末松太平 大尉
昭和六年
東京への出発を前にして大岸中尉はいった。
「 八月中に全国同志将校の会合を東京で開きたい。
民間人は西田税、井上日召の二人だけにしぼりたい。
会場等の準備については金子大佐に相談して、貴公の手でやってくれ。」
・・・略・・・
あてにした金子大佐の転任で、会場問題が宙に浮いたので、
思案のあまり、数日後に西田税を代々木山谷に訪ねてみた。
士官学校卒業以来初めてである。
余年の空白は於互いになかったが、会場のことは警戒して切り出すことをためらった。
が西田のほうから、なんでもないことのように、
「 大岸からいってきている。会場のことは心配しなくていいよ。」 と いわれた。
・・・略・・・
これを機会に私は会合の打合せもあったし、毎夜のように西田税を訪ねることになった。
西田税 藤井斉大尉 菅波三郎中尉 井上日召
そのある日、海軍の藤井斉大尉と菅波中尉が道場で西田を訪ねてきているのにぶつかった。
どちらもこれまで耳にタコのできるほど名前はきいていながら、初対面である。
菅波中尉はこのとき 鹿児島の連隊から麻布三聯隊に転任になったばかりだった。
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藤井大尉と菅波中尉は、いつも客が集まる広い応接間の方でなく、狭い茶の間で西田税と話し合っていた。
私がそこへ入っていくと、西田が紹介せぬ先に藤井大尉が、「 末松さんですね。」 といった。
同志の直感というものであろうかと私は文句なく親しさをおぼえた。
しかし私の方には直感に狂いがあった。
最初声をかけられたときは、実は藤井大尉の方を菅波中尉と思ったからである。
二人はどちらもゆかたに袴をつけていた。
一人は赭顔、無造作ななりだが、一人は白皙、折目正しく夏袴をつけていた。
海軍士官といえば、スマート、陸軍将校といえばどこか野暮ったいのが通り相場である。
その通り相場にしたがって、茶の間にはいった瞬間、藤井大尉と菅波中尉を、あべこべに直感したのである。
ちょうど私が話の仲間にはいったとき、
藤井大尉は、
「 こんど上京して大川周明を訪問し、
いまの混沌とした世相では、ただ一人、先生を頼るほかはないと持ちあげたら、
三月事件であきらめず、もう一度この秋にクーテ゛ターをやるといってましたよ。」
と 西田税に話しかけていた。
日は忘れたが八月の某日、問題の会合は実現した。
場所は青年会館の畳敷の広間だった。
目じるしは 「 郷詩会 」 と なっていた。
西田の考案しそうな名称だった。
全国からの陸海軍青年将校四五十人に、
民間人は西田税、井上日召、
それにのちの血盟団のメンバーの人々や 澁川善助、高橋空山などが加わっていた。
血盟団、五・一五事件、二・二六事件の主要メンバーが、このとき一堂に会していたわけである。
どれが陸軍でどれが海軍か民間人かわからなぬほど、一様にゆかた袴の若者が広間に雑然と坐っていた。
がそのなかで一人だけ夏羽織をつけ、威儀を正して端坐している年輩の人物が私の目をひいた。
「 あれは誰だ 」
と 澁川善助にきくと
「 愛郷塾の橘孝三郎氏だよ 」
と 教えてくれた。
なかには 着物も袴も脱ぎすてて
シャツとステテコだけになっているものもあったなかなので、
それが何か場ちがいのもののように感じられた。
顔みしりどうしは自然にひとかたまりになる。
あちらにひとかたまり、こちらにひとかたまりになって、にぎやかに話し合っている。
そのなかにあって、
西田税、井上日召、大岸頼好、藤井斉、菅波三郎ら先輩が、
また別の意味でひとかたまりになって協議を遂げていた。
その教義の結果、
こんどの組織強化のため、
陸軍は大岸、
海軍は藤井、
民間は西田が
それぞれの中心となることにきまった。
それだけのことだった。
