あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

五・一五事件と山口一太郎大尉 (1)

2018年02月24日 04時33分35秒 | 山口一太郎


山口一太郎 大尉
五・一五事件は、随分奇妙な事件である。
あれだけの大事件でありながら、計画の大要は各方面に洩れていた。
憲兵隊も、したがって陸軍省も、そして恐らくは警視庁も相当程度知っていた。
行動の隠密性が悪かったためである。
私も五月の始め頃から西田税 に情勢を知らされた。
かほど重大な陰謀が、こんなに知れ渡っていたのでは碌な結果にはなるまい。
海軍将校が計画し、海軍や民間人がやるのなら別に云う所はないが、
陸軍が巻き込まれることは避けたいと思った。

小畑敏四郎少将に御会いして見ると考えは全く同じであった。
「 陸軍が巻き込まれることは絶対におさえてもらいたい。
西田君とも相談して宜しく頼む 」
ということだった。
これまた随分おかしな話だ。
小畑少将は知る人も知る荒木陸軍大臣のブレーンの第一人者なのだ。
決行時期が五月一五日ということは五月十日頃わかった。
私と西田とは日に二度位会った。
陸軍将校の参加は西田が完全に思いとどまらせた。
陸軍士官学校生徒の参加をも止めようとしたが、
その説得役の村中 [孝次]( 陸軍士官学校区隊長、中尉 ) が
生徒に接近することを学校当事者が勘違い(煽動と)の結果 阻止したので、
ついに目的は達せられなかった。
私も西田も、日ごと夜ごと焦燥感を空しくなめるばかりであった。
このような東京をあとにして、
私は富士裾野、滝ケ原の演習場に行かなければならなかった。
かねて私の設計していた機関砲の実弾射撃が予定を繰り上げ、
五月十四日から十六日までになったからだ。
恐らく技術本部首脳部が、事件の計画をうすうす知り、
五月十五日に私が東京に居ないように計らったものであろう。
御殿場の大きい宿屋数件は
技術本部長緒方勝一大将以下数十人のメンバーによって占められた。

五月十五日の演習が済むと、
私は転がるように自分の宿にかけ戻り、帳場のラジオにかじりついた。
ラジオは海軍将校と陸軍士官学校生徒によって決行された五・一五の大事件を報じ、
ひとびとは目を丸くして刻々の報道に聞き入っていた。
私にとってはすべてあるべき事が、スケジュール通り行われただけなので、
一向驚くことはなかった。
しかし報道が進むにつれ、本当に驚かなくてはならなかった。
それは予定にも何もない
西田が狙撃され、順天堂病院に収容されたが、生命はおぼつかないということだ。
西田の呼吸、脈ハク、輸血の状況などは、要路の大官なみに刻々と報ぜられた。
私がラジオの前を去ったのは夜半すぎていた。

明けて十六日の朝六時頃、
隣の宿から
「 本部長閣下が御呼びでごさ゛います 」
と 迎えに来た。
その室に入ると 人は、
室中に新聞をひろげ
「 実にけしからん 」
と 憤慨している。
「 君これは一体どうした事だ。飛んでもない話だ。
君のことだからいずれ前から知っとんダろう 」
と きめつける。
「 風説はうすうす聞いていました 」
「 聞いとったら、われわれ上司に報告せにゃいかんじゃないか。」
「 技術に関する事だったら細大もらさず報告してますよ。
会った事も、名前も聞いた事もない海軍将校に関する風説まで、
事ごとに報告する義務はないと思います。」
大将これで喜んだ。
「 君本当にこの連中の名前すら聞いた事がないのか?
後日上司(この場合陸軍大臣)からわれわれの方へ御とがめが来るような事はないのか?」
なんだ、私を早朝呼びつけた問題の核心はここにあったのだ。
当時の軍の上官の大部分は、保身に汲々たるものだった。
部下の急進将校のため、
わざわいがこの身に及んでは大変ということだけなのだ。
何回も念を押し、
私がこの事件に全く関係ないと得心が行くと、
急にニコニコして
「 では宿へ引き取りたまえ。朝早くから呼んですまなかった。」
その日(十六)の射撃は正午に終わった。

東京へ心急ぐ私は、
射撃の終わる地点間近かに、
大型のハイヤー「ハドソン」を待たせておいた。
乗る。
走り出す。
宿でトランクを受け取る。
そして駅へ。
列車は入っている。
運よく車中の人となった。
一路東京へ・・・・・。

煙を吐き立てて走る汽車の歩みが、こんなに遅く感じられた事はなかった。
車中何時間、全くつんぼ桟敷だ。
愛宕山のあの小さいアンテナから電波の出されていた当時である。
トランジスタ・ラジオを聞きながら旅行するなんて事は思いもよらない。
何はともあれ情況を明らかにしなけりゃならぬ。
それにはまず憲兵隊に行くにかぎる。

 次頁 
五・一五事件と山口一太郎大尉 (2)  へ 続く