あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件と士官候補生 (二)

2018年02月17日 19時07分03秒 | 五・一五事件


日本魂 燃える青春
 五・一五事件を顧みて
東京日野ロータリークラブ

昭和四十九年十月三十日卓話
池松武志 ( 元陸士四五期生 )


前頁 五・一五事件と士官候補生 (一) の 続き

井上日召自首の直後、
昭和七年三月頃、海軍側同志よりの誘いにより、
士官候補生有志一同出向くべき所、坂元と私が一同を代表して、出掛けてゆき、
海軍側М中尉、中村中尉両名と会った。
場所は記憶していないが、会合の秘密を保つために、海軍側で借りた、二階建の空家であった。

海軍側の話の趣旨は次の通りである。
十月事件が失敗したので、計画的、全国的決起は実現が六ヶ敷いので、
血盟団による、一人一殺主義で、国家改造への端緒を摑もうとしたが、井上日召の自首で後が続かない。
それで、小人数局地的の実行で、戒厳令を誘発し、一挙に国家改造に突き進むことが必要である。
陸軍側に相談したが、彼等は、全国一斉方式にこだわり、自重論を云って、我々の決行に賛成しない。
士官候補生は是非参加して欲しい。
愛郷塾は、参加を承知してくれた。
坂元と私は、士官候補生一同と相談して、返事すると云い、その会合を打切った。
その直後、士官候補生は、私を含めて、十二名、海軍側の計画に従って、決行することにし、それを海軍側に伝えた。
当時、私は、陸士中退の身で、体が空いていたので、士官候補生を代表して、海軍側との相談、連絡に当たり、
次いで、海軍側も動きが、思うに任せないので、襲撃ヶ所の調査、偵察もやらなければならなかった。

決行の目的は、
犬養総理及び牧野内府を殺害して、異常な政治的衝動を、中央並びに全国に与え、
次いで、警視庁と決戦、
又東京周辺の変電所を破壊して首都に大不安を惹起し、
首都の戒厳令を誘発、
在京並びに全国の陸海軍同志により、一挙に国家改造へ、踏み切らせることにあった。
特に、今度の決行につき、直接連絡はなかったが、平素よりの盟約から云って、
戒厳令の誘発、改造の断行については、
在京のN中尉を中心とした陸軍側同志に、全幅の期待を置いていた。

従って決行の条件は、
第一に犬養総理と牧野内府の在宅並びにその確認であり、
第二が、人数的にも多数を占める、士官候補生の行動が決行直前迄、士官学校当局に感知されないために、
外出可能な休日であることが必要であった。
その他、変電所破壊の影響を、考慮して、時刻的に、夕方に続くことが大事、であったが、
当時、士官学校休日の帰校点呼は午后五時であり、
この時刻を余り過ぎては、同志士官候補生の未帰校から、決行が感知されるおそれがあり、
戒厳令誘発への、陸軍側将校動きを考えると、決行時刻の決定は、やはり、重要なポイントであった。

武器は、拳銃、手榴弾を使用することにし、その手配は海軍側が引き受けたが、
拳銃は、陸軍側同志に感付かれないように揃えることは、困難で、結局、充分には用意出来なかった。

決行の日を五月十五日 ( 日曜日 ) に絞っていったが、前述したように、犬養総理、牧野内府の在宅確認が問題であった。
私はその頃、毎日のように、首相官邸、内府邸を偵察していた。
内府邸は、白金三光町にあり、裏が断崖で、広さも大したことはなく、休日には殆んど在宅していた。
正門の警備巡査は、内府在宅の時は、正門の稍外側に立ち番しており、不在のときは、正門に居なかった。
それで、内府の方は、五月十五日決行の時の在宅は大体確実であり、
又その直前の様子で、警備巡査のあり方により、在不在を判断出来た。

右に反し、首相官邸の方は、簡単に行かなかった。
広さが相当にあり、出入門が表門と裏門 ( 秘書官、又は邸内の人達の私用、雑用の出入口であった ) があり、
警備も極めて厳重で、表門等は、立ち止って中の様子を見ることは出来ない位であった。

 私は、首相官邸付近の割と精密な地図を入手し、
( それが市販のものであったかどうかは記憶にないが、極秘的な入手でなかったことは確実である )
これを拡大描写して、それに、偵察により窮知し得たことを記入していた。
これは、決行直前に海軍側に渡した。

五月十五日首相在宅の件については、
多分新聞紙上であったと思うが、
首相が在宅しなければならない行事が十五日の夕方頃、官邸内であることを、十二、三日頃知り、
それを、多分電話によって、新聞社か、政党関係かに確かめて、確認し、直ちに海軍のM中尉に連絡した。

