あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)

2018年02月23日 04時16分02秒 | 山口一太郎


山口一太郎大尉

前頁 五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)  の 続き

タクシーは東京駅から大手町の東京憲兵隊に私を運んでくれた。
運転手に聞くと
「 あの西田という人は、まだ生きているらしいですよ 」 とのこと。
隊に着くと階段をかけ上がって難波光造 隊長に会った。
西田 は生きていますか?」
「 大丈夫らしい。」
「 連中はどうなっていますか?」
「 皆隣の応接室に元気にしているよ。君会って見るか?」
「 いやそれは後日でかまいません。それよりか陸軍の将校達が気がかりです。」
「 うん。それなんだ。
ついさっきもその事について、小畑閣下から御連絡があったばかりだ。
西田は撃たれ、君が富士に行っているので心配しておられた。
今お宅に居られるから呼び出そうか?」
「 ぜひお願いします。」
電話はすぐ通じた。
「 山口です。」
「 ああいい所に帰って来てくれた。すぐに家へ来てくれないか。
チョット隊長と代わってくれたまえ・・・・・・」
電話を切ると隊長は向き直った。
「 君小畑閣下の御宅へ行くんだろう?
閣下からも御口添えがあったので車を用意する。
憲兵の下士官を同乗させる。こうしないと制服の将校でも自由に町を通れないからね。」
事実憲兵隊の自動車で憲兵の下士官でも同乗させないかぎり、
東京を勝手に歩けない程帝都の情勢は差し迫っていた。
戒厳寸前であった。

