あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

澁川善助の士官學校退校理由

2017年12月02日 04時52分18秒 | 澁川善助

大正十四年三月
士官候補生として若松二十九聯隊に配属になった。
卒業直前の昭和二年、
澁川は上官と衝突して退校に処せられた。

澁川善助
そのいきさつ
陸軍士官学校で一般教育学の講義をしていた教官に、大村挂厳 ( 後に大正大学学長 ) が いた。
この課目には試験がなかったので他の者は適当に聞き流していたが、
澁川は一人ひどく熱心であった。
あるとき
大村教官が、教育者として具えるべき条件として たいへん厳格な諸箇条を列挙したことがある。
これに感激したのであろう。
澁川は、
その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だ、と 批判したのである。
これが上司に見つかって俄然問題化した。
ところが、澁川はガンとして自説を撤回せず、
とうとう 重謹慎三〇日 ( 軟禁状態で三〇日をすごす )
という、退学をのぞけば最も重い罰に処せられた。
それが解けた日、
悪かったと認めるかどうかの問答が上司との間に交わされた。
だがしかし、いぜんとして澁川は譲らなかった。
それで 再び重謹慎三〇日を言い渡された。
こうして、問題は同期生の間にも拡がっていった。
一部の同期生がこれに同情し同盟休校をしよう、という話になる。
そして、話のけりを末松太平のところへ持っていったのである。
もともと、陸士三十九期生の中に 「 革新 」 思想--北・西田との出会いを持込んだのは、
末松であった。( 大岸頼好の紹介による )
末松が、同期の森本赳夫や草地貞吾などを西田 ・北に会せたところ、
森本はひどく熱をあげた。
森本は、せっせと北、西田通いに励み、「 この男は」 と思う同期生を何人か連れていっては、
北、西田に会せもした。
そのなかには 高村経人、松田き喜久馬、生駒正幸、尾花義正などがいたであろう。
澁川善助もそのひとりであった。
しかも、森本は末松を立てたので、末松はいつのまにか同期生 「 各新党 」 の 首領株になった、という。
この期こそ、特に西田 にとって力強いものであったか、
「 北さんは日本の革命は諦めていたが、君等の出現によって考え直すようになった 」
と、度々述懐していた 西田である。
事実、西田の 『 天剣党規約 』 の、同士録には、現役軍人四七名のうち、
三十九期生は十八名にのぼっている。
がんらい優等生で周囲に取巻きというか ファンをいつも引き連れていた澁川の心のうちに、
いつしか、この 首領 に実行力を誇示したいという気持が芽生えた。
森本は、冷たく局外にいる末松に対し、
「 何か言ってやれ、澁川はお前のことを意識して頑張っているのだぞ 」
と 言った。
だが、末松が忠告したときにはもう手遅れであった。
二度の重謹慎に同情した赤松良太が日記にその真情を細々と記し、
当局に探知されていたからである。
赤松は、ルソーの 『 エミール 』 などを枕読する 軟派中の軟派
として
かねて当局に目をつけられており、処分を受けたこともある人物だった。
澁川の後ろには軟派がいる、ということであっさり退校処分が決定した、と言われている。
最終的に決済するのは校長であるが、
これが一般教養の造脂も深いと当時自他ともに許していた眞崎甚三郎であった。
そのプライドが傷つけられたというのも一因ではなかったか、と 推定されている。
退校問題があって居づらくなったであろうか、大村も亦間もなく教官を辞した。

このような経過があって後
昭和二年夏、
末松と澁川は 「 革新党 」 同志として 無二の親友 になったのである。
中退した澁川は第一高等学校の試験に合格するが内申書不良で落され、
明治大学法科に入学した。
昭和二年、年四月のことである。

昭和九年、青森歩兵第五連隊 テニスコートで
末松などの青年将校たちは、
天剣党事件を機に西田に一種愛想づかしをしてこれから離れ、
末松は青森グループとしていっそう自立的な方向性を模索し始めていった。
他方、民間の中に追われた澁川の心は、
同じ軌跡をたどったという事情も手伝ってか 西田にいっそう傾斜していったのである。
・・・二・二六と青年将校

