁等ヲ占據スル位ノ計劃ダト思ツテ聯絡ノ様ナ事ヲヤリ、
次デ、事ト次第ニ依ツテハ末席ニ加ハリタイト云フ氣持ニナリマシタガ、
參加不參加ヲ決定シナイ内ニ檢擧ニ會ツタ次第デアリマス。
其ノ後建川中将ニ會ツタ時、同中将ハ 「 アムナ薄ツペラナ計劃デ何ガ出來ルカ 」 ト言ツテ居リマシタガ、
私モ杜撰ナ計劃デアツタ爲ニ、事前ニ發覺シタカモ知レヌト思ヒマシタ。
當時ノ青年將校ハ、唯暴レ廻ルト云フ事ノミデ集ツテ居ツタ様デアリマス。
私トシテハ、直接行動、破壊行動ハ宜シクナイトハ思ツテ居リマシタガ、
必要已ムヲ得ナケレバ個人個人デ起ツノハ仕方ガナイ、
又時ニ依ツテハ、好イ結果ヲ得ル事モアル位ニ思ツテ居リマシタガ、
大命ナクシテ軍隊ヲ動カシテ蹶起スレノハ、賛成出來マセヌ。

     
菅波三郎                末松太平        橋本欣五郎      建川義次
・ 末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」 
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」 )


十月事件ガ不發ニ終ツタノハ
被告人ガ洩ラシタト云フノデ、或方面ノ不平ヲ買ツタノデハナイカ

左様ナコトガアリマシタガ、私ガ洩ラシタモノデハアリマセヌ。
夫レハ、最初カラ私ヲ快ク思ツテ居ナイ連中ガ、私ニ冤罪ヲ被セル爲ニ左様ナ事ヲ言触シタノデアリマス。
私ハ大川ト大正十四年以來別レテ居リ、
大正十五年所謂宮内省怪文書事件當時、大川ハ牧野内大臣、関屋宮内次官ニ直接仕ヘ、
私トノ間ハ公然ト敵味方ニナツタ譯デアリマス。
ソシテ、私ガ留置サレテ居ル時、其ノ事件ヲ穏便ニ済マシテクレト三千円届ケラレマシタガ、
夫レハ大川ガ牧野ト相談ノ結果持ツテ來タモノデアリマス。
然シ私ハ、金ガ目的デナク、肅正ヲ目的トシテ起ツタノデアリマスカラ、其ノ金ヲ警視総監迄突返シマシタ。
大川ハ此事ニ結附ケテ、北、西田ハ前ニ三千円ヲ貰ツタガ、
又金ガ欲シイモノダカラ十月事件ヲ密告シタノダト言觸シタノデアリマシテ、
私ハ之ヲ耳ニシテ非常ニ憤慨シテ大川ニ談ジ込ミマシタ処、
大川ハ惡カツタト言ツテ謝罪シ、詫証文ヲ私ニ差入レテ濟マシマシタ。
其ノ頃ヨリ同人ハ、私ヲ正面ノ敵トスルニ至リマシタ。
十月事件ニハ、私ハ變ナ關係デ參加シタカノ様ニナリマシタガ、
大川等ハ、西田ガ入ツテ青年將校ヲ團結シ、幹部ニ對スル不平ニ向ハシメタノダト宣傳シタ位デ、
其ノ後何事ニ依ラズ私達ニ全部ノ責任ヲ被セ様ト掛ツテ來テ居ルノデ、
大川派ノ考デハ、自分達ニ對抗スルノハ西田派デアルト云フ様ニナリ、
凡ユル壓迫、凡ユル迫碍ヲ加ヘ、實ニ言語ニ絶スルモノガアリマス。
其ノ後幾多ノ事件ガアリマシタガ、其ノ度毎ニ私ニ對スル惡宣傳ヲ怠ラズ、
世人ヲシテ常識的ニ西田ハ惡イ奴ト思ハシメル迄ニ仕向ケテ來タノデ、
何事ガアツテモ世人ハ私、西田ガ遣ラセタト思フ様ニナツタノデアリマス。
私ハ、其ノ都度眞相ヲ明カニスレバ 私ノ態度モ自然世人ニ判ツタデアリマセウガ、一切ヲ喝殺シテ參リマシタ。

十月事件ノ事ヲ北ニ話シタカ
北ハ、以前何ウデアツタカ判リマセヌガ、
私ガ知ツテヨリノ北ハ、信仰一点張リデ世間ノ動キニ縁遠ク、
年ト共ニ益々甚ダシクナリ、近時ハ殆ド世間ノ状況ヲ知ラナイ様デアリマス。
北ハ神秘的生活ニ浸ツテ居ルノデアリマス。
人ガ此事實ヲ信ズルト信ゼザルハ別デアリマス。
然シ、十月事件ノ事ハ既ニ承知シテ居タ様デアリマスガ、私カラ話シタモノデハアリマセヌ。
又、別ニ北ヨリ指示ヲ受ケタ事モアリマセヌ。
本件ガ暴露スル前頃ニ私ヲ殺ストカ、北ガ邪魔ニナルトカノ噂ガ立ツタノデ、
私ハ身ノ危險ヲ思ハズ北ノ家ヲ見張ツテ上ゲタ事モアリマシタ。
大川系ノ者ハ、私ノ背後ニ北ガ居ルモノト観察シテ居タ様デアリマス。
私ヲ殺スト言ツテ居タノハ實際デアツテ、友人ノ天野大尉ガ知ラシテクレマシタ。
・・・
私ハ、十月事件ニハ反對トモ賛成トモ明言セズ、敦ラ就カズノ立場で居ル時、
何故私ノ命ヲ狙ツタカト云フ理由ハ判リマセヌガ、
想像スルニ、行地社以來ノ感情ガ解ケテ居ナイノデ、
私ニ參加セラレテハ大川派ニ都合ガ惡いト思ツタ爲デハナイカト思ヒマス。

其ノ後大川周明ト對決サセルベク、
被告人ハ偕行社ニ出席スル通知ヲ受ケタ事ガアルカ
手紙デ 「 長少佐ガ満洲ニ帰任スルノデ、此機會ニ懇親会ヲヤリタイカラ偕行社ニ來テクレ 」
  ト云フ趣旨ノ案内狀ヲ受ケタコトガアリマス。
処ガ、當時ハ警視庁ヨリ四名ノ尾行ヲ附サレテ居リマシタノデ動カレズ、
私ガ出席スルニハ尾行ヲ聯レテ行カネバナラズ、
夫レデハ何ムナ事ヨリ何ムナ迷惑ヲ人ニ掛ケル様ニナルカモ知レヌト思ヒ、
「 貴方ノ方デヤツテクレ 」 ト申シテ出席ヲ斷リマシタ。
其ノ斷リ狀ヲ出シタ後、
西田ヲ捕ヘテ大川ト對決サセテ、
負ケタ方ヲ打殺スト云フノデ案内ヲ寄越シタノダト聞キマシタノデ、行カウカト思ヒマシタガ、
十月事件失敗ノ原因ヲ橋本ヨリ聞イテ居リマシタノデ、皇軍ノ名ヲ傷ツケテモナラヌシ、
改造運動ヲ阻碍シテモ惡イト思ヒ、
又北ヨリ、國家ノ大事ヲスル者ガ其ノ位ノ事デ怒リ、軽卒ナ事ヲシテハイカヌト諫メラレ、遂ニ出席致シマセヌデシタ。
処が偕行社ニ出席シタ者ハ、西田ハ出席シナイカラ負ケタト云ツテ、敗訴ノ判決ヲ下シタトノ事デアリマス。
今カラ考ヘテ見マスト、其ノ際出席シテ置ケバ宜カツタト思ヒマス。
出席シナカツタ爲ニ、其ノ後凡ユル壓迫ヲ受ケ、コムナ苦シイ生活ハアリマセヌデシタ。

被告人ハ、菅波ヨリ偕行社ニ於ケル狀況ヲ告ゲ、
來レバ危險ダカラ來ナイ方カセ宜イト言ハレタノデナイカ。
其ノ時ハ秋季演習デ、隊附將校ハ演習ニ出テ留守デアリマシタノデ、其ノ様ナ事實ノアルベキ筈ハアリマセヌ。
私モ、對決ハ將校ガ皆歸ツテカラ堂々トヤレバ宜イデハナイカ、ト申シタ事デアリマス。

被告人ハ先程人ノ惡イ事ハ言ヒタクナイト申シタガ、
大川周明ト別ルルニ至ツタ事情ヲ詳シク述ベテハ何ウカ
夫レハ、運動上ノ問題ト、私的ナ問題ト、安田保善社關係ノ三ツノ原因ガアリマス。
運動上ノ問題トシテハ、
大川ハ常ニ自己ヲ中心トシテノ考方ヲスル人デ、
行地社ニ在テモ行地社内閣ト稱シ、宛モ自分ガ総理ナルガ如ク言フノデ、
此點ハ憎ムベキ所ガ無イカモ知レマセヌガ、私ハ其ノ様ナ事ヲ云フノハ嫌ヒデアリマス。
私トシテハ、仮令苦勞シテ下積ニナラウトモ、
國家、社會、人類ノ爲ナラバ働キタイト一種ノ信仰的運動ヲヤルベキデナイカト思ツテ居リマスノデ、
現實的ナ自己内閣迄考ヘルノハ、罪惡デナイ迄モ子供瞞シノ様ニモ考ヘラレルモノデアリマス。
大川ハ、當時牧野ガ宮内大臣デ居ルノデ、大分頼リニシテ居タ様デアリマスガ、
改造改革運動ハ奴隷的デナク宜シク自主的デナケレバナラヌ、
奴隷的デハ或形コソ出來ルカモ知レマセヌガ、精神的維新ハ望マレヌト思ヒマス。
次ニ私的問題トシテハ、
大川ハ家庭ヲ顧ミズ酒色ニ耽ふけルノ風ガアリマスノデ、満洲其ノ他ノ者ヨリ幾度忠告シテモ少シモ肯入レズ、
一方同人ヲ誘惑スル者モアツテ却テ益々激シクナリ、酔ヘバ必ズ亂暴スルナド色々ノ失敗ヲ繰返シテ居リマシタ。
其処デ行地社先輩ガ相談シタ結果、
大川ニ對シテ言ヒタイ事ヲ言ヒ得ルノハ西田ダケダカラ、
大川ヲ諫言スル役ヲ西田ニ頼マウト云フ事ニナリ、私ニ其ノ話ガアツタノデ、
私ハ若氣ノ至リデ之ヲ引受テ大川ニ打突カツテ行キマシタ。
其ノ頃恰モ安田保善社關係デ爭議ガ起リ、
夫レニ行地社同人ノ一人ガ關係シテ居ツタノデ、
行地社トシテ爭議ニ關係スルカシナイカノ態度ヲ決定スル爲協議シタ結果、
安田財閥ノ様ナ不正行爲ニ充チ、腐敗シテ居ルモノハ國家ヲ毒スルモノデアルカラ、
是非肅正スル必要ガアルカラ、行地社トシテ全部ガ起タウト云フ事ニナリ、
同人全部ガ社員ニ味方シ、安田財閥ニ向ツテ攻撃ニ出タノデアリマス。
処ガ元々行地社ノ費用ハ、安田ヨリ出シテ貰ツテ居タ物質關係ノアツタ爲カ、
内部ヲ撹亂サレ、結果ハ反對ニナリマシタ。
スルト、何処カラトモナク、私ガ行地社ヲ撹亂シタトノデマガ飛ビマシタ。
依テ私ハ大川ヲ訪レ、事情ヲ聞キタイト捻込ミマシタガ、何デモ其ノ間ニ喰違ヒガアツタ様ダシ、
内訌ヲ生ジテハナラヌト思ヒ、再ビ結束スル様骨ヲ折ル事ニ決心シテ、
大川ニ對シテ結束スルニ附テノ意見ヲ述ベタノデアリマス。
此意見ノ開陳ト、右先輩ヨリ頼マレタ諫言トガ一緒ニナツタノデアリマス。
其ノ時大川ハ、ヨク私ノ言フ事ヲ聞イテクレマシタカラ、
私ハ喜ムデ歸リ、其ノ結果ヲ報告スル爲先輩ヲ訪問シマシタ。
処ガ既ニ大川ガ行ツテ居リマシテ、私ニ
「 今皆ノ者ニ聞イタガ、誰モ僕ニ對スル諫言方ヲ君ニ頼ムダ者ハナイガ、君ハ社ヲ撹亂スルノカ 」
ト申シマシタガ、
先輩達ハ何モ発言シナイノデ、
私ハ行地社ヲ撹亂シタモノトシテ責任ヲ負ツテ脱退シタノデアリマス。
聞ケバ大川ハ、私ヨリ先ニ先輩ノ所ニ行ツテ、
自分ニ忠告スル様西田ニ頼ムダカ何ウカト一々聞キマシタ処、
今迄モ直接大川ニ言ヒ得ナカツタ様ナ連中ノ事トテ、
孰レモ頼ムダ事ハナイト否定シタトノ事デアリマス。
ダカラ、私ガ行ツテヨリ大川ガ私ニ右ノ様ニ申シタ時ニモ、
誰一人頼ムダト云フ者ガナカツタ次第デアリマス。
爾来大川トハ敵対行動ニハ出マセヌガ、對蹠的たいせきてき關係ニ在ツタノデアリマス。