小畑少将に会った。
「 若い連中 ( 青年将校 ) がなにをやらかすかわからん。
西田君はやられ、君は富士だろう?困っていた所だ。
事件がこれ以上拡大して、陸軍の連中が動くということになると大変だ。
これは何としても食いとめたい。」
「 私は取りあえず順天堂に西田君を見舞おうと思ってます。
あそこへ行けば色々の事がわかるでしょうから・・・・・。
この事については難波さんにも同意を得てあります。」
「 そうか、そうしてくれるか。じゃあ僕も一緒に行こう。」
「 おやめください 」
「 いかんか 」
「 いけませんね。
参謀本部第三部長 閣下が参謀肩章いかめしく、順天堂にいって御覧なさい。
いい新聞種になります。
さわぎが大きくなるだけです。」
「 でもねー。西田は陸軍の連中が思い止るよう説得したために撃たれたのだ。
僕が間接の加害者みたいなもので、気がすまないんだが・・・・・」
と 面を伏せ、奥にはいってから、
「 ではこれで、花でも買って慰めてくれ給え。その他の事もくれぐれも頼むよ 」
と花の代金百円と花につける名刺を渡された。
飯田橋の花屋で豪華な花を買って順天堂病院にはいった。
その他の事を処理するため・・・・・。
西田税
順天堂病院は西田関係で、四部屋使っていた。
西田の病室の入口には仁王様が頑張っている。
薩摩雄次と杉田省吾である。
杉田は西田に輸血をしたとかいっていた。
西田は出血多量の瀕死の重傷で、
私の顔をみて、青い顔でただこっくりとうなずいただけである。
ここで当時の情勢の大要を述べておこう。
その頃順天堂は、中尉を指揮者とする憲兵の一隊が、かためていた。
その外の方に警察官もいた。
私が順天堂に行くことは、難波隊長から順天堂のこの中尉にすでに電話してあった。
憲兵の見張りがたち、順天堂は憲兵隊の管轄下にある。
これは陸軍省の指示によったものらしい。
勿論警察官もきていた。
そして、この憲兵と警察官はべつにいがみ合いもせずなごやかであった。
しかし問題はある。
今は予備役軍人、即ち民間人西田税が民間人川崎長光に撃たれた事件だとみれば、
ここは当然警視庁の手のうちにあるべきである。
だから、彼等の職業意識から云っても、警視庁がこの順天堂に手を入れ、
今回の事件 ( 五・一五 ) を契機として、
右翼急進分子に検挙の手を伸ばしたいことは山々であろう。
しかしそれをやられると、右翼民間人の口から、
陸軍青年将校の思想動向や行動計画めいたものが、内務省に知れ、
それがやがては国会における軍部攻撃の好材料になることは火を見るよりも明らかだ。
軍の威勢まことに不振の時点に突発した満州事変。
それはまだ八ヶ月しか経過しておらず、
外からは列国の非難を浴び、国論また軍部を攻撃していた当時である。
後年の軍部横暴時代とは全く事情がちがい、
軍の首脳部は戦々兢々として、ひたすら事なかれと祈って居た極めて情けない頃の話なのである。
警視庁の手が順天堂に及べば、そこには北一輝もいる。
薩摩等傘下の民間人も、また香田清貞、菅波三郎、栗原安秀等現役陸軍将校もいる。
軍としては何とかして七重の膝を八重に折っても、警視庁に手を引いてもらいたいのだ。
私が順天堂に行ったとき、警備の憲兵中尉は私に向かってこぼした。
「実は警察から普通人が普通人を撃った殺人未遂事件ではないか。---といってきている」 と。
青年将校は西田の身辺を見守るため、ここに詰めている。
現役将校には警察は指一本ふれられないことになっているからだ。
ことに青年将校が屯しているので、一応これを警戒するという名目で憲兵が出張っててる。
憲兵が来ているので、警察は遠慮して控えている、というのが当時の状態であったわけだ。
したがって 北にしてもその傘下の民間人にしても、青年将校達にしても、
憲兵は果たして自分達の敵なのか、あるいは味方なのか一向にわかっていない。
否 何しろ内閣総理大臣が殺されてしまい、犯人一同は憲兵隊に自首収容され、
上から下まで、テンヤワンヤで、何をどうしていいのか、誰にもわかっていない。
