あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件 『 西田を殺せ 』

2018年02月21日 05時55分43秒 | 五・一五事件

「 西田を殺せ 」 
と、川崎に命じたのは古賀清志であったといわれる。
「 いや、あの頃はどこへ行っても壁にぶつかる。
 その壁の向うには西田の姿がある。
この男が邪魔しているな、邪魔者は殺せ、というので狙撃を命じたわけだ。
何しろあの頃は若くて、生命がけで国の進路を変えようと昭和維新ばかり考えていたんで、気が立っていたからね」
・・・古賀清志の追憶

 西田税 
血盟団事件ガ起リ二月九日井上蔵相が斃サレテ後、
海軍ノ古賀中尉ガ私ノ所に來リマシテ、
二、三人で暖炉ヲ囲ミ食事シナガラ、
古賀ハ
「 既ニ矢ハ弦ヲ離レタ。
 水戸ノ連中ガ今後何ウ出ルカ判ラヌガ、
 自分達ハ黙ツテ之ヲ見殺シニスル事ハ出來ナイカラ、後ヲ追フテ第二ノ犠牲ニナリタイ。
尤モ、貴方が賛成シテクレナケレバ、再考ハシテ見マスケレド 」
ト云フ様ナ事ヲ申シマシタ。
私ハ、藤井ガ居ナイカラ海軍ノ統制ハトレナイデアラウト心配シテ居リマシタガ、
海軍トシテハ藤井ノ弔合戰ノ意味モアツテ、決然起ツ事ニナツタノデハナイカト思ヒマス。
從テ、私ガ藤井ノ蹶起ヲ阻止シタト云フ事ニ附、海軍側デハ感情上快ク思ツテ居ナカツタモノト考ヘラレマス。
古賀中尉ガ右ノ様ニ申シマスト、
戸山學校附ノ柴大尉ハブツキラ棒ニ、
「 其ノ様ニヤリタケレバ、海軍ダケデヤレバ宜イデハナイカ 」
ト言ヒ、私ハ
「 幾ラ友人ガ犠牲ニナツタカラトテ、自分モ犠牲ニナラネバナラヌト云フ事モ無カラウ。
 人ノ居ル所デソムナ事ヲ言ツテハイカヌ。マアヨク考ヘテ見ヨ 」
ト申シ、再考ヲ促シテ歸シマシタガ、
私ハ只今申シタ通リ三月六日ヨリ檢束留置サレ、
同月二十二、三日頃帰宅ヲ許サレマシタ処、
常カラ平和ナル行キ方ヲシテ居ル大蔵大尉ガ來マシテ、
「 貴方ノ留守中ニ、陸軍側青年將校及歩兵第三聯隊ノ士官候補生ト海軍側ノ者が寄會ヒ、
 蹶起ニ附色々相談ヲシタガ、意見ガ一致セズシテ別レタガ、非常ニ危險ナ空氣ガアル。
海軍側ト陸軍側ノ士官候補生トデ、何カヤリ出シサウデアル 」
ト申シ、大變心配シタ様ナ話振デアリマシタノデ、
私ハ大蔵ヲ霞ヶ浦航空隊ニ遣ハシ、説得ニ努メサセ、
尚古賀中尉ト一度會ヒタイト云フ事ヲ言傳シマシタ。
大蔵大尉ハ歸ツテ來テ、
海軍側ニ話シタ処、誰が何ト言ハウト問題デナイト言ハレタトカデ、
憤慨シ、且心配シテ居リマシタ。
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・・・挿入・・・

昭和七年三月二十三日の春季皇霊祭の佳日に、
麻布第三聯隊の安藤輝三大中の部屋で、陸海軍同志の秘密会合が、
海軍側からの要請で催された。
陸軍から相澤少佐、村中孝次中尉、香田清貞中尉、朝山小二郎中尉、安藤輝三中尉
それから私の六人の将校と、坂元士官候補生とが出席した。
海軍からは、古賀中尉が緊急な用事のため 欠席したので、中村中尉が一人でやって来た。
「 小沼、菱沼 等のあけた突破口を、この際速やかに拡大して、
一挙に革新を断行すべきである。
坐して機の到るを待つことは かえって彼等を犬死にさせるようなものだ。
時期は来ておる、最早一刻の猶予もゆるさぬ、
陸海の同志は決意を新たにして、敢然蹶起すべきである 」
と、中村中尉は、
海軍側の決意をほのめかしながら、陸軍側の蹶起をうながした。
陸軍側は 「 時期尚早 」 という理由で、その申し入れを一蹴した。
・・・
末松太平 「年寄りから、先ですよ」 
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相澤中佐は、