夫レ位ノ事情ナラバ、十月事件ノ時大川一派ヨリ怨マレル様ナ事ハ無イ筈ノ様ニ思ハレルガ如何
私トシテモ、別ニ大川一派ヨリ怨マレタリ憎マレタリスル筈ハナイト思ツテ居リマス。
宮内省ノ事件ニシテモ、満川等ハ私ニ賛成シテクレタ程デアリマス。
唯大川トシテ見レバ、彼是感情ヲ害シテ居ルモノト思ヒマス。
私ニハ判リマセヌガ、其ノ後大川一派ヨリ怨マレテ居ル様ナ噂ヲ屢々耳ニスルノデアリマス。

彼らガ被告人ヲ怨ムノハ、何カ深イ仔細ガアルノデハナイカト思ハレルガ、
被告人トシテ夫レヲ言ヒ得ナイ立場ニ在ルノデハナイカ
決シテ左様ナ事ハアリマセヌ。

ニ ・二六事件西田 ・北裁判記録(三)  第一回公判 から


絆 ・ 西田税と末松太平

2018年02月10日 18時26分31秒 | 十月事件

 
末松太平          西田税

出征の電報を受取った翌早朝、私は先づ 西田税 を訪ねた。
こんどは旅刀ではなく本物の軍刀を吊った。
が 早朝から物々しく軍刀を吊って訪ねては 偕行社の会合の直後だけに、
寝込みを襲った、と 思われたくないので、玄関をはいる時、軍刀をはずすと、
外の柱に立てかけておいた。
夜の遅い西田は まだ寝ていた。
応接間で待っていると、ねむそうな顔で、
「 どうしたんだ、朝早くから。」
と 起きてきた。
「 出征ですよ。」
というと、
「 なにッ、出征。 じゃ金がいるだろう。」
といって、
西田は一度ひっこんだが、百円札二枚持ってまた出てきた。
そこで私は、「 一つ、軍刀をみてもらおう 」 と 玄関の外に出て軍刀を取ってきた。
この軍刀は斬奸用にとおもい、白鞘のままだったのを、戸山学校に入校するとき持ってきて、
士官学校前の軍刀店で外装を急がせたものだった。
それが内敵用には無駄になって、外敵用にふりかわることになったのだった。

西田のうちを出ると、もらった金で軍装品を買いととのえるため、九段の偕行社に向った。
いるだけのものを買って、余分にスイス製の日付のでる時計やドイツ製の精巧な磁石まで買ったが、
それでもらった金の半分も使い切れなかった。

昼に戸山学校にいって校長以下の祝詞をうけ、大蔵中尉や後藤少尉らと一緒に下宿に帰ると、
西田夫妻がラクダのシャツをはなむけに持参して待っていた。
「 刑事と一緒に車できたのだから、駅までは見送らないよ。
下宿代などあとのことは心配いらないからね。」
といって西田は、
子供のときから持っているという お守袋を私にくれた。
「 こんな男は決して戦死などしないよ 」
と いいながら。
このころ私と同じ聯隊から戸山学校の教官に三期先輩の中尉がきていたが、
これが同じ聯隊というだけで、大蔵中尉らと一緒に下宿まできていて、
「 おい、下宿代は払ったろうな。」
と、そればかりを気にして、くどいほど念を押した。
この中尉は平田聯隊長から私の行動監視を命ぜられていたらしく、
十月事件も、班の青年将校に私のことをうるさくききただすので、お目付け、と 彼等にいわれていた。
部隊の出征に間に合うためには、この日の明るいうちに上野を発たねばならなかった。
それで朝から忙しかった。
上野駅に向かう自動車のなかで大蔵中尉は、
「 貴様に対する西田氏の友情をみていて、西田氏に抱いていたおれの誤解は解けた。
あとは菅波と相談してやるよ。」
と いった。
上野駅には 西田税からきいたとみえ、
井上日召,四元、澁川が見送りにきていた。
「 あとのことは引きうけたから、安心していきなさい。」
このことばにはいつわりはなかった。
間もなく 一人一殺が実行に移され、満洲にまでその報は伝わってきた。
・・末松太平著  私の昭和史 から

  大蔵栄一 
十月中旬であった。
青森歩兵第五聯隊から末松中尉のもとに、満洲出征の部隊に編入するという通知がきた。
卒業の直前であったが、原隊に復帰することになった。
私はさっそく末松の下宿にかけつけた。
そこはすでに西田夫妻がきていて、なにくれとなく世話をしていた。
『 十月事件 』 の余燼よじんのくすぶりに、ふたりの間は微妙な立場にあったが、
すべてを超越した兄貴らしい西田の友情に、私はすがすがしいものを感じた。
西田税と私との交友関係が急激に親密の度を増していったのは、このときからであった。
・・大蔵栄一著  二・二六事件への挽歌 より


昭和六年十月十七日、
橋本欣五郎中佐以下十数名が検挙されることによって
「桜会」 の急進分子を中心に起こしたクーデター計画は、空しく壊滅した。
所謂十月事件である。
この事件には後味の悪い、いくつかの問題があった。
その一つに このクーデター計画を未然に暴露したものは誰だ、という問題があった。
「バラしたのは橋本中佐自身だ」
と、西田税からきいたという
末松太平 ( 陸士三十九期 ) の不用意の一言が、波瀾を捲き起こして
「いや、バラしたのは西田税だ」 
「いや、橋本中佐だ」
と、水かけ論的蝸牛角上の争いが
とうとう橋本、西田の対決という愚にもつかぬ論争にエスカレートしていった。
そういうさ中に
戸山学校在校中の末松太平に
満洲出兵のための青森第五連隊への復帰、 という動員が下命されて、
さしもの嫌な問題も自然立ち枯れのかたちになったのは、むしろ幸いであった。
私は末松の青森聯隊復帰のことを知ってさっそく、彼の下宿にかけつけた。
そこには既に西田夫妻が来ていて、何かと身辺の面倒に心を砕いていた。
ややあって、
末松の同聯隊の先輩で戸山学校の体操科教官である中村中尉 ( 陸士三十六期 ) がやって来た。
やって来るなり
「 たつ鳥あとをにごすなよ、どこにも借金は残ってはないだろうな。
誰にも迷惑をかけぬようにしろよ 」
と、きくに堪えぬ言葉を末松に投げかけていた。
この中村中尉の 
「 俺には迷惑が、かかっては困るからな 」
と 言った如何にもみみっちい態度に比べて、
西田さんの態度はまことに立派であった。
バラしたバラさないの論争の中で、
どちらかといえば西田、末松の間には感情の齟齬があって、しかるべき関係に両者はあった。
と私は思わないではなかった。
だが今、目の前に見る両者の間にはその片鱗すらなかった。
ただ、あるものは信頼感に満ちた同志愛の清々しさであった。
同聯隊の先輩である中村中尉の、みみっちい態度 と 西田さんの清々しい態度とを思い比べて、
私は西田税という人が 一ぺんに好きになってしまった。
そのことがあってから、
私と西田さんとの交流は今までにも増して親密度を加えて行った。
・・大蔵栄一  西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から


末松太平 ・ 十月事件の體驗 (4) 「 なに、鐡血章、 誰が言った !! 」

2018年02月09日 18時42分44秒 | 十月事件

私が桜会の会合に出席するようになって、
すっかりうちとけてきた後藤少尉が、
学校の帰り途、肩をならべてあるきながら、
「このクーデターが成功したら、
二階級昇進させると参謀本部の人たちがいっています。」
と いった。
私にも行賞の及ぶことを伝えたい好意からにちがいなかったが、
これは聞き捨てならないことだった。
しかし私は聞き捨てにしようかすまいか 一瞬ためらった。
が 思いきっていってみた。
「ちょっと待った。 それはおれの考えとはちがう。
おれは革新イコール死だとおもっている。
たとえ斬り込みの際死なずとも、
君側の奸臣とはいえ、陛下の重臣を斃した以上は、
お許しのないかぎり自決を覚悟していなければならない。
失敗もとより死、成功もまた死だと思っている。
生きて二階級昇進などして功臣となろうとはおもっていない。
連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新と、
兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新とのちがいだよ。」
後藤少尉はしばらく考えていたが、
「そういわれてみればその通りです。
われわれも根本から考え直さねばならぬようです。」
と 素直に私の意見にしたがった。
二階級昇進のはなしをきくにつけても、
桜会急進派の革新に対し、益々異質なものが感じられた。
しかし、これと別個に革新を実行するとは、一体どういうことになるのか
・・・・という点に想到すると、急には明快な決断はつかなかった。
しかも実働部隊は部隊将校であり、
戸山学校、砲工学校、歩兵学校等の青年将校であり、混交してしまっている。
こういった空気のなかで、
野田中尉、菅波中尉と私が橋本中佐、西田税提携の仲介をした。
一緒にやってみたらどうか、ということになったのである。
これで改めて「郷詩会」グループの陸海青年将校、民間人が、
橋本中佐を中心とするクーデター計画に合流することになり規模は全国的なものに拡大した。
しかし時日が経過するうち、やはりしっくりいかないところがあった。
ある料亭で、長(勇)少佐と菅波中尉が連判状をめぐって争ったということもその一例だった。
私はこの会合には わざと出席しなかった。
料亭での参謀本部幕僚と青年将校の会合は、前から多かったが、
私は一度も出席しなかった。
特にこの連判状の会合には意識して出席しなかった。
その戸山学校の青年将校で、なぜ出席しなかったか、となじるものがあった。
私は、連判状がいるような同志では本当の同志とはいえまい、
またお家騒動の破局は連判状と相場が決まっているではないか、
といってとりあわなかった。
部隊将校は
斬奸目標と、それに必要な兵力の検討が行われ、
偵察もしているということだった。
私たち 戸山学校や砲江学校の学生は別働隊で、
適宜斬奸目標が示されるということだった。
私たちは折角剣術を習っているのだから、飛道具は一切使わず、
日本刀一筋でいこうということをきめ、誰いうことなく抜刀隊が通称になった。
自然餓鬼大将の私が抜刀隊長ということになったが、
学校の剣術教官柴有時大尉が、抜刀隊長を希望しているときいて、
それを柴大尉にゆずった。

