あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

絆 ・ 西田税と末松太平

2018年02月10日 18時26分31秒 | 十月事件

 
末松太平          西田税

出征の電報を受取った翌早朝、私は先づ 西田税 を訪ねた。
こんどは旅刀ではなく本物の軍刀を吊った。
が 早朝から物々しく軍刀を吊って訪ねては 偕行社の会合の直後だけに、
寝込みを襲った、と 思われたくないので、玄関をはいる時、軍刀をはずすと、
外の柱に立てかけておいた。
夜の遅い西田は まだ寝ていた。
応接間で待っていると、ねむそうな顔で、
「 どうしたんだ、朝早くから。」
と 起きてきた。
「 出征ですよ。」
というと、
「 なにッ、出征。 じゃ金がいるだろう。」
といって、
西田は一度ひっこんだが、百円札二枚持ってまた出てきた。
そこで私は、「 一つ、軍刀をみてもらおう 」 と 玄関の外に出て軍刀を取ってきた。
この軍刀は斬奸用にとおもい、白鞘のままだったのを、戸山学校に入校するとき持ってきて、
士官学校前の軍刀店で外装を急がせたものだった。
それが内敵用には無駄になって、外敵用にふりかわることになったのだった。

西田のうちを出ると、もらった金で軍装品を買いととのえるため、九段の偕行社に向った。
いるだけのものを買って、余分にスイス製の日付のでる時計やドイツ製の精巧な磁石まで買ったが、
それでもらった金の半分も使い切れなかった。

昼に戸山学校にいって校長以下の祝詞をうけ、大蔵中尉や後藤少尉らと一緒に下宿に帰ると、
西田夫妻がラクダのシャツをはなむけに持参して待っていた。
「 刑事と一緒に車できたのだから、駅までは見送らないよ。
下宿代などあとのことは心配いらないからね。」
といって西田は、
子供のときから持っているという お守袋を私にくれた。
「 こんな男は決して戦死などしないよ 」
と いいながら。
このころ私と同じ聯隊から戸山学校の教官に三期先輩の中尉がきていたが、
これが同じ聯隊というだけで、大蔵中尉らと一緒に下宿まできていて、
「 おい、下宿代は払ったろうな。」
と、そればかりを気にして、くどいほど念を押した。
この中尉は平田聯隊長から私の行動監視を命ぜられていたらしく、
十月事件も、班の青年将校に私のことをうるさくききただすので、お目付け、と 彼等にいわれていた。
部隊の出征に間に合うためには、この日の明るいうちに上野を発たねばならなかった。
それで朝から忙しかった。
上野駅に向かう自動車のなかで大蔵中尉は、
「 貴様に対する西田氏の友情をみていて、西田氏に抱いていたおれの誤解は解けた。
あとは菅波と相談してやるよ。」
と いった。
上野駅には 西田税からきいたとみえ、
井上日召,四元、澁川が見送りにきていた。
「 あとのことは引きうけたから、安心していきなさい。」
このことばにはいつわりはなかった。
間もなく 一人一殺が実行に移され、満洲にまでその報は伝わってきた。
・・末松太平著  私の昭和史 から

  大蔵栄一 
十月中旬であった。
青森歩兵第五聯隊から末松中尉のもとに、満洲出征の部隊に編入するという通知がきた。
卒業の直前であったが、原隊に復帰することになった。
私はさっそく末松の下宿にかけつけた。
そこはすでに西田夫妻がきていて、なにくれとなく世話をしていた。
『 十月事件 』 の余燼よじんのくすぶりに、ふたりの間は微妙な立場にあったが、
すべてを超越した兄貴らしい西田の友情に、私はすがすがしいものを感じた。
西田税と私との交友関係が急激に親密の度を増していったのは、このときからであった。
・・大蔵栄一著  二・二六事件への挽歌 より


昭和六年十月十七日、
橋本欣五郎中佐以下十数名が検挙されることによって
「桜会」 の急進分子を中心に起こしたクーデター計画は、空しく壊滅した。
所謂十月事件である。
この事件には後味の悪い、いくつかの問題があった。
その一つに このクーデター計画を未然に暴露したものは誰だ、という問題があった。
「バラしたのは橋本中佐自身だ」
と、西田税からきいたという
末松太平 ( 陸士三十九期 ) の不用意の一言が、波瀾を捲き起こして
「いや、バラしたのは西田税だ」 
「いや、橋本中佐だ」
と、水かけ論的蝸牛角上の争いが
とうとう橋本、西田の対決という愚にもつかぬ論争にエスカレートしていった。
そういうさ中に
戸山学校在校中の末松太平に
満洲出兵のための青森第五連隊への復帰、 という動員が下命されて、
さしもの嫌な問題も自然立ち枯れのかたちになったのは、むしろ幸いであった。
私は末松の青森聯隊復帰のことを知ってさっそく、彼の下宿にかけつけた。
そこには既に西田夫妻が来ていて、何かと身辺の面倒に心を砕いていた。
ややあって、
末松の同聯隊の先輩で戸山学校の体操科教官である中村中尉 ( 陸士三十六期 ) がやって来た。
やって来るなり
「 たつ鳥あとをにごすなよ、どこにも借金は残ってはないだろうな。
誰にも迷惑をかけぬようにしろよ 」
と、きくに堪えぬ言葉を末松に投げかけていた。
この中村中尉の 
「 俺には迷惑が、かかっては困るからな 」
と 言った如何にもみみっちい態度に比べて、
西田さんの態度はまことに立派であった。
バラしたバラさないの論争の中で、
どちらかといえば西田、末松の間には感情の齟齬があって、しかるべき関係に両者はあった。
と私は思わないではなかった。
だが今、目の前に見る両者の間にはその片鱗すらなかった。
ただ、あるものは信頼感に満ちた同志愛の清々しさであった。
同聯隊の先輩である中村中尉の、みみっちい態度 と 西田さんの清々しい態度とを思い比べて、
私は西田税という人が 一ぺんに好きになってしまった。
そのことがあってから、
私と西田さんとの交流は今までにも増して親密度を加えて行った。
・・大蔵栄一  西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄 著から