別に主義も綱領もきめる必要はなかった。
結局は互いに久濶を叙し、互いに自己を紹介しあい、
あるいは静かに、
あるいは元気よく語りあい、
冗談もいいあい、組織固めをしただけだった。
が 大岸中尉はひそかに私にいった。
大岸中尉
「 海軍や井上日召あたりは、
ただの組織固めでは納得せず、
この会合を直ちに直接の計画に結びつけたい意見のようだ。
しかし こんど集まったものすべてを同志とみるのは早計だしね・・・」
海上生活の多い海軍と、いつも陸上にいる陸軍とでは、
当然時機に対する感覚に食いちがいがあった。
陸に上がったときにチャンスとみる海軍と、チャンスはいつでも選べる陸軍である。
それが急進と時機尚早の意見のわかれとなって、
血盟団、
五・一五、
二・二六
と、
他に事情もあったけれども時機を異にした蹶起となって現れたのである。
もちろん陸軍のなかにも、海軍に劣らぬ急進分子がいるにはいた。
このとき大岸中尉と同行した弘前の三十一連隊の對馬勝雄少尉などがそれで、
対馬はこの会合を赤穂浪士の討入前の会合のように思って上京していた。
「 このまま弘前に帰れというのですか。」
と 目を据えていつて、眼鏡ごしに對馬は私をみつめもした。
對馬勝雄
幾通りかの意見は各自にありながら、
ともかく 「 郷詩会 」 は 閉会にして、二次会といった格好で、場所を新宿の宝亭の二階広間に変えた。
酒の好き不好きで、酔うもの酔わぬもの、元気のいいもの、おとなしいもののなかで、
井上日召は素裸になって、和尚々々と海軍の連中に取りかこまれていた。
そのとき酔った海軍の大庭少尉がバルコニーから、往来に向って放尿した。
新宿の夜の雑沓、行きかう人の頭上から臭い雨が降ったのである。
宝亭の玄関に被害者が何人か押しかけたことはいうまでもない。
女中の知らせで下へ降りていった西田税が、しばらくして上ってきて、
「 あれはビールだ、ビールだていったが、なかなかきかなかったよ。」
と、目を細めて笑った。
この会合のあとも、私は何ごともなかったように戸山学校に通い、剣術、体操に励んだ。
そして毎晩のように西田税のうちに出掛けた。
藤井斉大尉、古賀清志、中村義雄中尉、大庭春雄、伊東亀城少尉らの海軍や、
菅波三郎、村中孝次中尉らの陸軍や、井上日召、小沼正、澁川善助らが、
このころの西田のうちで出合う常連だった。
会えば語り合い、語りあえばそこに何物かが胎動した。
それは 「 郷詩会 」 を 単なる組織固めに終らせたくなかった、
海軍のペースに乗ったものだった。
もともと大岸中尉が八月の会合を考えたのは、三月事件に刺戟されたからであるし、
桜会の動向に無視できないものを感じとったからであろう。
それにいつとはなしにつながってきた陸、海、民を、ここで統一ある組織にし、
統一ある行動に持っていく必要を感じたからでもあろう。
組織のための組織をきらって、
無組織の組織という、わかったようでわからぬ形でいつまでもいることはできない。
行動するためにはやはり組織を合理化したい気持ちの動くのは当然である。
しかも三月事件のぶり返しのクーテ゛ター計画もありそうだとなっては、
その組織固めが単なる組織固めに終らず、
自らも一つの実行計画を持つことを捉されるのは、
これまた当然の成行であって、海軍を急進派とのみいっておれなくなるわけである。
西田税のうちを連絡場所にするともなくしているもののあいだで、
実行計画が自然に話し合われるようになるのも当然の成行である。
ペースは知らぬ間に海軍のものになるのだった。
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末松太平著 私の昭和史 十月事件の体験 より
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