梅林での会合は、
橋本中佐ら参謀本部側将校と在京部隊将校、戸山学校、砲工学校、
歩兵学校等諸学校将校との、いわば顔見せの会合だった。
どうせ地獄で落合うだろうが、この世で一度ぐらい会っておかないと、
その時お互い初対面で具合が悪かろうというので、決行を間近にひかえたことでもあるし、
一度一つ座敷に寄合って、一夜の歓を尽くそうというわけだった。
私は定刻少し前に梅林にいった。
東京各部隊の将校が大勢、控えの小部屋小部屋に別れて広間の宴会が始まるのを待っていた。
知らぬ顔が多かった。
定刻をすぎても橋本中佐らは現われなかった。
ほかにも一つ会合があって、それが済んでからこちらにまわるということだった。
それを告げに私たちの小部屋にはいってきた参謀本部の通訳将校、
天野(勇)中尉が、このとき私にとっては奇怪なことをもらした。
「これはまだいわないほうがいいかも知れないが、
橋本中佐はクーデターが成功したら、
天保銭を廃止して、諸君に鉄血章をやるといっている。」
前には二階級昇進のことを後藤少尉の口を通じてきいた。
信頼する野田中尉も、このとき同じ小部屋にいた。
私は野田中尉が何か抗議でもするかと、その顔をみた。
が 野田中尉は別に何もいわなかった。
私は 菅波中尉の現れるのを待った。
菅波中尉はこの夜、まだ来ていなかった。
ぶっつける言葉は準備していた。
随分遅れて橋本中佐らがやってきた。
ようやく広間で宴会が始まろうとして、芸者や女中の動きが活発になった。
控えの小部屋小部屋から将校が広間のほうに移動しはじめた。
私は広間に行く気がせず、小部屋に残って菅波中尉を待っていた。
  菅波三郎中尉
やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。

広間の床の間を背にして参謀懸章を吊った軍服姿の橋本中佐らが坐っていた。
部隊将校や諸学校の将校は、申し合わせたように着物に襟をつけていた。
広間はぎっしりつまっていた。
芸者にまじって酒を注いでまわる将校もいた。
遅れて座についた私は注がれるままに、ただ盃を干した。
参謀本部の将校も起って酒を注いで廻った。
「 君かね、抜刀隊長は・・・・・」 と 私に酒を注ぐものもいた。
酒が廻るにつれ、にぎやかになり座は乱れかかった。

その時 片岡少尉が気色ばんで、それでも声は落としていった。
「 ちょっと来てください。 菅波中尉が小原大尉と組み打ちをやっている。」
私が片岡少尉のあとにつづいてはいった部屋は、広間につづく小部屋だった。
組み打ちは終わっていた。
やっと仲裁者によって引き分けられたところだった。
小原大尉も菅波中尉もまだ息をはずませて、にらみ合っていた。
仲裁をしたらしい数人の青年将校が、これもみな顔面を紅潮さして、壁にくっついて坐っていた。
鉄血章が原因で口論になり、その果ての組み打ちだったことはきくまでもなかった。

 
末松太平 著

私の昭和史
十月事件の体験  から 


末松太平 ・ 十月事件の體驗 (1) 郷詩會の會合

2018年02月07日 16時34分53秒 | 十月事件


末松太平 大尉 
昭和六年

東京への出発を前にして大岸中尉はいった。
「 八月中に全国同志将校の会合を東京で開きたい。
 民間人は西田税、井上日召の二人だけにしぼりたい。
会場等の準備については金子大佐に相談して、貴公の手でやってくれ。」
・・・略・・・
あてにした金子大佐の転任で、会場問題が宙に浮いたので、
思案のあまり、数日後に西田税を代々木山谷に訪ねてみた。
士官学校卒業以来初めてである。
余年の空白は於互いになかったが、会場のことは警戒して切り出すことをためらった。
が西田のほうから、なんでもないことのように、
「 大岸からいってきている。会場のことは心配しなくていいよ。」 と いわれた。
・・・略・・・
これを機会に私は会合の打合せもあったし、毎夜のように西田税を訪ねることになった。

  
西田税               
井斉大尉       菅波三郎中尉    井上日召

そのある日、海軍の藤井斉大尉と菅波中尉が道場で西田を訪ねてきているのにぶつかった。
どちらもこれまで耳にタコのできるほど名前はきいていながら、初対面である。
菅波中尉はこのとき 鹿児島の連隊から麻布三聯隊に転任になったばかりだった。

藤井大尉と菅波中尉は、いつも客が集まる広い応接間の方でなく、狭い茶の間で西田税と話し合っていた。
私がそこへ入っていくと、西田が紹介せぬ先に藤井大尉が、「 末松さんですね。」 といった。
同志の直感というものであろうかと私は文句なく親しさをおぼえた。
しかし私の方には直感に狂いがあった。 
最初声をかけられたときは、実は藤井大尉の方を菅波中尉と思ったからである。
二人はどちらもゆかたに袴をつけていた。
一人は赭顔、無造作ななりだが、一人は白皙、折目正しく夏袴をつけていた。
海軍士官といえば、スマート、陸軍将校といえばどこか野暮ったいのが通り相場である。
その通り相場にしたがって、茶の間にはいった瞬間、藤井大尉と菅波中尉を、あべこべに直感したのである。
ちょうど私が話の仲間にはいったとき、
藤井大尉は、
「 こんど上京して大川周明を訪問し、
 いまの混沌とした世相では、ただ一人、先生を頼るほかはないと持ちあげたら、
三月事件であきらめず、もう一度この秋にクーテ゛ターをやるといってましたよ。」
と 西田税に話しかけていた。

日は忘れたが八月の某日、問題の会合は実現した。
場所は青年会館の畳敷の広間だった。
目じるしは 「 郷詩会 」 と なっていた。
西田の考案しそうな名称だった。
全国からの陸海軍青年将校四五十人に、
民間人は西田税、井上日召、
それにのちの血盟団のメンバーの人々や 澁川善助、高橋空山などが加わっていた。
血盟団、五・一五事件、二・二六事件の主要メンバーが、このとき一堂に会していたわけである。
どれが陸軍でどれが海軍か民間人かわからなぬほど、一様にゆかた袴の若者が広間に雑然と坐っていた。
がそのなかで一人だけ夏羽織をつけ、威儀を正して端坐している年輩の人物が私の目をひいた。

「 あれは誰だ 」
と 澁川善助にきくと
「 愛郷塾の橘孝三郎氏だよ 」
と 教えてくれた。
なかには 着物も袴も脱ぎすてて
シャツとステテコだけになっているものもあったなかなので、
それが何か場ちがいのもののように感じられた。

顔みしりどうしは自然にひとかたまりになる。
あちらにひとかたまり、こちらにひとかたまりになって、にぎやかに話し合っている。
そのなかにあって、
西田税、井上日召、大岸頼好、藤井斉、菅波三郎ら先輩が、
また別の意味でひとかたまりになって協議を遂げていた。
その教義の結果、
こんどの組織強化のため、
陸軍は大岸、
海軍は藤井、
民間は西田が
それぞれの中心となることにきまった。
それだけのことだった。
別に主義も綱領もきめる必要はなかった。
結局は互いに久濶を叙し、互いに自己を紹介しあい、
あるいは静かに、
あるいは元気よく語りあい、
冗談もいいあい、組織固めをしただけだった。
が 大岸中尉はひそかに私にいった。
  大岸中尉
「 海軍や井上日召あたりは、
ただの組織固めでは納得せず、
この会合を直ちに直接の計画に結びつけたい意見のようだ。
しかし こんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね・・・」
海上生活の多い海軍と、いつも陸上にいる陸軍とでは、
当然時機に対する感覚に食いちがいがあった。
陸に上がったときにチャンスとみる海軍と、チャンスはいつでも選べる陸軍である。
それが急進と時機尚早の意見のわかれとなって、
血盟団、
五・一五、
二・二六
と、
他に事情もあったけれども時機を異にした蹶起となって現れたのである。
もちろん陸軍のなかにも、海軍に劣らぬ急進分子がいるにはいた。
このとき大岸中尉と同行した弘前の三十一連隊の對馬勝雄少尉などがそれで、
対馬はこの会合を赤穂浪士の討入前の会合のように思って上京していた。
「 このまま弘前に帰れというのですか。」
と 目を据えていつて、眼鏡ごしに對馬は私をみつめもした。
對馬勝雄 

幾通りかの意見は各自にありながら、
ともかく 「 郷詩会 」 は 閉会にして、二次会といった格好で、場所を新宿の宝亭の二階広間に変えた。
酒の好き不好きで、酔うもの酔わぬもの、元気のいいもの、おとなしいもののなかで、
井上日召は素裸になって、和尚々々と海軍の連中に取りかこまれていた。
そのとき酔った海軍の大庭少尉がバルコニーから、往来に向って放尿した。
新宿の夜の雑沓、行きかう人の頭上から臭い雨が降ったのである。
宝亭の玄関に被害者が何人か押しかけたことはいうまでもない。
女中の知らせで下へ降りていった西田税が、しばらくして上ってきて、
「 あれはビールだ、ビールだていったが、なかなかきかなかったよ。」
と、目を細めて笑った。

この会合のあとも、私は何ごともなかったように戸山学校に通い、剣術、体操に励んだ。
そして毎晩のように西田税のうちに出掛けた。
藤井斉大尉、古賀清志、中村義雄中尉、大庭春雄、伊東亀城少尉らの海軍や、
菅波三郎、村中孝次中尉らの陸軍や、井上日召、小沼正、澁川善助らが、
このころの西田のうちで出合う常連だった。
会えば語り合い、語りあえばそこに何物かが胎動した。
それは 「 郷詩会 」 を 単なる組織固めに終らせたくなかった、
海軍のペースに乗ったものだった。
もともと大岸中尉が八月の会合を考えたのは、三月事件に刺戟されたからであるし、
桜会の動向に無視できないものを感じとったからであろう。
それにいつとはなしにつながってきた陸、海、民を、ここで統一ある組織にし、
統一ある行動に持っていく必要を感じたからでもあろう。
組織のための組織をきらって、
無組織の組織という、わかったようでわからぬ形でいつまでもいることはできない。
行動するためにはやはり組織を合理化したい気持ちの動くのは当然である。
しかも三月事件のぶり返しのクーテ゛ター計画もありそうだとなっては、
その組織固めが単なる組織固めに終らず、
自らも一つの実行計画を持つことを捉されるのは、
これまた当然の成行であって、海軍を急進派とのみいっておれなくなるわけである。
西田税のうちを連絡場所にするともなくしているもののあいだで、
実行計画が自然に話し合われるようになるのも当然の成行である。
ペースは知らぬ間に海軍のものになるのだった。

