あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件と士官候補生 (一)

2018年02月18日 19時10分11秒 | 五・一五事件

日本魂 燃える青春
 五・一五事件を顧みて
東京日野ロータリークラブ

昭和四十九年十月三十日卓話
池松武志 ( 元陸士四五期生 )

私は、五・一五事件に決行に参加した。
五 ・ 一五事件は、昭和七年五月十五日、
海軍将校六名、陸軍士官候補生十二名
( 事件決行直前に士官候補生としての軍籍を失った私を含める )
を主体として決行された。
それは、日本の国家改造断行を目標とし、
拳銃、手榴弾を使用して犬養首相等を殺傷した事件である。
既に五十年以上を経過しているので、記憶の定かでないものもあるが、
その点は御諒承をいただくことにして、思い出すままに記述することにする。

私は、昭和三年四月、
当時、東京市ケ谷にあった、陸軍士官学校予科に入学した。
二ヶ年で卒業するところ、二年生の夏、肺尖炎兼肋膜炎で治療のため一ヶ年休学し、
卒業は、昭和六年三月で、順調者より、一ヶ年おくれたわけである。
当時、士官学校の訓練は激しく、約一割、人員にして三十名位は、病気のために一ヶ年おくれる者がいた。

私は、昭和六年四月、卒業後、
野砲兵士官候補生として、希望通り、朝鮮羅南の野砲兵第二十六連隊に赴任して行った。
士官候補生の隊付は六ヶ月間である。

昭和六年十月、
士官学校本科に入学するために、東京に帰って来た。

本科に入学してから十日位経過した日に、
士官学校予科に於て休学前の同期生であり、
同一区隊 ( 三十名位 ) であった、A が会いに来た。
彼の話は、日本が現在、非常な危機に際会しているので、
陸海軍の青年将校を中心に、国家改造の動きがあるが、
士官候補生もこれに参加したいと思って、同じ区隊であった B や C とも話し合っている。
「 それで君にも参加してもらいたいと思う。
よく考えて、若し参加したい気持があったら、
数日中に陸軍青年将校の中心である N 中尉の所に行くので一緒に行こう 」
と云う意味のものであった。

当時の世相は、深刻な経済不況の中に、地下運動の共産党員検挙が相継ぎ、
満洲事変勃発後の国際緊張等があり、何となく不安定な空気が漲っていたので、
国家改造に向って、陸海軍青年将校、士官候補生等の動きがあるということは、
私の心を大いにゆさぶるものがあった。
陸軍大将への道を志して、必死に勉学中の私をゆるがしたのである。
母の顔が、ちらっと私の脳裏をかすめたように思ったが、
私は意を決して、A等と行動を共にするつもりで、
翌日、A にその旨を告げ、N 中尉の所に行った。

N中尉
N中尉の話は次の趣旨のものであった。
一、現在の日本の危機の実状
1 君側の奸
所謂元老等は、天皇を補弼する立場にありながら、
国体の本義を忘れ、一部階層の利益確保に専念して、聖明を蔽い奉っている。
故にこれが危機の根幹である。
2 特権階級

貴族院を拠点とする家族等である。
これらは、明治維新
の趣旨からすれば、当然存在すべきではないのに、
旧公卿、旧藩主等合体して、家族の存置を計り、元老、財閥等と結託して、神聖なる国体を我欲に利用している。

3 財閥
三井、三菱、住友、大倉等である。
これらは、特権階級、既成政党と相通じ、政府を利用して、
膨大な財力 ( 当時、世界大富豪十位内に、三井、三菱はランクされていた ) を集め、
それを利用してあらゆる害毒を流すと共に、
更に、財力収集のために、一般庶民を貧窮に放置し、特に農村の状態を飢餓に陥いれた。

4 既成政党
政友会、憲政会等である。
これらは、直接政治を掌る位置にありながら、
前記、元老、家族、財閥にへつらい、又我欲にふける等、天皇の統治を、現実に最も汚している。

5 世界的経済不安
当時、世界的経済不況は深刻を極め、
これに対処せんとして実施した、金輸出解禁は、現実には、更に不況の度を深め、
近代産業労働者は勿論、特に農村の状態は惨憺たるものであった。