塩釜につくと先に塩竈神社に詣った。
髙い石段を上がって行くと、上の方から将校の一団が下りてきた。
同期生の航空兵の将校たちだった。
仙台の練兵場を基地に飛行訓練にきているといっていた。
澁川とも互いに久濶を叙していたが、
かつての同期生きっての秀才澁川の西田税よりお古拝領の背広姿と、
これにむきあっている、その他大勢組の軍服姿の一団をながめていて、
なんとなく 澁川をあわれに思った。
・・・末松太平著 私の昭和史


澁川善助 ・ 御前講演 「 日露戰役の世界的影響 」

2017年12月01日 04時43分28秒 | 澁川善助

大正十四年三月、
陸軍士官学校予科を
恩賜の銀時計を拝受して卒業した澁川善助は、
その卒業時に、
皇太子 ( 昭和天皇 ) の御臨席を仰いで
「 日露戦争の世界的影響 」
と 題する
御前講演を行っている。

澁川善助
謹んで
「 日露戰役の世界的影響 」
に ついて申上げます。
日露戰役は、
實に 二十億に近い戰費と、百万の兵員とを以て
國家の生存の爲に國力を傾けての大戰爭でございまして、
當時の日本にとっては 寔まことに尠すくなからぬ負担でありました。
又、東洋諸國には申すまでもなく、
西洋までも政治上に、外交上に、思想上に、
將又はたまた軍事上に 及ぼした影響は意想外に大きなものでありました。
それにも拘らず、
當の日本人が比較的之等の點に想ひ至ることの寡すくないのを
遺憾に思ふ次第でございます。
此の戰役は、日本自身に對しましても、
政治上、社会上、思想上、其の他種々の方面に
多大の影響を与へて居るのでございますが、
それは此ここには省はぶきまして、
唯 諸外國に及ぼしました軍事方面意外の影響のみを概略述べて見ようと思ひます。

第一には、
立憲運動であります。
弱小なる一寸法師が巨大な北極鬼を斃した理由は、
日本が立憲國でありまするに反し、
露西亜がまだ専制國であつたからであると考へられまして、
随所に立憲運動の流行を見たのでございます。
隣國支那に於きましては、
日清戰役後既に立憲運動の萌きざしを見たのでありましたが、
此に及んで政府が進んで憲政の調査に着手し、
明治三十九年、即ち一九〇六年には、將來 國家を開くべきことを宣言致しました。
波斯ペルシャに於きましては、
進歩主義の人々がその運動に功を奏しまして、
一九〇六年に新憲法が布かれたのでありました。
土耳古トルコに於きましても、
日露戰役前から憲政問題の爲に國内汾亂勝がちに見えましたが、
一九〇八年に至って遂に立憲政體が成立し、
更に青年 「トルコ」 党内閣すら出現したのでありまして、
此にも日露戰役の影響を認むるのでございます。
敵國露西亜に對しましては重大な變動を与へました。
即ち 戰役半ばには既に立憲運動が起り、
色々な不祥事を惹き起しました結果、
遂に國會即ち 「デューマ 」 の開設となったのでございます。

第二には、
國民的運動であります。
白色人種に抑壓されて居りました有色人種が、
此の戰役後、その國民的運動を非常に深めた感があるのであります。
印度、埃及エジプト、アフガニスタン等がそれでございます。
日露戰役は、啻ただに日本が露西亜の侵略を制止したるのみならず、
又、東洋に侵入せる白人勢力打破の烽火であるとも申すことが出來まして、
亜細亜開放の戰役に外ならぬのでございました。

第三に申上げますのは、
世界外交史上に及ぼした影響であります。
先づ指を屈すべきは日英同盟であります。
此の同盟は防禦同盟から攻守同盟に改まり、
その包合する範囲も印度にまで擴がりまして、最も高潮に達したのでございます。
次は英露の接近であります。
此は正まさしく欧州外交上に於ける一大變動であると思はれます。
從って英露佛の三國協商が成立致しまして、独墺伊の三國同盟に對抗する有様となりました。
次は独墺兩國の活躍であります。
「 カイゼル 」 ウィルヘルム二世は、奉天大会戰の結果が知れまするや否や、
直ちに軍艦に搭じて佛蘭西の勢力範囲なるモロッコに至りて、
その君主を籠絡して第一回モロッコ事件を惹き起したのであります。
蓋し 「カイゼル 」 は、
露西亜が同盟國佛蘭西の爲に立つこと能はざるを見まして、
かくの如き強硬な對佛政策に出たのでありました。
又、バルカンに於て常に露西亜と相爭って居りました墺太利は、
露西亜の頽勢たいせいに乗じ非常に活動し始めまして、
日露戰役の數年前から軍事的占領をして居りました所の
土耳古トルコ領ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言するに至りましたるも、
此に機械を促へたものでございました。