末松太平著 私の昭和史 十月事件の体験 より
次頁 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」 に続く


末松太平 ・ 十月事件の體驗 (2) 櫻会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」

2018年02月06日 16時22分41秒 | 十月事件


末松太平
前頁 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合 の 続き

当時東京から千葉にかけての陸軍の諸学校では
私の二期後輩の四十一期生が圧倒的に多かった。
千葉の歩兵学校、東京の戸山学校、砲工学校に、
四十一期生の大量が全国の連隊から派遣されてきていた。
この四十一期の士官学校在学中の区隊長である小原大尉らが、
この青年将校群を桜会に入会させ、クーデター計画のなかにひきいれようとしていた。
小原大尉は橋本中佐らの参謀本部ロシア班の一人である。
このロシア班が桜会の急進派で、秋のクーデーター計画の主体だった。
戸山学校の学生控室では、この桜会組が古参の私などに、
いくらか控え目ではあったが、クーデター計画のことを話し合っていた。
私は最古参で班長をしていたが、そ知らぬ顔でこの班の将校の動向をながめていた。
一方に満洲の風雲は急だった。
中村震太郎大尉の死は特に四十一期生の連中を憤激させていた。
そのうち
九月十八日満洲事変が勃発すると、
四十一期生にかぎらず、いやしくも軍服を着ている以上、
誰もが心を大陸に奪われることになった。
・・・
これまで控え目だった後藤少尉らの言動も、
班長を仲間にした以上は誰に遠慮もいらなくなった。
将校控室はクーデター計画の支部のようになっていった。
控室の将校も殆んど全員が共鳴した。
戸山学校の筋向かいの砲工学校の学生も暇をみては顔を出すようになった。
私はいつの間にか
戸山学校、砲工学校の四十一期生を主力とする青年将校の餓鬼大将みたいになった。
それでも桜会の会合には顔をださなかった。
後藤少尉がしきりに桜会の会合に出席するよう、
参謀本部の小原大尉らに会うようすすめたけれど、
そのうちに、と態度をあいまいにしていた。

しかし、そのご間もなく私は桜会の会合に顔を出すようになった。
それは野田又男中尉に勧誘されてであった。
近衛の何連隊付かであった野田中尉は大岸中尉と同期の三十五期生で、
「 郷詩会 」 には出席していなかったが、かねてから大岸中尉と連絡があり、
大岸中尉から私のことを、よろしく指導を頼むと照会してあったとみえ、
初対面のとき 「 指導などおこがましいよ 」 と 私にいったことがある。
豪快な、先輩としていかにも頼り甲斐のある人柄で、
三月事件にも重要役割を持った関係もあって最初からの桜会のメンバーだった。
その野田中尉が
「 桜会は会員の紹介があれば誰でも入会できるんだから、
おれが紹介するから、貴様ら二人入会したらどうだ 」
西田税 のうちで
菅波中尉と私に入会をすすめた。
大川周明から藤井斉大尉がきいた秋のクーデター計画も、
桜会の急進派が中心であってみれば、
その情報を掴む意味からも、このあたりで桜会の会合に出席することも必要だった。
野田中尉の勧誘もその意味からだった。

次の会合のあった夜、
野田中尉に紹介された菅波中尉とわたしは桜会に出席した。
もともと桜会自体はクーデターを目的につくられたものではなかった。
政治や社会問題に没交渉であった軍人に、この方面の関心をよびさまさす集いだった。
したがって、革新をめぐっての、樋口 (季一郎) 中佐を中心とする穏健派と、
橋本中佐を中心とする急進派意外に、
意識の低い感覚の全くズレたものも、まぎれこんでいた。
この会合は有志が次々に立って演説するのが慣例になっているようだったが、
ときにはこういった感覚のズレた将校が、とんちんかんな熱弁をふるって、
主催者側を苦笑させることもあった。
私と菅波中尉が初めて出席したときにも、前座にこの苦笑ものの演説が二三あったが、
そのあとで、橋本中佐が
「 ケマルは、ケマルは 」 と ケマル・パシャのクーデターについて熱弁をふるった。
この会のどこかにケマル・パシャやムッソリーニの臭いがあった。

私が桜会に前ぶれもなく現れたので、四十一期生グループは変な顔をしていた。
が 会が終わると、
それでもうれしそうにして私の周囲に集まってきた。
そのとき、そのなかにひとり、見馴れない不満そうな顔をした男がいた。
それが片岡俊郎少尉だった。
片岡少尉は後藤少尉とは熊本幼年学校以来の親友で、
このとき札幌二十五連隊から派遣されて、千葉の歩兵学校にきていた。
私は不思議にこの無愛想な片岡少尉に心を惹かれた。
以心伝心、互いに通じるもののあることを感じた。
彼は果して桜会にも橋本中佐のイデオロギーにも、
これに同調している同期生にも不満であり批判的だった。
桜会急進派の幕僚的な上からの革新に対し
彼は、兵を通じて社会をみた、下からの革新を考え、
それを理論的に裏付けようとしてもいた。
こういった彼にとっては、桜会によってはじめて革新を知った同期生は、
おぼつかなくてみておれなかった。
同じ四十一期生でありながら、あるときはそのグループをはなれて、
爾後私と二人だけ特別のつながりを持つ機縁が、この初めての出合いにきざしたのである。
片岡少尉についで、特別に親近したのは後藤少尉だった。
それは血書のときの因縁もあり、片岡少尉と親友であるせいもあったけれど、
直接の動機は、ある日彼が、ふともらした言葉からであった。
私が桜会の会合に出席するようになって、
すつかりうちとけてきた後藤少尉が、
学校の帰り途、肩をならべてあるきながら、
「 このクーデターが成功したら、二階級昇進させると参謀本部の人たちがいっています。」
と いった。
私にもその行賞の及ぶことを伝えたい好意からいったにちがいなかったが、
これは聞き捨てにならないことだった。
しかし私は聞き捨てにしようかすまいか一瞬ためらた。 
が 思いきっていってみた。
「 ちょっと待った。 
それはおれの考えとはちがう。 
おれは革新イコール死だとおもっている。
たとえ斬り込みの際死なずとも、君側の奸臣とはいえ、陛下の重臣を斃した以上は、
お許しのないかぎり自決を覚悟していなければならない。 
失敗もとより死、成功もまた死だとおもっている。
生きて二階級昇進などして功臣となろうとはおもっていない。
連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新と、
兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新とのちがいだよ。」
後藤少尉はしばらく考えていたが、
「 そういわれてみればその通りです。
わかりました。 
われわれも根本から考え直さねばならぬようです。」
と 素直に私の意見にしたがった。
私はやはりいつてよかったとおもった。
後藤少尉がすっかり私に気を許すようになったのは、このことがあってからである。

二階級昇進のはなしをきくにつけても、
桜会急進派の革新に対し、益々異質なものが感じられた。
しかし、これと別個に革新を実行するとは、
一体どういうことになるのか――という点に想到すると、
急には明快な決断はつかなかった。
しかも実働部隊は部隊将校であり、
戸山学校、砲工学校、歩兵学校等の青年将校であり、
混交してしまっている。

こういった空気のなかで、
野田中尉、菅波中尉と私が橋本中佐、西田税提携の仲介をした。
一緒にやってみたらどうか、ということになったのである。
これで改めて
「 郷詩会 」 グループの陸海青年将校、民間人が、
橋本中佐を中心とする
クーデター計画に合流することになり規模は全国的なものに拡大した。

末松太平著 私の昭和史 十月事件の体験 より 
次頁 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」  に続く


末松太平 ・ 十月事件の體驗 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」

2018年02月05日 15時51分05秒 | 十月事件


末松太平
前頁 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」 の 続き

井上日召はこのときから軍人の行動とは別に、一人一殺を考えていた。

後の血盟団はこのときからすでに準備されていた。
二・二六事件の関係者の渋川善助や加藤春海は将校の軍服を着て、
知っている将校のいる部隊に、くっついていくといっていた。
こういったなかで同志の往来は繁くなった。
霞ヶ浦航空隊の古賀清志、中村義雄中尉らも、
暇をみては、和服に袴姿で東京に現われていた。
橋本中佐は、西田税 との提携が成ったとき、
これで霞ヶ浦との連絡がとれたことを喜んで、
「 それじゃ空からボラを落して貰おうか 」 と 冗談をいったが、ボラとは爆弾のこと。
古賀、中村中尉と会うたびに私は、
橋本中佐のいったように、この連中は爆弾を国会議事堂にでも落す気だろうかと思った。
井上日召はよく暗殺の要領を伝授していた。
「 みなは殺人鬼じゃないんだから――それどころか、人一倍仏心を持っているんだから、
殺すときめたら、ものをもいわず拳銃を発射しなければ失敗する。
話をかわしたら、なかなか懐ろの拳銃に手がかからないものだ。」
と、いうのを私も西田税のうちで、一緒に火鉢を囲みながらきいたことがある。
五・一五事件のときの山岸 (宏) 中尉の 「 問答無用 」 がこれである。

そのある日曜日、西田税が、後の血盟団の一人、
東大生の久木田裕弘を伴って私の下宿に訪ねてきた。
西田は
「 参謀本部の連中の持ってきた暗殺計画には驚いたよ。
警察署長クラスの小物までやろうというんだから・・・。
うんとケズって大物だけ残すようにいっておいたがね 」
と いって笑ったが、
こんな話から私が
「 牧野伸顕をねらうつもりだが 」
と いうと、
これまで控え目に西田のかげに坐っていた久木田が
突如にじり出て
「 私では間に合いませんか 」 と 真剣な顔でいった。
私は
「 久木田さんが是非にというのなら、別のでかまいませんよ」 と いった。
井上日召が
「 久木田は一度どこかを打つと内出血して、それが用意にとまらない体質なので可哀想だ。
早く死に場所を探してやるほうが本人のためにも功徳だ 」
と いっていたが、
この繊細な白面の学徒の、つきつめた語気には、西田も私も、はッとしたことだった。

私の連隊の士官候補生と、対馬少尉の薫陶をうけた三十一連隊の士官候補生が、
そろって私の下宿に訪ねてきたのもこの頃の日曜日だった。
私は東京に起りつつある事態を、ある程度話した。
その次の日曜日には、
私の連隊の杉野候補生から紹介されたといって、
朝鮮の竜山の連隊の西川武敏候補生が訪ねてきた。
私は菅波中尉のもとの連隊、鹿児島の四十五連隊の士官候補生と連絡するようにいった。
菅波中尉のアパートで私は四十五連隊の士官候補生と会ったことがあるからである。
この西川候補生と先に訪ねてきた士官候補生のうち、三十一連隊の野村三郎候補生が、
あとで五・一五事件に参加するのである。
この士官候補生らは四十四期生で、これが六ケ月の隊付を終って
再び市ヶ谷台に戻ってきたのが十月一日であるから、
十月二十日と予定されたクーデターの時期はいよいよ切迫していたわけである。
深夜私の下宿を訪ねて
「時期は?」 と耳に口をつけて聞いて 「二十日」と聞くと、
あとは何もきかず、そのまま帰っていく民間人のいたのも、この頃だった。