6 マルキシズムの横行
右のような状態の中に、日本の伝統に根ざし、まじめな、国家改造運動は起らず、
外国より伝来した、マルキシズムが、ロシア共産主義革命の影響もあって、
帝国大学の教授、学生を始め、一般知識人や労働者等に滲透し、
共産者の地下運動摘発が相つぎ、人心の不安を、更にかきたてた。
私の長兄も、当時、内務省警保局にあって、共産主義者の摘発を担当していたので、その実情を知ることが出来た。
それは、ロシヤ共産主義革命の前夜の実状と比較して、身ぶるいすべきものがあった。

7 軍の危機
日本の陸軍、海軍は、国体護持のために存在している。
国体護持が、即ち、日本国家の防衛であり、更に進んで、国家目的の達成である。
従って軍の本義は、いざという場合、天皇陛下のために死ぬことである。
大東亜戦争の事実に照しても、これが如何に軍の本義であったかということが分る。

しかるに前に述べたように、日本の現在は、国体が蔽いかくされ、
一部階層の者に利用され、国体本義の加護の下にあるべき一般国民は、文字通り、塗炭の苦しみの中に喘いでいる。
特に陸軍は、徴兵として来る兵員に対して、このような状態の日本国家を護るために、天皇陛下のために死ねとは云えない。
殊に、農村に於ては、欠食児童のある外に、兵員の妹等が苦界に身売りする者がいる程の実情であった。
従って、国体護持を本義とし、天皇の軍隊である日本の陸海軍はその存立の意義を失い、
当然崩壊する。これこそ日本国体崩壊の危機なのである。
二、危機打開の方策

右、危機の実情に対し、良心ある軍の将校として黙視することが出来ず、
次の方策を立て、その目標達成のため一身を賭する。

1 現在は、軍の危機を通じての国家的危機であり、
早急に且つ力強く目標を達成するために、国家改造は、軍の実力行使を主体とし、
それに民間有志の協力を加える。
国体の本義を明かにするために、これを蔽うている一切の妨害を除去し、
本来の国民思想を恢復する。
このために、次の方策を実行に移す。

2 憲法の諸機能を一時停止し、天皇大権により、国家改造の施策を整備実行する。
3 元老は廃止する。
4 家族制度は撤廃する。
5 財閥は解体する。
6 既成政党は解散する。
7 土地は国有とし、農地は農民に解放する。
8 私有財産の限度を百万円とし、民間企業の資本限度を壱千万円とする。
9 共産党その他マルキシズム系の政治又は思想運動は撲滅する。
10 国金は、一般選挙に基く衆議院と、特別選出による特別議院との二院制とする。
三、軍部以外との協力

1 北一輝
 国家改造法案を執筆して、国家改造根幹の方途を示し、
中華民国革命に協力した経験のある人で、日本内外に隠然たる影響力を持っている。

2 橘孝三郎
 茨木県に愛郷塾を経営し、農村の子弟に、日本精神並びに、それに立脚した農業を教えている。
3 近藤成卿
 家業として、日本的自治経営学を持っている。
4 井上日召
 仏教の禅に基く、鍛練を以て青年を指導しながら、日本精神的行動力を培い、力のある青年を掌握している。
所謂血盟団事件
の指揮者である。

5 その他
東大生Q、明大生R、陸士中退渋川等
四、国家改造への決起

 全国的に分散している陸海軍の同志が一斉に起つ。しかも非常に近い時機に予定している。

以上のようなN中尉の話を聞いて、私の決心は、更に強固になって行った。

N中尉の話を聞きに行った直後、
十月中の或日、
士官候補生等の相談に基いて、
国家改造趣旨を、改造決行の時、陸軍士官学校生徒に配布する目的で、
謄写版によって、私が、休日、校外で印刷して来た。
他の者は、都合で外出出来ない日であった。
それを同志の一人が、自分のベットの藁蒲団の下においたのを、区隊長 ( 陸軍中尉 ) に発見された。
同じ頃 N中尉が話していた所の、
非常に近い時機の、所謂十月事件が、陸軍当局に感知され、抑圧された。