第四には、
統治者と國民との關係が自然であって、
殊に國民が熱誠な忠義心を以て統治者に仕へ奉ることは、
戰爭の勝利を期する所以で、
又、健全なる國家を作る大原因であると云ふことを知らせたことであります。
之が爲、外人の武士道を研究するものが段々増加しました。
乃木大將の事蹟等も、往々外國の著者に引用せられることとなりました。
又、日本の國運の發展につれて、
欧羅巴の或る極端なる學者は、日本の膨脹を阻止するが爲には、
統治と國民とを疎隔することに注意しなければならぬ、
と 發表して居るものさへも出て來ました。

以上は日露戰役の世界的影響の、
主として政治、外交、思想方面に關する概要でございます。
今や日本の思想界は兎角動揺致しまして、頗る憂慮すべきものがあります。
此の時に当つて、
日本國民が未曾有の眞劍を以て
君國の御爲めに戰ひました日露戰役
並びその世界に及ぼしたる影響を想ひますれば、
うたた感慨の情 切なるものがあるのでございます。
此れにて講演を終へます。


末松の慶事、萬歳!!

2016年11月06日 04時47分23秒 | 澁川善助

澁川善助発西田税      〔 昭和十年四月二十日 〕
復啓仕候
末松の慶事、萬歳!!
欣喜雀躍の至に御座候、
歓哉、好哉、快哉、
あな嬉しいきどほろしきわびし
  はからず聞ける友のよろこび
歌など まどろかしくてこの喜びを表せず候、
この葉書 五月一日以前に配達せらるるや否や 不明に候間取敢へず渡邊氏宛、
謝辭と祝辭と電報にて發信の手続仕置候へども
尚も重ねて宜しく御鳳声被成下度奉懇願候、
下手くその歌にて候へども 花嫁御芳名とし子の君と承り候まづ
  千代八千代末の世までも輝かむ
  とし得て雄々しい松の操は
  末の世の男 の子の鑑雄々しき松
  としごとふやせその彦ばえを
と、渡邊氏宛 右の電報中に、
式の際 披露宴を御願申上置候へども 電文不明を顧慮とて念の爲再度仕候、
何とぞよしなに御取計ひなし被下度懇願の至に御座候、
更に、その佳き日にまのあたり祝盃を献じ得ざるが
小生何よりの遺憾に有之候間何とぞ小生の分も御乾盃なし被下様御願申上候、
小生は此処に於て遥に祝賀仕るべく候、
ああ太平夫妻の顔が見たくなり申候!!
  ×--×―×--×--×--×--
天業恢弘・億兆安堵の  皇謨を扶翼すべく魯鈍に鞭ち微力を盡すこと幾春秋、
わずかに大陸經論の曙光を見しのみにして 内外の暗雲猶ほ重し
わらふべき業務に引かれて囹圄の身となり、
世運忙々の外に閑坐する早くも半歳、
鐵窓を隔てて満帝の御來京を聞く、
想は遠く馳せめぐりて感慨無量なるもの有之候
然り 盛事なり畫時代的盛事なり
噫々 而も 創生安んぜざる如何せん
皇天上席眼文明、或は風
或は雨、春を虐しいたぐる夫れ意なからんや
--×―×--×--
屋外運動も取やめ勝にて、
屋外の桜花心ゆくまで愛でられもせぬ内に早や散り果て申候
ただ春逝不可停、還喜盛夏來、落花眞可憐、男子自不嘆と有居候
愈々明後日 月曜 ( 廿二日 ) 小生の取調 ( 但し檢事の ) 始まることに相成候、
簡單に相濟むらしく候、
益々頑健に罷在候間 何とぞ御放念被成下候
末筆ながら弥々御清穆ぼくの程 伏して奉祈上候
      恐々頓首

〔 ペン書。  封緘葉書。
表、渋谷区千駄ヶ谷四八三 西田税様。
裏、中野区新井町三三六 澁川善助  四月廿日認。
郵便消印10・4・26.
なお 文中
は消去  傍線をほどこした個所は、渋川のペンで書いて後 消されたことを示す。〕