が、その二十日が近づくにつれ時期があいまいになってきた。
殊に神楽坂の料亭梅林での会合から、それがさらにあやしくなった。

以降
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」

戸山学校では明治節をはさんでの神宮競技場での体育祭に備えて
毎日、下士官学生全員が軍楽隊と共同で例年出場する体操の練習をしていた。
私はある日それを一人でぼんやり眺めていた。
その日は将校学生は夜間の体操があるので、夕食をして出直すため皆下宿に帰っていた。
私は夕食は学校の食堂でするつもりで、ひとり下宿にかえらず残っていた。
下士官学生の体操は低地になっている運動場でおこなわれていた。
自然の地形を利用してスタンドがつくられてある。
その最上段から私は、
上体裸の筋肉たくましい日焼けした下士官学生が、軍楽隊の奏楽に合わして行進し、
ついで体操にうつるのを見下ろしていた。
その体操の指導者の大蔵(栄一)中尉もクーデター参加者の同志である。
体操をしている下士官学生のなかにも、何人か参加するものがいるときいていた。
クーデターが先なのか、神宮外苑での体操が先なのか。
私は空を仰いだ。
暮れるに間のある秋の空は抜けるように晴れていた。
私はその空に抜けていくような軍楽隊の勇壮な奏楽をききながら、
 ああ 二十六才、東京のこの空の下で死ぬのかと思った。
別に悲壮感はわかなかった。
死ぬという感慨が、こうも平静でいいものかと思っただけだった。
抜けるような空に抜けていくだけのことのように思った。


末松太平著 私の昭和史
十月事件の体験 より


井上日召 ・ 郷詩會の會合 前後

2018年02月03日 18時56分55秒 | 井上日召

右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である

井上日召の活動を記してある
現代史資料4 国家主義運動 1 から

第二部  血盟團、五 ・ 一五、神兵隊事件
第一章  血團事件
第一節  日召事井上昭と其の同志
(一)  生立ちと放浪時代・・・略
(二)  修養時代・・・略
(三)  護國堂時代・・・略
(四)  井上と海軍側との提携成る・・・略
(五)  上京・・・略

第二節  計畫熟し民間側第一陣を引受く
(一)  陸軍側其の他との提携に務む
井上日召は 昭和五年十月
藤井齊の依頼に應じ海軍同志の聯絡機關として活躍するため、
護國堂を去り上京したのであった。
護國堂時代 井上を盟主と仰ぐに至った靑年や海軍將校聯は 同志檜山誠次方二階於て井上の送別會を催した。
海軍側の藤井齊、鈴木四郎、伊東亀城、大庭春雄、大洗靑年組古内栄司、小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、
以下數名が出席した。
井上は此の時自分の意中を述べて、東京では革命革命と口では云って居るが、
皆 命を惜んで自分の國家のため捨石にならうとする者がない。
國家に對して眞の大慈悲心を懐く者が始めて革命の捨石になる事が出來ると語って居り、
一同は無言の裡に革命のため井上と生死を共にすることを堅く誓ったとの事である。
井上は初めは気の長い宗教的方法に依る国家改造を考へて居ったのであるが
ロンドン條約以後改造運動者は一九三六年前に改造を成就せねばならないと云ふ聲が高くなり、
井上も藤井と交はるに至り 之に同感し次第に急速な手段を考究するに至り、
上京せんとするこの頃に至ってはテロ手段に依って革新の烽火を擧げ、
支配階級に生命の危險を感ぜしめて 其の自覺を促し
一方陸海軍民間側の革新分子が彼等の後を繼いで革新實を擧げることを期待して居ったのである。
彼が暗殺手段を採用した理由として
第一、同志が少ない
第二、資金が皆無だ
第三、武器兵力が無い
第四、言論機關が改造派の敵である
第五、國家の現狀は一日も早く烽火を擧げねばならない
等を數へて居る。
斯くして井上は宗教的熱意を以て改造を志す數名の靑年を率い、
同じく國家改造に燃える海軍士官一派と握手して 愈々中央に乗出して來た。
井上は直ちに金鶏會館に止宿した。
筑波旅行によって有力たる闘士として望をかけて居った金鶏寮止宿の上杉門下七生社同人四元義隆、池袋正釟郎と接触し、
之を同志に獲得した。
一方 井上は大學寮以來藤井海軍側同志が親しくして居った西田税に近附き、
中央に於ける改造運動の情報を探り、又 北一輝、満川亀太郎、大川周明にも面會し北、大川の大同團結を計らうとした。
改造陣営の要所要所に手を延ばし情報を探り、藤井齊地方にある海軍同志に之を通報して居た。
同年十二月 大村航空隊に在った藤井齊より九州に於ける革新分子の會合があるから來いとの通信があり、
井上は四元義隆と共に西下した。
昭和五年 十二月二十七日午後より翌日にかけて福岡県香椎温泉に於て
海軍側  藤井齊  三上卓  村上功  鈴木四郎  太田武  古賀忠一  古賀清志  村山格之
陸軍側  菅波三郎
民間側  大久保政夫 ( 九大生 )  上村章 ( 福高生 )  山口半之丞 (福岡県社會課)  井上富雄 ( 天草郡小學校訓導 )
             井上昭  四元義隆
の會合に出席した。
その内容は之より組織を持たうと云ふ程度に過ぎず井上は頗る失望したが、
海軍側三上卓、陸軍側菅波三郎等有力なる人々と親しくなった。
更に四元と共に同人の郷里鹿児島に行き、菅波中尉と懇談を遂げ親密の關系となった。
又 大村に於て藤井の紹介により陸軍士官東少尉外數名と會った。
其 歸途 呉鎭守府、横須賀鎭守府に立寄り藤井の統制下にある海軍士官多數と面會し、
其の同志たるべき者を探し求め、相當の収穫を得て 翌年六年二月歸京した。
當時井上の観察する処では陸軍側革新分子は九州に於ては菅波中尉 東少尉が中心であり
而も運動は相當古くよりのものであり、
東北に於ては仙台の教導學校より靑森聯隊に轉じた大岸頼好中尉が
海軍側に於ける藤井齊の如き立場に居る有力なる中心人物であった。
而も之等 陸軍側三名は孰れも藤井齊と聯絡を有して居り、
菅波中尉 東少尉とは九州旅行により井上は懇親となり、
大岸中尉とは其以前金鶏会館に於て藤井齊の紹介により相識の間柄となって居った。
斯くの如くにして井上は藤井との聯絡によって
陸軍側の靑年將校の中心人物 菅波、東、大岸等と相知ったのであったが、
未だ同志として心より提携するには至らなかった。
井上が九州旅行により歸ると間もなく同年三、四月頃
陸軍側上層部に所謂三月事件なるクーデターに依る國家改造の計畫があった事が風説として一般に傳へられた。
これは一般民間側改造運動者にも相當の刺戟となった。
井上は上京後 早々から西田税に近付いて彼の処に集まる情報を聞いて居ったが
三月事件の情勢を西田其他より聞いて愈々改造に着手せねばならぬと考へた。
彼は藤井よりの依頼もあったので民間側の巨頭である 北一輝、大川周明との仲直りを策した。
井上はこの以前 北一輝の 『 日本改造法案大綱  』 を讀み、
北の非凡な頭脳の所有者であるを知り、前田虎雄と共に訪ね、
自分等も國家改造のため盡力し度きを持つ意思を持つ者である事を傳へた。
北は井上等に満川亀太郎を紹介し、満川は更に井上等に大川周明を紹介した事があり、
井上は北、満川、大川とも面識があったのでその大同團結を計らうとしたが、
西田税が北の幕下であり大川を口を極めて非難したので、
井上は此の様な情勢にては北、大川の提携は不可能であることを知った。
即ち この兩者は相對立する關係にあるので 北、西田と結べば大川と提携し得ず、
大川と結べば北、西田とは對立することを知った。
井上は同志として握手している藤井齊一統が西田と親しい間柄であるので、
大川と結べば遂には藤井等をも質に至るであらうことを顧慮し、
西田と提携し西田を擁して國家改造に進むことを決意した。
そして井上は西田に近附き提携して改造に進むに至った。
當時 西田は日本國民黨より脱退を餘儀なくされ、
一方陸軍側菅波、大岸等とも天劔党事件以來往復をして居らず、寧ろ不遇の狀態であった。
民間側改造運動者 津久井一派の如きは西田を大いに非難して居る有様であったが、
井上は西田が大學寮以來改造運動に從事すること十余年、其の間彼が盡した貢献は大なるものがある。
自己の生活の資を得る途のない彼が有資産者、俸給生活者の如く公然たる収入に拠らずして生活したのは寧ろ當然であり
之を非難するのは酷であると主張して大いに西田の立場を認め、
西田を擁して改造運動を遂行しようとしたのであった。