犯人が全部憲兵隊に居るのだから、警察では背後関係がどの程度のものなのか、
全く見当がつかない。
うかつに手を出して、警視庁が陸軍部隊に襲われないとも限らない。
だから八方すくみのにらみ合いをしている。
皆がキョトンとしているこの間に、万事うまく運んでしまうのが上策だと私は考えた。
軍の意向は大体呑み込んでいるしもりだ。
いつ飛び出すかわからない青年将校をなだめなくてはならない。
と同時に警視庁には事件を見送ってもらいたいところだ。
ここいら辺を軸にして大体の方針を立て、それを既定のり事実として、
角方面を手早く押し切るよりほかに手はない。
その方針と云うのは
一、順天堂を含め、今回の事件に関する一連の捜査は、軍の手で行い、警視庁には手を引いてもらう。
 そのため迂濶に警察が介入する場合には、陸軍の青年将校が激昂して、
事態が不測の拡大を示すことがあるとにおわす。
二、陸軍は一体のものであり、上司も憲兵も青年将校も、互いに相手を信ずる。
三、青年将校は事態の拡大を一切避ける。
と云った所である。
ここに参考のため、当時の憲兵の立場や権限について一言触れておく。
憲兵----やかましく云えば軍司法警察----は憲兵司令官の統括により、
軍内の司法警察に任じ、必要に応じては、一般人まで権限を及ぼしいてよいことになっていた。
そして憲兵司令官は検事正同様、令状の発行権を持っていた。
だから民間人に関する順天堂を、憲兵が取締ることは、違法でも越権でもなかったわけだ。
情勢の説明が大変長くなった。
西田の病室を出た私は北一輝に会った。北は私の手を握って心から喜んだ。
「やあ、実にいい時に来てくれました。
幸い西田も名医(院長)の手当で、おかげで一命はとりとめたようです。
然し 当分は何の活動も出来ないし、私やここに来ている民間人も、
いつ憲兵に連れて行かれるか判らない。
一歩もここから踏み出せず、外との連絡は全く断たれているのです。
山口さんは自由に市中を歩けますか?」
私は、現在のところ身柄は自由であり、憲兵隊から自動車を提供されているので、
市中どこでも飛び廻れること、
小畑少将と会い、事件の拡大防止をたのまれたこと、
西田の撃たれた事について同少将は心を痛めていること、
憲兵隊長は陸軍省の方針にもとづき、事件関係者に十分好意的態度をとっていること、
現在順天堂につめている憲兵は、皆さんの身柄を保護するように指示されていること
・・・などを告げた。
北は大変喜んで、
「 実にいい手を打ってくれてありがたい。
何しろここに居ては外の事が丸でわからないので、困り抜いていたのです。
ついては少し立ち入って相談しておきたい事があるからこっちへ来て下さい。」
と云って、
私を西田の病室のとなりの部屋の隅に導き声をひそめて、
「 順天堂は憲兵の手にはいり、しかも憲兵がわれわれに好意的なことがわかり、
おかげで一安心なのだが安心できないことがある。」
「 何です?」
「 あの向こう側の室にいる連中 ( 菅波、香田、安藤輝三、栗原 ) が弔合戦をやるんだと、
 さわいでいるんですよ。」
「 そんなこと今やられては、丸でぶちこわしです。小畑さんの心配しいてるのはそこなんです。」
「 僕も全く同感です。きのう事件が起こり、一時放心状態にあった当局者が、急速に態勢を立て直し、
 警戒を厳重にしている時、事を起こしても何も出来るものではない。
これはどうしても食い止めなければなりません。何とかうまい手はありませんか。
僕等は山口さんと違い、自由に市中を歩けないのだから手も足も出んのでね----」
「 ぢゃ、この順天堂につめている将校は、憲兵を敵視しない。
 また憲兵も青年将校を敵視しない。 これでいいんだが、西田君が動けないんだから困りましたね。」
北は言葉をついで、
「 僕には全く策がないんだ。あのとおり、西田は出血多量で真っ青になっている。
 青年将校諸君は、いつ仇討に飛び出すかも知れない。
さっきから時間も大分たっているので、 山口さんもう一度大手町(憲兵隊のこと)へ連絡に行って来てくれませんか。」