そのまえに麻布三聯隊の安藤大尉の部屋で、
中村義雄海軍中尉らが、陸軍の蹶起をうながしているところに、
たまたま安藤大尉をたずねてきて、でくわし、
「 神武不殺 」、
日本は血をみずして建て直しのできる国だといって、中村中尉らをいさめ、

「 若し やるときがくるとしても、年寄りから先ですよ 」
ともいって、散りをいそぐ若い人たちの命を愛惜した。
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そのため、この秘密会合は簡単に終わった。
一同が雑談に移った頃、中村中尉は秘かに、坂元士官候補生を廊下につれ出して、
何やら相談していた。
私達はこの二人の行動について、別段気にもかけなかった。
その時以来、士官候補生らは私達との連絡をプッツリ絶ってしまった。
これまでは、日曜ごとにやって来て、溌溂たる談論を風発して、私達を辟易させていたのに、
それが一度に消えてなくなったように来なくなったことは、
陸軍側同志に一抹の淋しさを抱かしめると共に、少なからぬ不安を感じさせた。
・・・ 五 ・一五事件 ・ 「 士官候補生を抑えろ 」
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四月上旬古賀ガ上京シテ來タノデ、當局ノ警戒モアリ、私ハ上野駅デ同人ト會ヒマシタ。
ソシテ、「 何カ變ナ事ヲヤルノデナイカ 」 ト尋ネマシタ処、
古賀ハ
「 関東、東北 ノ農民モ動クノデ、私モ近ク蹶起スル。 
 陸軍ノ青年將校ハ駄目ダ、腰抜ダ。アノ様ナ者ハ相手ニ出來ヌ 」
ト申シマスカラ、私ハ
「 夫レハ君ノ思ヒ過シダ。
 権藤ノ言フノヲ信用シテ農民ガ動クト考ヘテ居ル様ダガ、誰カニ嗾そそのカサレテ居ルノデナイカ。
間違ツタ判断ニヨツテ動イテ居ル様ニ思ハレルカラ、マアヨク考直シテ見テクレヌカ 」
ト言ヒマシタ処、古賀ハ、
「 考直シテ見マセウ。今後共連絡ヲトリマス 」
ト言ツテ別レマシタガ、其ノ後ノ連絡モアリマセヌデシタ。
翌五月ニ入ツテ山岸大尉ガ突然出テ來リ、
「 血盟団事件ノ拳銃ノ事デ調ベラレ、此方ニ來テ居ル 」
ト言ヒマスカラ、私ハ
「 何カ變ナ事ヲ考ヘテ居ル様ダガ、イカヌゾ。古賀ニモ傳ヘテクレヌカ 」
ト申シマシタ処、
山岸ハ 「 承知シマシタ 」 ト言ツテ歸ツテ行キマシタ。
其ノ頃、陸軍士官学校區隊長ヲシテ居タ村中孝次ガ、
週番明ケダト言ツテ学校ヨリノ帰途私方ニ立寄リマシタノデ、
情勢ヲ聞キマシタ処、
「 騒イデ居ルガ多分ヤラヌダラウ、大丈夫ダ 」 トノ事デアリマシタガ、
他ノ者がヤレバ村中モ共ニヤリタイ気持デ居ル様ニ見受ケマシタカラ、注意ヲ与ヘ歸シマシタ。
私ハ村中ノ此話ヲ聞イテ安心シテ居リマシタ処、
五月十五日朝大事件ガ起ツタノデ驚キマシタガ、
當時午後六時頃血盟団ノ殘党川崎長光ト云フ青年ガ訪ネテ來マシタノデ、
久振故座敷ニ通シテ色々話合ツテ居ル内、突然拳銃デ狙撃サレマシタ。

何故狙撃サレタノカ
其ノ時ノ様子デハ、川崎ヨリ狙撃サレル原因ガ判ラヌノデ、其ノ後色々考ヘマシタガ、
私ハ共ニヤラウトシテヤラナカツタモノデモ、
又彼等ガヤルト云フ事ヲ他人ニ洩ラシタ事モナイノデ、
何ウシテ狙撃セラレタカ、判リマセヌ。
或ハ、海軍側ヲ袖ニシテ居ルト思ツテ怨ムダ結果カモ知レマセヌ。
大川周明ガ川崎ノ背後ニ居タト云フ噂ヲ、耳ニシタ事モアリマス。