かくて決行は、五月十五日午後五時半ときまり、
襲撃目標毎に、
各班は、集合場所と、時刻をきめ、襲撃後出来るだけ早く、警視庁前に集合、警視庁と決戦することにした。
警視庁は、当時、左翼による大事件になやまされ、
それに対処するために、所謂新撰組などを用意していると云われていたから、
これとの決戦は、さぞかし、手ごたえあるものと期待していた。

右等のことは、私が士官候補生を代表して、当時、霞ヶ浦海軍航空隊にいたM中尉と、相談、連絡し、
士官学校内の同志に、主として、坂元を通じて分るようにしていた。
( 後に、民間の裁判で、検事が論告求刑の中に、
池松がいなければ、この事件は起り得なかったろうと云い、求刑十五年でも軽過ぎると云った所以である )

坂元との連絡は、夜間か、人目のつかない時に、道路に面した、生垣又は障壁を隔てて、書きものにして授受していた。
坂元には又、この連絡に協力する、下宿の娘がいて、彼女が非常に役立ったことを覚えている。
下宿とは、各県の出身士官学校生が、校外民家の部屋を借り、休日外出時の休憩、食事又は会合等に使用していた所である。

いよいよ決行の当日である。
私は、海軍側と、事件決行をすることに決めてからは、
自重論の陸軍側同志の所に居るのは、よくないので、N中尉のアパートを出て、別の所に部屋を借り起居していた。

決行の前日であったか、
多分、同志士官候補生を通じて、N中尉が、至急、私に会いたいから来てくれという話があった。

私は、決行前に、N中尉に会いたいが、どうしたものかと迷っていたので、
早速、会う気になり、
五月十五日、決行当日の朝早く、N中尉のアパートに訪ねて行った。

N中尉は、決行の日を知らせるように、私に云ったが、それは出来ないと答えると、
拳銃が足りないだろうから、拳銃をやる、それで、決行の日取りを知らせろと、再度、云ったが、私は教えなかった。
・・・リンク→五・一五事件・「士官候補生を抑えろ」
非常に苦しかったが、やむを得なかった。
只、陸軍側同志の中心として、
又陸軍士官候補生同志の指導者として、決行後の彼の善意と善処を期待するだけであった。
彼としても亦、今日が決行の当日であろうとは思ってもいなかったようである。
分れぎわに、決行の日取りは教えられないが、
私達が決行したら、必ず、貴方達は、それに引きづられるであろうと云った。
我々決行の影響の重大さと、国家改造牽引への自信と、陸軍側への期待をこめたものであった。

彼は、その朝、弁当箱大の真黒い羊羹を出し、ナイフで切って私に食べさせてくれた。
それは今でも昨日のように思い出される。

決行の分担で、
私は、第二組の対牧野内府に属し、集合場所は、泉岳寺前の多分蕎麦屋であったと思うが、
食堂めいた家の二階であった。
内府邸はその近くにあった。

定刻午后五時頃迄にM中尉、私、士官候補生三名、計五名全員が集った。
私の背広服以外は、皆軍服であった。

先づ、皆は私に、牧野内府の在宅を確かめた。
私は、集合場所に来る直前にも、内府宅を見て、警備巡査の様子から、
内府の在宅を確めているので、在宅間違いなしと皆に答えた。
次いで武器の配布をした。
M中尉は拳銃のみ、私は拳銃と手榴弾、士官候補生は三人共手榴弾のみであった。
別にM中尉が、事件決行の趣旨を印刷した謄写の激文を用意して来ていた。
警視庁へ行く途中散布するつもりであった。

集合場所から出掛ける直前、M中尉が皆に次の事を話した。
警視庁との決戦が大事であり、内府邸から警視庁迄遠いから、
第二班は、
牧野内府の在宅に係らず、邸内には、入らず、外から手榴弾だけ投げ込んで、警視庁に直行することにする。
私始め士官候補生等は意外に思ったが、
決行に際しては、年長者の指揮に従うとの約束もあり、今となってはM中尉の言に従う外なかった。

午後五時半近く外に出て、私が先に道路に出て、通りがかりのタクシーを止め、全員乗り込んだ。
私は拳銃を持っていた事もあり、運転手に指示する関係から、運転手の左側の助手席に乗り込んだ。

数分で内府邸の正門に着いた。
牧野内府在宅のしるしに、警備巡査が門の外側に立っていた。
M中尉と私が車を降り、門の方に向うと、警備の巡査が近付いて来たので、
M中尉が、拳銃を一発撃ち、同時に、私が手榴弾を邸内に投げ込んだが、爆発音はきこえず、
不発に終ったようである。
警備巡査は、拳銃を発射され、すぐ、中に走りこんだ。 ( 彼がこの時負傷したことは後に聞いた )