時すでに五月十六日の夜十一時である。
新聞は検閲され、ラジオは、デリケートなことは何も言わぬ。
だから、北をはじめ順天堂組は、全くのつんぼ桟敷に置かれた形なのだ。
これ以上騒ぎを大きくしてはいけない。
これが北と私との合言葉であった。
私は云った。
「 夜どんなにおそくなっても、ここにかえってくるから、
 北さんは若い者(将校)たちの立ちあがるのだけはとめておいてください。頼みます。」
北が
「 たしかに御引き受けましょう。
ただ一般情勢について僕の口から説明するより、山口さんから直接話してくれ 」
と いうので、
私は北につづいて若い将校の部屋に入った。
こうして私は、直接陸軍の急進青年将校達に会うことになり、そうして以後彼等と特別な関係に立つことになるのである。
誰かが云った
「 ア、山口さんだ 」
一同は丁寧に名刺を出し、あいさつをした。
私は、
「 今まで北さんと根本的な打合せをした。
 結論は陸軍の若い者が今立つべきではないと云うにあるのだが、情勢は時々刻々変わって行く。
権威ある結論を出すため、僕は今から憲兵隊や軍首脳に会ってくるから、
それまで何の動きもしないように、してくれ 」
と 言う。

「 ぢゃ我々だけで相談させてくれ 」
と 部屋のすみで、こそこそ相談している。
( 今の全学連とすることは似ている )  そして菅波三郎が代表して私に
「 北さん、山口さんが、云うのだから 」
と  私が戻るまで何もしないことを約束した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
「 西田税 撃たる 」・・・と、順天堂病院へ駆けつけた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は乗ってきた車に再び憲兵軍曹を同乗させて、憲兵隊に行き 難波隊長に会った。
私は隊長に云った。
「 たった今まで、順天堂に居ました。
若い連中はなかなかいきり立っているので、北さんと二人でなだめています。
何しろ情勢が全くわからないので、一応連絡に来ました。」
隊長は云う。
「 困っているのは君だけじゃないんだ。われわれも全く手も足も出ないで弱っているのだ。
君みたいに自由の立場にないんでね。」
私は直ちに、
その場で小畑少将に電話した。
陸軍で一大尉が、少将に、しかも憲兵隊長の目の前で、直接電話をするということ、
これは当時は、大したことなのである。
小畑少将のこのときの立場をいうと、
彼は陸相、荒木貞夫のスタッフの随一、
すなわち荒木貞夫は、
柳川平助(騎兵監)、小畑敏四郎、山岡重厚、黒木親慶等を相談役とし、
この難局を切り抜けるべく徹夜の打合せをしているのであった。
黒木親慶という人は、
小畑と陸士同期、”シベリヤ出兵” に出征した退役騎兵少佐で、
白系露軍セミヨノフの参謀長をしたこともあり、知略縦横の豪傑でもあった。
従って小畑少将、黒木親慶に話をすることは、陸相荒木に話をすることであり、
この時点の陸軍首脳の考えが把握できるわけである。
小畑家に電話して
「 山口ですが 」
というと小畑夫人が出て
「 主人は今黒木さんのところにいます 」  という。
直ちに黒木家に電話すると、陸相官邸にすぐきてくれという。
当時陸相官邸は、現在の三宅坂の社会党本部のすぐ裏手である。
私は直ちに陸相官邸に行くわけにもいかず、ともかく電話に小畑少将に出てもらった。
なおこれまでの電話、次の電話は、すべて警視庁の盗聴をおそれ、
全部、私達の符牒で話しをしたのである。
小畑 「 どこにいる。」
山口 「 憲兵隊長のそばにいます。」
小畑 「 連中は大丈夫か。」
山口 「 実は大変なことになつている。北さんの心配の通りになりそうだ。」
小畑 「 現在はどうなんだ。」
山口 「 全体の情勢をのみこんで、順天堂に私が帰るまでは、なにもしない。
     寿司でも喰べていることになつている。」
小畑 「 あの連中に、がたがたされたのでは今立案中の計画も全部オジャンになる。
     陸相官邸では、大臣、参謀総長、次官、参謀次長、軍務局長が集って、
          協議しているところだ。」
結局、私が順天堂で名刺をもらった連中を北一輝と私が、
目下おさえているということで、その処置について話あった。
将校の処罰、カク首等は、
師団長から陸軍大臣に上申して行われるもので、申請の権限は師団長にある。
この場合、近衛、第一師団連絡協議会で決定されるだろう。
しかし、小畑少将は、
この協議会を形成する、時の近衛師団長、同参謀長、第一師団長、同参謀長を
「 世の裏の裏を知らぬ純軍人 」 と言い
隊長職権でなんらかの処置に出るとしても、
最後的な決定は陸軍省人事局補任課に於いて行われる。
そして陸相官邸における協議の成り行きによれば、陸軍省、参謀本部の最高首脳は、
順天堂にいる青年将校の最後の身分を確実に保証したのであった。
小畑少将に代り 黒木は
「 北さんに、近衛、第一師団は強硬に出てくるが憤激せず、若い人が落着くようよろしく願う 」
と云い、
結局次のように決まった。
① 近衛師団長、第一師団長、及び教育総監の意図で若干の青年将校を軟禁するかもしれない。
② 憲兵隊は保護検束も尾行もしない。
③ カク首の上申があっても陸軍省は請けつけぬ。
④ 以上北一輝に善処せしめるよう。
かくて私は五月十七日の朝三時か、四時頃に順天堂にかえった。
青年将校を集めて前記の四項目を伝えると、
栗原などは
「 俺達は何もしておらん、軟禁とはなんだ 」
と 憤激している。
私は
「 最終的な責任は俺がもつ、まあ軟禁ぐらいはしようがない、ここらぐらいでおとなしくしろ 」
と言うと、
やがて菅波三郎、香田清貞が代表して云った。
「 山口さんが責任をもつというのでしたら、おまかせいたします。大変なお骨折りでしたね。」
北一輝は二人きりになると、涙ぐんで長いこと私の手を握り、たったひとこと。
「 ああ助かった 」
と 言った。
( こうまで国を憂い、軍に尽した北一輝は、後にいわれなく、軍の手によって銃殺されるのである。)
かくて私は再び順天堂の結果を報告に、
憲兵隊---陸相官邸と廻り、眼を真っ赤にして大久保の自宅に帰った。
夜は完全に明けていた。
そして陸軍青年将校は微動だもしなかったのである。

しかし事態は妙なことになった。
菅波三郎は、その中隊だけ習志野に演習に出され、大蔵栄一も戸山学校長宅に軟禁された。
私も技術本部の射撃場にある愛知県の伊良湖岬、
芭蕉が 「鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬」 と 詠んだあの岬の端に演習にやられた。
上官なんて全くいい気なものだ・・・・・・・。

昭和7(1932年)年5月15日


山口一太郎

著者 山口一太郎 (1900ー1961) 元陸軍大尉
陸軍士官学校33期生
昭和10年3月歩兵第一連体第7中隊長
2.26事件で「反乱者を利す」の罪で無期禁固に処せられた
昭和36年2月22日に死去
本稿は亡くなる1年前に、病床で同氏の体験を鉛筆で書かれた「思い出」の一節である
--現代史資料月報-- 1963年5月 第4回配本「国家主義運動」(一)付録・・・から転載
五 ・一五事件