(二)  日本靑年會館に於ける全國的 海 ・陸 ・ 民間同志の會合  昭和六年八月二十六日
一方海軍側同志は三月事件以來益々急進的となり、
昭和六年四月  伊東亀城、山岸宏 等が上京して金鶏會館に集り、
當時群馬県に歸省して居た井上及び四元を呼び寄せ、池袋も加はって會合を開き、井上等に決行を促した。
井上は同年八月支配階級の巨頭連が避暑地に集った際 五人の同志を以て暗殺し様と提案し
其軍資金 及 武器として拳銃の調達方を海軍側に求めた。
井上の眞意は海軍側同志の決意の程度を試すことにあったのでこの計畫は實行されなかった。
同年七月末頃
陸軍の一部に於て満洲に事を起し同時に國内改造を行ふためクーデターを企てゝ居ると云ふ情報が入って來た。
井上は此の計画は眞の日本的のものに非ずして 政權奪取をもくろむ覇道的のものであると観察し、
西田に向って此の計畫は一命を賭しても打破る意志であることを告げた。
西田は驚き 北一輝にも相談して見るから待てと云って之を押し止め、
結局西田が、井上 及 西田一派の革新勢力を代表し、十月事件の首脳者である橋本中佐等と交渉することとなった。
井上は十月事件の計畫に同志と共に飛込んで、暗殺其の他の役割を分担することに依って發言權を獲得し、
軍部側の計畫をリードして、その指導精神を眞の日本精神に基くものになさうと畫策した。
そこで、西田と相談の結果、兩者の統制下な在る革新分子を會合せしめて結束を固くし、
十月事件の計畫に對処する爲、同年八月二十六日 靑山の日本靑年會館に於て
郷詩社の名目を以て會合を催した。
當日參會した者は 三、四十名と云はれて居るが 其の中には
陸軍側  菅波三郎  大岸頼好  東昇  若松満則  野田又男  對馬勝雄
海軍側  藤井齊  鈴木四郎  三上卓  古賀清志  村上功  村山格之  伊東亀城  太田武
民間側  西田税
            井上昭  古内栄司  小沼正  菱沼五郎  黒澤大二  堀川秀雄  黒澤金吾  四元義隆
            橘孝三郎  後藤圀彦
等が居り  井上等の知らない西田一派の者も居った。
其會合に於ては西田が司會者となり
「 愈々 時期も切迫して來たから我々の運動も今後はしっかりした統制を必要とする 」
と 申し 中央本部を決定し 更に各地方毎に同志が集り 責任者を定め發表した。
それによると
1 中央本部を西田方に置き 西田と井上其他中央に居る菅波等が協議の上
  外部に關する聯絡情報の蒐集、對策の決定をなし、地方責任者との聯絡を執ること
2 海軍側に於ては
 全般及九州責任者  藤井齊
 横須賀地方  山岸宏
 第一艦隊  村上功
 第二艦隊  古賀清志
陸軍側に於ては
 関東地方  菅波三郎
 東北地方  大岸頼好
 九州地方  東昇
 四国地方  小川三郎
 朝鮮地方  片岡太郎
民間側に於ては
 愛郷塾責任者  橘孝三郎
 大洗責任者  古内栄司
を 各地方責任者と決定し
3  地方組織に付ては陸海軍部が中心となり民間との聯絡及中央との聯絡を執ること等を決定した。
此の會合は全國會議であって此の會議の準備として各地の革新同志の會合が催され、
夫々必要事項を協議し、代表者を出した模様である。
九州方面に於ては七月下旬藤井齊より 八月下旬艦隊が横須賀入港を期して、
東京に於て陸海民間同志の全國會合を開催する餘定であるから、
その準備として九州に於ける陸海軍同志の意嚮を決定する必要があると同志に通知を發し、
八月八日 福岡市西方寺前町料亭氣儘館に於て會合を行って居る。
その時の出席者は
海軍側  藤井齊  鈴木四郎  林正義  三上卓
陸軍側  菅波三郎  小川三郎  若松満則  江崎  栗原 (鹿児島)  竹中英雄  樽木茂  東昇  片岡太郎  小河原清衛
等で、各地の情勢、同志獲得の情況、民間同志との聯絡等に付 報告があり
次に各地方責任者、全九州責任者、各地方に於ける組織運動の促進、聯絡、
中央進出の準備に付 協議決定する処があった。
陸軍側  全九州責任者  若松満則
            地方責任者  佐賀地方--江崎  鹿児島地方--西原  福岡地方--小河原  
                              四国地方--小川  朝鮮地方--片岡  長崎地方--東
海軍側  全九州責任者  藤井齊
以上の如くにして日本靑年會館に於て行はれた全國會議は組織統制等を決定したのみで簡單に終了した。
一度軍艦に乗組めば數ヶ月間航海生活を送り、同志一同が顔を揃える機會の少ない海軍側同志は、
陸軍側と異なり單刀直入、急速に決行することを希望して居たので此の會合に不平不満が多かった。
井上は海軍側同志のこの不平を察知し、同夜 新宿宝亭に於て宴會を開き彼等の不平不満を慰撫し、
其後連日の如く、井上の妻名義で借受けて居った本郷區西片町の家等に於て海軍側と會合した。
尚この全國會議に上京した三上卓は
上京直前佐世保にて藤井齊より同人が四月 (八月) 初旬 大連に飛行した際
笠木良明の煎入りで同地の證人から買入れたと云ふ拳銃八挺、彈丸約八百發を東京に運搬方を依頼せられ、
之を持參して上京し 井上昭に渡したのであった。
又 井上が同年一月頃九州旅行の際 東昇陸軍少尉より拳銃一挺、實包若干を入手して居り、
其後 四月頃 伊東亀城が大連に巡航した際
同地の鐵砲商より購入したブローニング拳銃一挺実包百發が井上の手に渡っており、
八月当時既に井上の手には拳銃十挺 實包多數が集められ、
井上一統 及 海軍側は唯好機の到来するのを待つのみであった。
末松太平 ・ 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合

・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」


(三)  十月事件に參加し、一擧に革新の實を擧げんとす
八月二十六日の全國會議後、海軍同志は一年に一、二回しか顔を揃へる事が出来ないので
この
好機に一擧革新の烽火を擧げ 革新の緒に就くべく、
連日の如く井上を中心として會合し、情報を求め、各方面の情勢を探って居った。
當時は既に陸軍の一部に於て満洲問題と關連して國内改造を計畫中である
との情報は頻品として井上等の耳に入って居たので 同月三十一日 井上は藤井齊に一策を授け、
同人を大學寮以来親しい間柄であった大川周明の許に行かしめ、
西田等と無關係を装ひ、十月事件の計畫に參加を申込ませ、計畫を探知せしめた。
藤井の報告は藤井が同志として海軍同志全部と共に大川一派に加盟する約束をしたところ
大川は其の畫策している計畫を話した。
それによると
「 十月頃満洲に於て事を起し 日支關係を惡化せしめ、對支貿易を阻害し 經濟界を逼迫せしめ、
之を契機として内地の民衆を煽動し、東京、大阪に暴動を起さしめ
次で 翌年二月國民大會を東京に於て開き 議會襲撃を決行し クーデターを行ふ豫定である 」
との事であったが、井上はこれを聞きその計畫が出鱈目である點を指摘し、
傍で藤井の報告を聞いていた海軍同志 及 小沼、四元等に自己の信念を吐露し、
自分のやらうとする革命は仕事でなくて道である。
政權を奪取するのではない。
革命のために動亂を起し無事の人間を殺す如きは言語道斷であると云って之を非難した。
同年 昭和六年九月十八日 満州事變勃發し、
續いて陸軍の一派がクーデターを計畫中であることが明瞭に井上等の情報網に入った。
北京駐在の長勇少佐が脱走して上京し活躍して居り、橋本中佐一派が主脳者となって、
露骨に活動して居ることが井上、西田に接近して居る靑年將校により筒抜けに漏れて來た。
井上の観察した所に依れば
「 十月事件は橋本欣五郎中佐が首脳者になって居るが、一中佐であれ丈露骨な活動は出來ない。
必ず陸軍の一大潮流が事件の背景をなしている。
大川周明一派が橋本と親しく、この事件に關与しているが、
橋本中佐の考へでは 必ずしも民間側の勢力を大川一派のみに限って居る譯ではない。
大川周明は牧野伸顕と古くより關係を有して居り、十月事件に付ても牧野と何等かの關係を付けて居て、
上部工作を牧野によって期待して居る。
從って大川等の計畫案には牧野伸顕を襲撃目標中に加へて居らない 」
と云ふのであった。

 小沼正談
・・・リンク→ 藤井中尉、血盟団 小沼正、国家改造を誓う


井上は西田を表面に立て、橋本中佐と聯絡せしむる一方、
藤井其他 肝胆相照した同志を諸方面に動かして情報を取り活動した。
陸軍の靑年士官が皆血判をして満洲事變の徹底的解決を要求し、
自分等の要求が容れられねば一致結束して立つと云った風の決議文を總理大臣、陸軍大臣、
參謀總長に提出したとの情報が入った。
又 何個中隊出動することになった。某々將校も參加した等の情報が盛に入る様になり、
陸軍の改造潮流は何人を以ても制止出來ない様な狀況となって来た。
井上は自身その中に飛入って、是を正しい方向に導かうと考へ、
西田を通じ、其の計畫の一部を分担するに至った。
初め十月事件の計畫は大部隊の出動を豫定して居らなかったものの如くで、
井上一党は遊撃隊として目標人物の暗殺を引受け、井上側に於て其の目標の選定をなすこととした。
井上は、
1  田中邦雄、田倉利之に西園寺公を
2  四元義隆、久木田祐弘に牧野伸顕を
3  池袋正釟郎、小沼正に一木喜徳郎を
4  古内栄司に鈴木貫太郎を
各担当せしめ、
田中、田倉兩名には拳銃各一挺を交付して京都滞在中の西園寺公を暗殺さすため同地に赴かしめた。
古内は計畫が進んだ十月五日 小學校訓導を辭職して上京し井上の許に參じた。
井上の許に橋本中佐より五百圓が資金として來たが 勿論之丈では不足で井上は資金に窮していた爲
學生組の田中を西田税方の食客兼玄關番に住込ましめ、その下宿料を古内の生活費に流用せしめた。
當時海軍側同志にも井上より通知が發せられ一同待機の狀態にあり、
山岸宏の二名は上京し、古賀は井上の許にあり、山岸は上京に際し乗艦より拳銃十一挺、
彈丸二百發、軍刀日本刀各一本を携帯し、
井上の通知により菅波三郎中尉の止宿するアパートに至って決行を待って居た。
然るに計畫は其の後變更せられ、大部分の出動による一齊襲撃を採ることとなり、
個人的暗殺は實行せられないこととなった。
井上等の観察する処によれば
牧野に依って上部工作を期待し、暗殺目標より同人を除いて居った大川が、
井上、西田側に於て牧野を目標人物に入れ、大川自身の計畫を齟齬する案に變更したため、
大いに苦慮し、更に案の變更をなしたもの と云ふのである。
菅波一派の靑年將校は橋本中佐派と提携し共に決行することとなって居った。
併し 次第に大川、橋本等の行動に批判的となって行き、
神楽坂の梅林に於て菅波が橋本に喰って掛り
橋本一派の小原重厚大尉のため首締に逢ふ椿事以後は気拙い仲となって行った。
・・・リンク→「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
菅波は十月事件の前にあった靑山日本靑年會館の會合の少し前迄は西田税とは意見の相違から交際を絶って居った。
大岸頼好は寧ろ大川周明と近かったので、
十月事件直前迄は是等菅波、大岸の一派は西田と近いものではなかったのである。
藤井齊の關係により井上と親しくなり更に井上の斡旋により以前の關係が復活し
西田、菅波、大岸等が親しい關係となったのである。
而して、十月事件により菅波一統の隊付靑年將校は橋本一派の幕僚將校と間隙を生じ、
又 菅波一統に近い西田と、橋本一派に近い大川とが非常に不仲となったので、
菅波一統と西田とは加速度を以て近付いた。
十月十七日早暁 十月首脳者は憲兵隊に檢擧せられ計畫は挫折に終わった。

西田一統は、井上の観察の如く、大川が牧野と通じて居り暗殺目標より除去されて居た牧野が
西田、井上一派の主張により目標人物に加へられたのに困惑し、牧野の手により弾圧せしめたと宣伝し、
大川一派は西田等を計の畫の一部に參加せしめたのは表面的で眞の同志としてではなく
計畫遂行後は西田は處刑を免れないこととなって居たので、
西田税は之を察知して、北一輝と謀り 宮内省方面に賣込んだのであると主張した。

以上の如くにして十月二十四日決行を期して居った十月事件は十七日朝首脳者の總檢束により挫折し、
橋本中佐一派は暫く活動不能の狀態になった。

(四) 十月事件挫折後、西田、菅波一統陸軍側同志俄に態度を改む
併し、十月事件は闇から闇へ葬られ、
首脳者となって大活躍をした橋本中佐以下十數名が
重謹慎處分の名儀で最高二十日間各地の憲兵分隊長官舎に分宿せしめられ、
其後地方に轉勤を命ぜられたに止まり、其の他の關係者に對しては何の處分もなされなかった。
從って十月事件當時總ての準備を終り一命を抛なげうって事に當らうと待機して居った井上一統、
海軍側同志 及 西田、菅波一統に於ては十月事件の挫折により何等打撃を受けなかった。
彼等は孰れも古くより國家改造を計畫し その貫徹に進んで來たのであるが、
十月事件當時は偶々陸軍の大勢力が動く形勢にあったため、之に便乗しようとしたに過ぎず、
その挫折に依って古くよりの決心に何等動揺を來さず、
却って其の後は十月事件の如き他の計畫に便乗するに非ずして、
彼等が主導的立場に於て事を擧ぐべき順序となったのである。
井上一統 及 海軍側に依って行はれた血盟團事件、五 ・ 一五事件はこの流れを其儘延長せしめたものであるが、
西田、菅波一統の陸軍側は其後俄に態度を變化し、
從來提携し来った井上一統 及 海軍側の勧誘に應ぜず、
満洲事變により國際情勢緊迫の際 國内改造を計るは時期に非ずと稱して蹶起を肯ぜざるに至った。
その結果、井上一統 及 海軍側同志は斯く陸軍側の豹變したのは西田の指導に依るものであり、
西田は慢性革命家、革命ブローカーであると非難し、遂に川崎長光が西田を狙撃する事件さへも生じた。