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十月にはいったころのある土曜日、
私は戸山学校に末松太平 の訪問を受けた。
「 きょう午後、わたしにつきあってくれませんか 」
「 だしぬけに何だい 」
私は、末松のいう意味がわからなかった。
「 あんたも知っている例の縁談のことですよ 」
私は、ああそうかと思った。
そのころ末松は、戸山学校の学生時代に下宿していた家のおばさん夫妻から、
しきりに結婚をすすめられて困っていた。
いついかなる事態が起るかもわからぬこの時期に、
結婚でもないもんだというのが末松の心境であった。
相手は久保三郎元千葉県知事の令嬢との縁談であった。
「 その結婚の件で、どうつきあえというんだ 」
「 ことわりたいんですよ、私からはいい出しにくいので、その役をあなたにやってもらいたいんです 」
戦場では金鵄に輝く さすがの末松も、こんなことでは気が弱かった。
「 本気でことわるんだな 」
「 本気ですよ 」
「 じゃ、いっしょに行こう。建設は苦手だが、破壊ならやれそうだ 」
私は縁談のぶちこわし役を引き受けた。
面会の場所は神田駿河台の主婦の友社であった。
その昔、石川武美 主婦の友 社長が雑誌 『 主婦の友 』 を、
肩にかついで行商的販売をしていたころ、
久保元痴ぢが強力な後援を惜しまなかったので、いまでは石河社長はその恩義に報いて、
退官後の久保を顧問として迎えているとのことであった。

久保夫妻は すでにきていた。
名乗ってみると、あろうことか、彼は私の同郷の先輩であった。
「 末松さんは今度の満洲事変で金鵄勲章を頂いたそうですね 」
金鵄勲章にだいぶ魅力があるらしい。
「 別にたいした手柄をたてたのではありませんが、なんとなしにもらったというところでしょう。
運がよかったんですよ 」
と、末松がいった。
「 そうです、運ですよ。
戦場では、きょうの勇者必ずしも あすの勇者ではないといわれます 」
私は、ここで末松の悪口をまくしたてて、一挙に破壊力を集中しようと思った。
「 末松という奴は、金鵄なんかもらったものだから、
ちょっとえらそうに見えるけれども、もともとだいぶ変わりもので、たいした男ではないんですよ。
戸山学校の学生のときも、教官のいうことはきかんし ( 実際はそうではなかった )
でたらめで学校のもてあましものでした。
このままでゆくと、いずれは処罰を食うようになるでしょうし、
悪くすると監獄にもはいりかねない奴ですよ。
こんなことはいうべきことではないかも知れませんが、
大事な縁談のことですから、あえて本人を前にして申し上げたわけです・・・・。
末松、申しわけない、許せ 」
私は、ちょっぴり深刻な顔をして、末松の方を向いて頭を下げた。
縁談を破談に導こうとする目的であったとはいえ、
親しい後輩に悪口雑言を浴びせかけるのは、いささか心苦しいものがあった。
「 かまいませんよ、本当のことだから 」
と、末松は苦笑いしていた。
「 しかし、女に関するかぎり 石部金吉であることは間違いありません 」
私は一つだけほめた。
「 ちかごろの若いものは、そのくらいの元気があってほしいですね、
とくに国家を守らねばならぬ青年将校は、なおさらそうあるべきでしょう。
わたしらは大賛成ですよ 」
久保夫妻はニコニコしていた。
二、三十分雑談を交わしたあと、私と末松は主婦の友社を出た。
「 オレの破壊力も台無しだったらしい。もしかしたら、
破壊と建設とがすりかえられたのではないか 」
「 そうだろうか 」
「 こうなったら、どうだ末松、あつさり男としての覚悟を決めたら・・・・」
「・・・・・・」
末松は黙って歩いた。

やがて末松家と久保家との話が進んで、
十月の菊かおるころ、
偕行社で華燭の典があげられた。

新婚の夢なおさめやらぬ数ヶ月後、
はからずも私が破談のためとはいえ口走った
「 投獄される・・・・」
云々が現実となって、末松は禁錮四年の刑に処せられたのであるが、
そのときの結婚記念写真の中に
いまはなき 西田税 渋川善助 の若若しい面影が、
私とともになつかしい当時を偲ぶよすがとして残されている。
西田は写真を撮るのがきらいであったのか、いまはほとんどその面影が残されていない。

大蔵栄一 著 二・二六事件の挽歌
末松太平 の結婚式にひと役  から