・・・リンク → 五 ・一五事件 ・ 西田税 撃たれる 

血盟団事件ニ民間側ガ蹶起シタノモ、
五 ・一五事件ニ海軍側ナドガ蹶起シタノモ、
其ノ終局ノ目的ハ国家革新ニ在ツタノデナイカ
勿論、其ノ目的デアツタト思ヒマス。

同ジ精神、同ジ目的デ蹶起スルモノナレバ、
被告人ハ自ラ進ムデ参加スベキ筈ナルニ、却ツテ反対シタノハ何ウシテカ

目的ハ國家ノ改造ニ在リテ同ジデアリマスガ、改造ノ内容、方針ガ異ルカラデアリマス。

反對ノ理由ヲ告ゲタ事ガアルカ
理論ヲ以テ反対シタガ、肯入レラレナカツタノデアリマス。
如何ナル點ニ於テ反對デアツタカ
國家改造ノ手段ハ直接行動デ無ケレバナラヌト云フ事モナク、
又直接行動ハ絶対不可ナリトモ傳ヘヌト思ヒマス。
要ハ、其ノ方針、信念、観察ニ依ツテデアリマス。
私ハ此三点ヨリ、血盟団事件、五 ・一五事件ニ反對シタノデ、
友人トシテ情理ヲ盡シ、理論ヲ以テ論シテモ、彼等ハ肯入レテクレナカツタノデアリマス。
私ハ、三月事件ハ陸軍省参謀本部ノ大部分ガ動イテ成ラナカツタ。
十月事件ハ、背景ハ知リマセヌガ中堅將校ガ蹶起シ、青年將校ノ多数ガ共ニヤツテ尚且成ラナカツタノデ、
之ヲ思フト此事件ニハ何所カニ大ナル欠点、大ナル矛盾ガアツタカラデハナイカ、
或ハ人間ノ力デハ如何トモ仕難イモノガアルノデハナイカナドト思ヒ、
其ノ後ハ周囲ノ者ガ如何ニ言ハウトモ、私ハ眼ヲ閉ヂテ居ツタノデアリマス。
要ハ、自分ノ爲ヲ思ツテスルノデナク、名モ要ラナケレバ命モ要ラナイ、
少シデモ國家社会ノ爲ニ貢献スル所ガアレバ宜イト思ツテ居リマス。
・・・ニ ・二六事件西田 ・北裁判記録(三)  第一回公判 から


菅波三郎 ・ 懸河の熱辯

2018年02月21日 04時08分05秒 | 菅波三郎

菅波三郎
・・・いろいろ討議の結果、
午後十一時頃西田の手術の結果をみまもるいとまもなく、
後ろ髪をひかれる思いで、
菅波、村中、朝山、栗原の各中尉及び私の五人は、
自動車を飛ばして陸相官邸に乗りつけた。
 
眞崎甚三郎    小畑敏四郎
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荒木陸相は、閣議に出席して不在。
眞崎中将がかわって面接した。
約三十分にわたって開陳した、私達の意見に対して、
眞崎は善処する決心を披瀝しつつ、私達に十分自重するよう要望した。
終わって私達は、奥の一室に導かれた。
そこには、小畑敏四郎少将と黒木親慶とが待っていた。
黒木は、小畑少将とは同期生の間柄でかつてシベリヤ出兵に際して、
少佐参謀として従軍し、白系ロシアのセミョーノフ将軍を援けて軍職を退き、
今日に至っておる。
その縦横の奇略と底知れぬ放胆さは、当時日本の一逸材で、
陸軍大学校幹事の職にある小畑少将と共に、
荒木陸相の懐刀的存在であった。
「今夜の事件は残念至極だ。
もっといい方法で、革新の実を挙げるよう、
政友会の森恪らと共に着々準備を進めていたんだ。
すべては水泡に帰した」
と、小畑少将はいかにも残念そうだ。

閣下、今時そんなことを言っておる時期ではありません。
この事態に直面して、いかにしたならば、この日本を救うことが出来るか、
と言うことに、軍は全能力を傾注すべきでありますぞ

菅波中尉は、
滔々と懸河の熱弁を振るった。

今夜の衝撃によって、軍は腰砕けになってはいけない。
もし軍の腰が砕けて、一歩でも 後退するようなことがあれば、
それは日本の屋台骨に救い難い大きなキズが出来るのみだ。
そのキズが出来た時、
ソ満国境をロシアが窺わないと、誰が保証することが出来るか。
自重すると言う美名にかくれて躊躇することはいけない。
この際自重することは停滞することだ。
停滞は後退と同列だ。
軍はただ前進あるのみ、
前進してすでに投げられた捨て石の戦果を拡大する一手あるのみ
私達は繰り返し主張した。

いろいろ意見を交わし、
議論を闘わせつつ、まだ結論を出せず到らず、
これからだという時、
各部隊長から呼び戻しの命令が来て、
残念ながら私達はそれぞれ部隊長の許に引致された。
時に午前四時を少し過ぎていた。・・・


大蔵栄一 著 

五・一五事件 西田税暗殺未遂の真相  より