右の如き經過のみを以てすれば、
血團被告等が西田を非難する如く西田、北等は革命ブローカーに過ぎずして、
眞に革命に殪たおれる覺悟なきものと推斷し得るものであるが、
其後 西田、菅波一統の革新の激流は救國埼玉挺身隊事件、十一月事件、永田軍務局長殺害事件に
其の物凄き片鱗を示し、遂に二 ・ 二六事件の大爆發となって自ら殪れて行ったのである。
これより観れば北、西田等を以て眞の革命精神なきブローカー輩と斷ずる事は出來ない。
然らば如何なる原因が十月事件直後 西田、菅波一統をして從來急進的であった態度を俄に漸進的にせしめ
一歩退却せしめたのであらうか。
満洲事變により國際關係の惡化を顧慮した點もあらう、
西田等は革命は一生に一度しか行ひ得ざるものであることを固く年頭に置いた點も事實であらう。
併し 俄かに陸軍側の態度を變じたのは十月事件後 間もなく内閣更迭により
荒木陸相の出現した事が最も大きな原因と考へざるを得ない。
武力を有する陸軍の一部が國内の政治機構を一擧に變革せんとした十月事件の影響は國家の各方面に大なる刺戟となった。
當時内務大臣の職に在り國内治安の責に任じて居った足立謙蔵は十一月九日大演習のため西下する車中で
次の如き時局談を語った。
「 世界的に共通な財界の不況に加へて満洲事變の突発があり、
眞に未曾有の重大時局に際會したのであるから 政友會と聯立内閣を組織して強力一致
この國家の難局に処すべしとする所謂 聯立内閣組織運動がある事は聞いて居る。
政党が國内的政爭を中止して一國難に當ることは、
現下の如き眞に息詰まる様な重大時局に當面している際には考へられる事で、
我輩もこの考へ方に反對するものではない。」 ( 東朝十一月十日 )
ここに強力内閣問題が表面化し
政友會 久原房之助、民政党 富田幸次郎を中心とする政友民政の一派により
聯立内閣の組織が策動されたが、
若槻首相の周囲 竝 現狀維持の各閣僚は之に反對し
十二月十一日 若槻内閣の總辭職となり
翌十二日 政友會總裁犬養毅に後継内閣組織の大命が降下し 犬養内閣の出現となった。
陸軍大臣は南次郎より荒木貞夫となり、海軍大臣は安保清種より大角岑生となった。
荒木新陸相は古くより行はれて居た軍内粛正---閥打倒---の運動の一有力者であり
又 三月事件 十月事件以來急速に激化しつつある國家改造運動の理解者であったので
彼は殆ど全軍の与望を担って現れた。

荒木陸相は熊本第六師團長當時より皇道精神の發揮を力説し
閥族の跋扈ばっこする軍内の實情を憂ひて 一切の私を去り皇軍本來の精神に歸り
各自の生活を道義化すべき事を主張した。
又 好んで若い靑年將校を引見し 心よく談笑したので、
革新的意識を持つ靑年將校は荒木將軍に心服して居た。
殊に靑年將校の中心人物 菅波三郎は元來鹿児島歩兵第四十五聯隊に居り、
當時 熊本第六師團長であった荒木將軍より 優秀なる靑年將校として知遇を受けて居った。
又 荒木が敎育總監本部長として中央に乗出すや間も無く、
荒木は菅波の如き隊務に精勤し優秀なる靑年將校を陸大に入學せしめ度い意向にて
昭和六年八月 麻布歩兵第三聯隊に轉隊せしめたる ( 菅波談 ) 因縁もあり、
荒木新陸相の出現は靑年將校一派にとって時局到來を感ぜしめずには置かなかったであらう。

革新的靑年將校の一團は荒木陸相の出現を契機として自己革命を遂行し、
彼等の所謂肅軍を行ひ部内全般を一貫した革新大勢力たらしめ、
然る後 國家改造に向はんとしたものと見られる。
三月事件、十月事件は靑年將校に一種の下克上的風潮を植え付け
上層部必ずしも頼むに足らずとなすに至ったし、
又 兩事件の失敗は靑年將校り見れば指導精神の問題にあった。
茲に於て 彼等は眞の國體原理より發したる革新思想を以て 先づ部内の肅正を遂げねばならぬとし、
又 彼等の心服する新陸相に依ってこれを成し遂げようとしたものと見られる。
而してここに始めて彼等が俄に國内改造に向って一歩後退の狀況を呈し部内革命に突進し
遂に陸軍部内に暗流が激成され
永田軍務局長暗殺事件、二 ・二六事件を生むに至った根源を理解し得るものである。



井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担當し、
革命の爲め一命を捨てる覺悟をしたので、十月事件の挫折によってもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し陸海民間の聯合軍を組織して蹶起しようとして居った。
同年 昭和六年 十二月二十八日、
當時井上は十月初頃より、當時の東京府豊多摩郡代々幡町代々木上原百八十六番地
成卿事 権藤太郎方附近の同人管理する所謂 権藤空家に居ったのであるが
冬の休暇で上京して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一派と権藤方に於て忘年會を開いた。
出席者は
海軍側  村上功  澤田邲  古賀清志  伊東亀城  浜勇治  中村義雄
陸軍側  菅波三郎  栗原安秀  大蔵榮一  佐藤 某
民間側  井上昭  古内栄司  池袋正釟郎  四元義隆  田中邦雄  久木田祐弘
            西田税  権藤成卿
等で單純なる顔合せに過ぎなかった。
然るに其の直後同月三十一日 西田税の發議で陸海民間の同志のみで會合をすることとなり、
府下高井戸料亭松仙閣に於て會合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田淸貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年會には出席せず
其直後揃って上京し 而も從來の關係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず
何の挨拶もなかった。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事か畫策して居る。
即ち西田、菅波が自分より離れて了ったことを直感したと稱している。
その上 宴會に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜 井上は泥酔した。
正月になり 菅波から古内等に
井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る
等と排斥的な注意があった。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて來た。
井上は非常に苦しみ、同志に對しこれ迄指導的立場に在って、今斯様な狀態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ 悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する靑年達海軍側同志は陸軍側の離れつつあるのを
偏へに西田の所爲となして西田に對し強い反感を抱いた。

(五)  海軍、民間側のみにて蹶起することとし、民間側第一線を引き受く
昭和七年一月九日 所謂權藤空家の井上の根城に
海軍側  古賀清志  中村義雄  大庭春雄  伊東亀城
民間側  井上昭  古内栄司  四元義隆  池袋正釟郎  久木田祐弘
等が集った。
彼等の心境は著しく動いて來た。
中にも古賀清志海軍中尉、田中邦雄、四元義隆等は急進派の代表であった。
その席上一回の気持は急に高まり
「 吾々はかかる大業が一擧にして成就するものだ等とは思って居ない。
自分等は起爆薬であり、改造の烽火であるのだ。
偶々十月事件に際会したので出來る事なら一擧に成就したいと云ふ心が動いた迄で、
今日菅波一統の陸軍側が傍観的態度になったからとて、吾々の精神竝に行動に何等の影響がある筈がない。
吾々は飽迄初一念を貫かう 」
との意見に一致して古賀清志の作成した計畫案に基き協議し
一、井上一派民間同志と海軍側同志と合同し 二月十一日紀元節を期し政界財界特權階級の巨頭を暗殺すること
二、藤井其他地方に在る海軍同志にこれを傳へる爲め 四元を派遣すること
を決定し、着々其準備を進めた。
然るに 同月二十八日上海事變勃發し 海軍側同志は藤井以下續いて出征した、
又 二十日頃迄に歸京の豫定であった四元が二十五日を過ぎても歸來せぬのみか、
出發後何の消息もなく、四元の行動を憲兵が尾行し捜査して居ると云ふ情報が井上の許に入った。
それ等の理由から井上等は四元の歸京を待たないで急速に決行することとなった。

同年 昭和七年 一月三十一日 權藤空家に
民間側  井上  古内  池袋  田中  須田
海軍側  古賀清志中尉  中村義雄中尉  大庭春雄少尉
等が集った。
この会合に於て井上は先づ、二つの案を提議した。
第一案  失敗を期し一切の事情理論を超越して直ちに實行する
第二案  陸海軍の凱旋を俟って陸海民間聯合軍を組織して實行する
出席同志全部第一案に賛成し決定を見た。
其処で井上は海軍側と民間側の行動を二分し
先づ 民間側が直ちに實行に移り 一人一殺主義の暗殺を引受る。
海軍側は第二陣として同志の凱旋を俟って陸海聯合軍を作って第二次破壊戰を行ふことを提案した。
此の時 古賀、中村両中尉 大庭少尉は熱心に民間側の實行に參加を希望したが、
井上は之を承認せず、井上の意見に依って民間側は第一陣を、海軍側は第二陣を引受けることに決定した。
井上の理由は
一、武器として拳銃十挺ある
二、行動する民間同志が役十人ある
三、以上の条件で目標二十名の中 五名位 殪たおすことが出來るならば
或は支配階級を反省せしむることが出來るかも知れぬ
併し 一人や二人殪した丈では同志が全滅する丈で改造等は計り得ない。
即ち第一陣は失敗を期して烽火を擧げるのであるから海軍を保留し、
やがて凱旋して帰る陸軍海軍の聯合軍を組織して第二期戰に移るが策を得たものと云ふのであった。
そこで計畫の細目を協定し
一、井上は第一陣の計畫實行の指揮統制に當り、他の同志に於て暗殺實行を担當し、
井上は第二陣の海陸聯合軍の組織に當ると
二、暗殺は機會を見て一人一殺主義をとること
三、直ちに實行に着手し決行は同年二月七日以後とすること
等を決定し、暗殺の目標人物を
政友会  犬養毅 床次竹二郎  鈴木喜三郎
民政党  若槻礼次郎  井上準之助  幣原喜重郎
三井系  池田成彬  檀琢磨
三菱系  木村久寿弥太
特權階級  西園寺公望  牧野伸顕  伊東巳代治  徳川家達
等を選定し、尚 井上し同志に向って、各自の間に於てもその相當人物は語り合はないこと、
目標人物に付ては精密な探索を行ひ充分の確信を得たる後、
井上より拳銃の交付を受けること等 周到な注意を与へ、別室に一人宛呼んで相當する目標人物を指示した。
謀議が終って直ちに僅かの酒や鯣するめを求めて來て、心許りの決別の宴を張った。
この酒宴中西下した四元が帰宅し 之に加り 翌朝計畫を聞き參加した。
尚 同夜參加しなかった小沼正、菱沼五郎、黒沢大二、田倉利之、森憲二、星子毅 等に付いては
古内栄司、久木田祐弘 等が通知を發し、井上の許に呼んで井上より之を傳へた。
一同欣然 之に參加し、直ちに各部署に付いて目標人物の暗殺準備に取り掛った。
同年二月九日 小沼正に依って第一彈が放たれ、前蔵相井上準之助が殪たおされた。
井上、四元は直ちに権藤空家にあった拳銃を大庭少尉に依頼した浜大尉の許に運搬せしめ
翌朝 同人等は同家を去って、井上は頭山満の家に居った本間憲一郎を頼って行き、
頭山満邸に隣接する三男頭山秀三の經營する天行會道場 二階に潜伏した。
其他の同志 古内、四元等も何れも同志の陸海軍の家等に潜伏した。
同年三月五日 菱沼五郎に依って第二彈が發射され、團琢磨が殪たおされた。
官憲の捜査網は次第に井上等の近くに迫り、
同志は相次いで檢擧せられ、關係者は多數取調を受け 頭山宅を警視廳員が包囲するに至り
第二陣の組織と云ふ重大任務を以て潜伏して居った井上も後事を本間憲一郎、天野辰雄弁護士に依頼して
三月十一日 警視廳