十月事件は、
参謀本部にいた橋本欽五郎中佐が中心となり、
全国の陸海軍将校の有志が、各々その部下を指揮して決起し、
一挙に、天皇大権による国家改造を実現する計画であり、
それに参加する士官候補生も三十数名にのぼっていた。

橋本欽五郎中佐は、大使館付武官として、トルコ及びソ連にいたことがあると聞いている。
トルコでは、当時ケマル・バシャがトルコの国家改造を断行したばかりであり、
そこに於て、民主主義でもなく、又マルキシズムによるものでもない、
所謂全体主義下の政体並びに経済を学び、
ソ連に於て、共産主義下の側面である、統制的計画経済を見て来たのである。

軍による国家改造運動は、昭和三年頃より始まったと云われ、
十月事件頓座後も、運動は続き、つぎつぎと血なまぐさい事件が起きて行った。

士官学校に於ては、
十月事件関係者として、学校当局に取り調べられた者、三一六名と云われ、
前述 謄写版すり物のこともあって、
私を含めて二名が退学処分を受けた。

私の退学は、翌昭和七年一月末日であり、
父母の住所である鹿児島県に、区隊長が送り届ける所を、
長兄が大阪府下池田市の池田警察署長をしていたので、そこに送り届けれた。

陸軍士官学校では、私の退学後のことを案じてくれ、
神戸高等工業学校に入学出来るよう手配しておくから、
そこに入学するように、と云ってくれたが、
私は、二月中に上京してしまった。
私が軍籍を失ったのは二月十七日である。


上京してからは、
N中尉が、明治神宮の近くに、アパ ートを借りていたので、そこに寄居した。

私の気持としては、依然、国家改造運動に挺進する気持であった。
N中尉の所に寄居している間に、改造運動関係の色々の人に会った。

安藤中尉は、
おとなしそうな、まじめな人柄で、
改造運動と、自分の家庭や、部下との間の一種の矛盾とも云うべき、苦衷が感じられた。
中尉は、後に、二・二六事件に参加し、刑場の露と消えた。

栗原中尉は、
若さと、決意に充ちて、改造運動に邁進しているという感じであった。
中尉も後に、二・二六事件で刑場の露と消えた。

相沢中佐は、
至極温厚な人で、国家改造への決意と苦衷を秘めながら、慈父のような印象があった。
この人は後に、軍務局長永田鉄山少将を斬った。

井上日召は、
天皇は神でなければならない、と云ったことを覚えているが、印象としては、特に残っていない。
N中尉と何か話し合っていた当時、血盟団事件の渦中であった。

N中尉が、暫く留守することになった頃、
ずっと前に、 陸軍士官学校を中退した、渋川善助がやって来て、
N中尉のアパートに寄居することになり、私と同居した。
彼は、必ず毎朝、欠かさず、座禅していた。
線香に火を点じて立て、隣室で座禅していたが、印象も、禅の雲水という所であった。
格段の話もせず、毎日のように出歩いていた。
井上日召、西田税等と親しく、北一輝宅にも、よく行っていたようである。

或る日、私を誘って、北一輝宅に連れて行った。
その場所は、くわしく覚えていないが、板塀に囲れた、広大な邸宅であった。

北一輝は、快く会ってくれた。
毎日、朝夕、法華教を読んでおり、時に応じて、頭に閃くものがあると云っていた。
静かな重々しさがあり、しかも何となく、親しみが感じられた。

血盟団事件は、
陸海軍将校、その他有志による、国家改造運動が、
全国一斉蜂起計画の、十月事件挫折後に取られた、
多数方式で行かなければ、先づ、一人一殺主義で行き、
国家改造への実行端緒を摑もうとしたものである。
それも、井上準之助、檀琢磨両氏を倒した後、
井上日召の自首により、終りを告げ、
国家改造への方途には、直接の効果を来たさなかった。

井上日召自首の直後、
昭和七年三月頃、海軍側同志よりの誘いにより、
士官候補生有志一同出向くべき所、坂元と私が一同を代表して、出掛けてゆき、
海軍側М中尉、中村中尉両名と会った。
場所は記憶していないが、会合の秘密を保つために、海軍側で借りた、二階建の空家であった。

次の頁 五・一五事件と士官候補生 (二) へ 続く


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