M中尉も私も車に乗り込み、私は、運転手に、警視庁に向うよう、指示した。
運転手も既に事の異常を感じたであろうが、
私が、彼の左傍にいて、右手に拳銃を持っていたので、彼はすっかり動転し、
車のスピードを早め、交通信号を無視し、歩道に乗り上げたりして、走った。
途中、決行の趣意を書いた激文を散布して行った。
 檄文

我々が登視庁に着いた時には、何の動きもなく、不断と変らない様子であった。
我々は意外な思いをした。
その頃には、首相官邸も、大騒ぎの筈であり、その他、政友会本部、日銀等が襲われて、
とっくに、警視庁に通報が来ており、強力な密備隊、所謂新撰組等が、待機か、出動中とのみ思い込んでいたのである。

警視庁の表玄関を前にして、一同車を降り、M中尉だけ、車の側に立ち、拳銃をかまえていた。
士官候補生等が、各自手榴弾を警視庁に向って投げ、
そのうち二発位が爆発したら、玄関口に、正私服入り乱れて数十名、どっと出て来た。
M中尉が、撃てと叫んで拳銃を一発発射し、私も玄関口の人数に向って一発撃った。
玄関口の人達は何の抵抗もなく、拳銃の発射音に驚いて、我れ先にと、中に逃げ込み、その後何の反応もなかった。

しばらく様子を見ていたが、他の班の者も来ず、警視庁も反撃の様子がなかったので、
M中尉の指揮で、一応、憲兵隊本部に、引き上げることにし、車で憲兵隊本部に向った。

その時、私の感じたことは、拳銃を一発撃つ迄は感じなかったのに、
一発撃ってからは、もっと撃ちたいという、むしろ衝動的なものを感じ、
それを、非常な心残りとして、一同について行ったということである。

憲兵隊本部に着いたとき、隊長であったと思うが、ていねいに我々を迎え入れ、何の拘束も受けなかった。
同志一同の話合いでも、決行後は、憲兵隊本部に引き上げるという云い方をしていたので、
自首する意味とか、拘束を受けることとか考えていなかったから、憲兵隊本部内の空気は当然と思っていた。

しばらくして、他の班も来着し、首相を倒したことを聞いた。
そして、変電所襲撃の成果を待ったが、電灯も消えず、陸軍側からの戒厳令誘発の効果も出て来なかった。

幾時間を経てからか記憶にないが、やがて憲兵隊長より、話があり、一応衛戒刑務所に行くことになった。
この時も、我々は手錠等の拘束もなく、拳銃等を差出したのみで、自動車に乗り込み、衛戒刑務所のある代々木に向った。
私のグループは、私の外、士官候補生A、萩原・坂元・西川であった。
我々に付いているのは、運転手の外、憲兵の下士官一人であった。

車の中でAが云い出して、このまま代々木に行ってしまっては、目的も達し得ず、動きも取れなくなるから、
ここで同乗の憲兵から、拳銃を奪い、今一度やろうではないかという相談を始めた。
あわや、その通りなるかと思われたが、A、萩原(後に支那の五礼原で敵の包囲下切腹して果てた)の強硬論に対し、
西川が自重を説き、私が西川に賛成して、そのまま衛戒刑務所に着いた。

後で聞いたことであるが、私が決行当日に朝、会ったN中尉は、
我々が事を起すや、陸軍側在京の同志と共に、完全武装して、陸軍省に乗り込み、
陸軍大臣荒木に、ひざづめ談判で、我々の志を無にせず、
一挙に国家改造断行へ踏み切るよう、長時間にわたって迫ったそうである。
私はそれを聞いて、今更のように、N中尉の至情を憶い、当日朝のことを思い出した。
・・・リンク→菅波中尉 懸河の熱弁  と  今日の事件は、お前がそそのかしたのであろう

衛戒刑務所に着いてから、二ヶ月位経た頃、
当局より、話があり、私は民間裁判にまわることになり、市ヶ谷の未決監に移った。

陸軍当局としては、刑事交渉法により、私が軍籍になくても、同志士官候補生同志と同じ立場であるから、
一緒に軍事裁判に持って行こうとしたが、検事局がどうしても承知しなかったのだそうである。
私は、むしろ軍人としての事情と意見を、私以外に民間の裁判に出ることを、絶好の機会として期待した。

民間の裁判に於て、裁判所も私の立場を理解して、
長時間 ( 毎日四時間位づつ三日間にわたった ) 陳述の機会を得、
予備的にも、陳述の趣意を書いて提出しておいたので、誤りのない陳情が出来た。

裁判で印象に残ることは、意外に多くの減刑歎願書が殺到したこと、
私の兄と小学校時代同期であった弁護士が、
私の希望を容れて、私を極刑に処すべきであると、弁論したこと等であった。

『 5月15日に寄せて  私の上司 ・ 池松武志先生と五 ・ 一五事件  隠居歳時記 』
・・・を、精読 感銘したるもの
( 写真、リンク  文字は 私の書込みによるもの )

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