第三節  犯罪事実の概要  ・・・略
第四節  公判竝に判決 ・・・略

第二章  五 ・ 一五事件 ・・・に 続く
・・・リンク→ 井上日召 ・ 五、一五事件 前後 


藤井齊 『 内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイ、即時決行シタイ 』

2018年02月02日 04時40分48秒 | 藤井齊

西田税、盟友藤井齊ヲ語る

藤井齊 

十月事件ガ不発ニ終ツタノデ、
海軍側ノ藤井ナドヤ民間側ノ井上日召ナドガ焦リ出シ、

私ニ關係ナク計劃ヲ進メタノガ、彼ノ血盟團事件デアリマス。
昭和七年ノ元旦ニ、日召ハ酒ニ酔拂ツテ、
テロヲヤルノダトカ、革命ヲヤルノダ等ト叫ムダトノ事ヲ聞キマシタノデ、
私ハ其ノ輕率不謹愼ヲ責メタ事ガアリマス。

・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

井上日召

井上一派は十月事件に依り各自部署に付いて暗殺を担当し、
革命の為め一命を捨てる覚悟をしたので、十月事件の挫折によつてもその決意は解消せしめられず
西田、菅波一派と共同し 陸海民間の聯合を組織して蹶起しようとして居つた。
同年 ( 昭和六年 ) 十二月二十八日、当時井上は十月初頃より、
当時の東京府豊多摩郡代々木幡町代々木上原百八十六番地 成事 権藤善太郎 方附近の
同人管理する所謂権藤空家に居つたのであるが
冬の休暇で状況して居た海軍側同志や在京の陸軍菅波一統と権藤方に於て忘年会を開いた。
出席者は
海軍側  村上功    沢田邲    古賀清志    伊藤亀城    浜勇治    中村義男
陸軍側  菅波三郎    栗原安秀    大蔵栄一    佐藤某
民間側  井上昭    古内栄司    池袋正釟郎    四元義隆    田中邦雄    久木田祐弘
            西田税
            権藤成卿
等で単純なる顔合せに過ぎなかつた。
然るに 其の直後 同月 ( 十二月 ) 三十一日
西田税の発議で陸海民間の同志のみで会合することとなり、
府下 下高井戸料亭松仙閣に於て会合が行はれた。
出席者は前記の外 陸軍側に
大岸頼好 ( 青森 )  東昇 ( 大村 )  小川三郎 ( 丸亀 )  香田清貞  村中孝次
等が出席した。
大岸、東、小川 等は其の三日前行はれた権藤方の忘年会には出席せず 其直後揃つて上京し
而も 従来の関係よりすれば必ず立寄るべきである井上の許には立寄らず何の挨拶もなかつた。
井上はこの事情から、西田、菅波等が井上に秘して何事かを画策して居る。
即ち 西田、菅波が自分より離れて了つたことを直感したと称している。
その上 宴会に於ても西田、菅波、大岸、東 等は大岸等の上京の理由を井上に明さず、
井上を除いて何事か策動して居る事が感受力の強い井上の頭に強く響いた。
其夜井上は泥酔した。
正月になり菅波から古内等に
井上は酔払って革命の事を他人に口外する様では困る

と 排斥的な注意があつた。
そして西田、菅波等の態度は俄かに井上等と行動を共にせざる風が見えて来た。
井上は非常に苦しみ、
同志に対し これ迄指導的立場に在つて、今斯様な状態となり
革命遂行に最も力とする陸軍側と離れつつあるのを自己の責任であると感じ悲痛な感に打たれた。
井上を盟主と頼み、中心と信頼する青年達や海軍側同志は
陸軍側の離れつつあるのを偏へに西田の所為となして西田に対し強い反感を抱いた。
・・・ 血盟団・井上日召と西田税 4 『十月事件の後』
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彼等ハ何ウシテモ私ヲ引込ミ、

以テ陸軍靑年將校ヲモ引出サウト考ヘテ居ルト云フ事ヲ日召ヨリ聞キ、
之ニ反對シテ陸軍靑年將校ノ參加ヲ思ヒ止マラセマシタ。
次デ同年一月中旬、藤井ハ私ニ、
「 乗掛ツタ船ダカラ、何トカシタイ。
支那ノ風雲急ヲ告グルノ時、
内地ヲ此儘ニシテ出征スルニ忍ヒナイカラ、
十月事件ノ噂ニ依ル計劃ト同程度デ即時決行シタイ。
自分ハ先ヅ空中ヨリ第一聲ヲ放ツカラ、貴方ハ後事善処シナイカ。」
ト云フ趣旨ノ手紙ヲ寄越シマシタノデ、私ハ直ニ
「 十月事件ガ惨澹タル失敗ニ終リタルニ、尚懲リズニ蹶起スルト云フノハ何ウカ。
事ハ愼重デナケレバナラヌ。」
ト云フ趣旨ヲ書キ、鞏硬ナル反對意見ノ返事ヲ出シマシタ処、
更ニ沈痛ナ語調ヲ以テ悶々ノ情ヲ訴ヘテ來マシタ。
夫レハ、同人ガ上海ニ出征スル二、三日前デアリマシタ。

藤井ガ上海ニ出征シテ戰死シタノハ、
夫レヨリ一週間位後ノ昭和七年二月五日デアリマス。

藤井ト云フ人ハ、
鞏硬ナ意見ノ持主デハアリマスガ、道理ヲ説聞カセバ判ル人デ、

何レ上海ニ行ケバ死ヌ、
ダカラ行ク前ニ決行シタイト考ヘタミノト思ヒマス。

夫レガ私ノ反對ニ會ツタノデ、起ツニ起タレズ、
悲壮ナ氣持デ出征シ戰死シタモノデ、

私ハ、藤井ハ敵中深ク立入ツテ戰死シタト云フヨリモ、
進ムデ死ヲ選ムダノデナイカト思ツテ居リマス。

・・・リンク
 西田税 「 今迄はとめてきたけれど、今度はとめられない。 黙認する 」 
西田税 1 「 私は諸君と今迄の關係上自己一身の事は捨てます 」



斯様ニ軍部ガ蹶起シナイノデ、
民間側ダケデ起ツタノガ血盟團事件デ、
二月九日蔵相井上準之助ヲ殺シ、
三月五日男爵斷琢磨ヲ斃シマシタガ、
私ハ其ノ翌三月六日警視庁ニ檢束セラレ、
爾後血盟團ノ起訴當日迄引續キ留置、取調ヲ受ケテ居リマシタガ、
無關係ナルコトガ判ツテ釋放セラレマシタ。

・・・ニ ・二六事件北 ・西田裁判記録(三) 第一回公判 から


藤井中尉、血盟團 小沼正、國家改造を誓う

2018年02月01日 05時15分07秒 | 藤井齊


藤井齊 

藤井中尉と國家改造を誓う

小沼君、
日本もいよいよ此処まで来ては駄目だ。
君も識っている通り、
政党は、党利党略あって、国利国策なし、
三井、三菱、住友等の財閥は政権と結んで国家、国民を搾取して飽くことを知らない。
為に、農村は極度に疲弊しているが、
今の政府はその救済は題目だけ。
都会には失業者が日に月に増加し、
犯罪と一家心中が徒に新聞の三面記事を賑わす材料となるのみだ。
共産主義者は刈れども 摘めども後を絶たぬ。
これは日本の現状が、その温床をなしていると言えるのではないか。
政界の堕落、疑獄は疑獄を生み、腐敗はその極度に達し、
勲章さえ金で売買されるのだ。
頼みに思われた軍部までが、山科半蔵陸軍大将事件で、その威信を国民に問われている。
軍政、軍令の別も今や怪しくなって来た。
皇師幾万の血を以て贖あがなうた満洲の権利も今は全く危殆きたいに頻している。
南京の蒋介石政権は慇懃無礼、陽に排日政策を打ち出し、その陰には、英と米が糸を引く。
それを知りながら、日本の外交は英米追従外交に終始し、
特に幣原外相の軟弱さは、何処の国の大臣で、何処の国の外交かと その所属を問いたいくらいだ。
このざまでは、
いざ お国に一旦緩急あった場合、
青年達は果して祖国防衛に生命を賭して闘うであろうか。
自分の親、兄弟、妻子が飢えていて何の防衛か。
誰の為の防衛か。
青年達がこのことを考えるようになったら大変だ。
私は、思いを茲ここに致す時、
小沼君、
限りない不安と焦燥を感じてならないのだ。
だがここに、吾が国には、一つの救い道がある。
上、天皇在し、汚れなき日の丸がある。
これが今日の日本を支え、明日の日本を救う唯一の希望であり道である。
この一筋の道だけがまた、この己を支えてくれるのだ。
それは和尚の言う通りだ。
しかし道は、余りにま険しく、国民はその荊いばらの道に迷っている。
吾々の任務は既にきまっておるのだ。
国家改造だ!
藤井中尉の声は熱し、その気魄は潮騒さえも押し返していた。
小沼君、
この吾々の使命を達するにはどうすべきか。
和尚以外の指導者はないのだ。
吾々は和尚を中心に死を以て団結し、
国家改造をやろう。
あの記念館にある明治維新の志士先覚者の志を嗣ついで、この日本を護ろう。
腐敗堕落した国家社会を救い、
やがて、日本が名実共にアジア民族の支柱となるようにすることだ。
だがナア 小沼君、
私は軍人だ。
軍人は軍命令で何時、如何なる死地にも赴かねばならんのだ。
私は国家改造をやらねばならんから その方は御免だと言う訳にはゆかぬ。
もし
万が一
私に何事かあったら、
小沼君、
君は 私の分まで働いてくれ。
頼む・・・・。
藤井中尉は、私の手を荒々しく握って、その手に力をこめた。
「 藤井さん、人間は老生不定で お互い様だ。
私に 万一のことがあった場合には、
その時は、藤井さん、私の分までやって下さい 」
よし、お互い二人分だぞ
私は瞳が熱くなった。
藤井中尉の眼にも キラリと光るものがあった。


血盟団 ・ 小沼 正
一人一殺第一号  から