あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大岸頼好 皇國維新法案 5 『 四 二つの皇道派 』

2018年07月13日 09時26分07秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
四  二つの皇道派

このように上層部との関係や青年将校同志の関係に着目すれば、皇道派は一枚岩とはいえなかった。
その一方で、西田派青年将校と大岸らを結びつけるきっかけも存在していた。
すでに1935年 ( 昭和10年 ) の春頃、つまり中村義明が本拠地を東京に移したあとから、両派提携の試みははじまっていた。
中村義明は憲兵調書で同年六、七月以降、『 核心 』 と 『 皇魂 』 の合併を協議する目的で核心社に行ったと供述している。
核心社とは 西田派の牙城というべき団体で、その構成員は澁川善助らが所属していた直心道場
( メンバーは西郷隆秀、大森一声、杉田省吾、石渡山達、三浦延冶ら ) や 勤皇維新同盟と重なっていた。
核心社の機関紙が 『 核心 』 で、その特徴は題字の上に書かれた 「 維新工作の綜合機關 」 に尽されている。
・・< 註 60 ・・・『 核心 』 については堀真清  『 西田税と日本フアシズム 』 ( 2007年8月 岩波書店 ) 第六章第二節参照 >
毎号 「 躍進する維新運動 」 で全国の運動を紹介し、
天皇機関説問題などを契機として国家改造運動の統一戦線構築を目指した。
それゆえ、『 核心 』 と 『 皇魂 』 が接近するのは問題といえた。
しかし、このときの合併協議は 「 問題は御互の信念、維新に対する見解の一致 」 として
「 合併 」 ではなく 「 編輯の連絡 」 をやっていくことにとどまった。
・・<註 61 ・・・林茂編 『 二 ・二六事件秘録 』 二巻  29頁  1971年5月  小学館 >
それが、同年八月の相澤事件をきっかけに提携の動きが加速したのである。
事件の詳細は別の研究に譲るが、本稿と関連するのは、
この事件によって、西田税らの東京グループと大岸頼好らの和歌山グループとの提携が図られたことである。
既述のように、相澤は大岸にとって同志と呼ぶべき存在であり、西田との関係も古かった。
このため、相澤の永田刺殺は、青年将校間でくすぶっていた思想的な対立を棚に上げたまま、
提携の動きを加速させたのである。
大蔵栄一は次のように回想している。

相澤中佐の一撃は、全国の同志青年将校にとって、大きな衝撃であった。
「 相澤につづけ 」 という声がしきりにいいかわされ、盛り上がってきた。
その中でも大岸頼好大尉は、和歌山にあっていち早く相澤中佐に対する思い出、感想、逸話等々の原稿を広く募っていた。
とくに最も親しくしていた同志関係の人々は避けて、相澤と少しでもかかわりのあったものの原稿に重点をおいた。
大岸はこれらの原稿を小冊子にまとめ、広く一般の人々に購読してもらうため、廉価で市販するつもりのようであった。
その場合、われわれ同志の原稿を避けたのは、かえってひいきの引き倒しになることをおそれての大岸らしい配慮である。
大岸は、やがてまとまった原稿を全部西田税あてに送ってきた。
東京で検討の上、有効に処理してほしい、という、全面的に西田に依頼した態度であった。
この大岸の態度に、しん底から喜んだのは西田であった。
「 大岸君からこんな手紙がきたよ 」
西田は、大岸の手紙と分厚い原稿とを私に見せながら、ニコニコしていた。
「 さっそく僕は 『 まえがき 』 を書いてみた。 こんなものでいいだろうか 」
と、その原稿を私に示す西田の顔は明るかった。
昭和八年 ( 1933年 ) 後半ごろから今日に至るまでの西田と大岸との確執が、
これでいっぺんにふっとんだ、と私は思った。
人間の感情の推移ほどはかり知れないものはない。
人為的にとつおいつ考えあぐねたことが、相澤中佐の一挙によってこうも簡単に霧消へのきっかけになろうとは、
夢想だにしないことであった。
大岸と西田との感情的確執が北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 をめぐってのことであることは、
さきに述べた通りであるが、青年将校運動の先達である西田と大岸との確執は、
私ら後輩にとっても最も大きな頭痛の種であった。
それがいま解きほぐされようとしているのだ。
そういう別な意味でも、私はこの事件をかみしめたのであった。
・・< 註 62 ・・・『 二 ・二六事件への挽歌 』 225頁 >

また、翌月の憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部将校ノ動静概況  其十三 」
にも、提携の動きが伝えられている。

「 歩五末松大尉ハ八月九日付澁川善助 ( ヨリ ) 左記要旨ノ通信ヲ受ク
左記
一昨日大森カ貴様ニ参ラサレタ話ヲ聞イテ嬉シカツタ
十月ノ再會ヲ待ツ 
大 ( 大岸 ? ) * = 皇魂ト  西 ( 西田 ? ) * トノ関係モ 菅 ( 菅波大尉 ) ノ上京ニヨリ ( 因ニ会ツテ來テ )
極メテ喜ハシク進展セントシテ居ル 菅波カ西下ノ途中 ニ會ツテ行ケハ九割ハ氷解スル筈ダ
アトノ一割ハ道義的慎ミノ問題ダ ( 編集部註。* は原註 )
・・< 註 63 ・・・『 二 ・二六事件 = 研究資料 』 Ⅲ  176頁>

この 「 大 = 皇魂 」 とは大岸頼好と 『 皇魂 』、「 西 」 とは西田税のことだと思われる。
その引き合わせ役をつとめたのは菅波だった。
菅波は、東京陸軍軍法会議第二回公判で、
「 昨年 ( 1935年 ) 皇魂と 核心を一緒にする爲に千圓与へ、大岸の生活費を八百圓、磯部に五百圓与へました丈です 」
と供述している。・・< 註 64 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 三巻  371頁 >
実際、この提携による変化は、中村、大岸らの 『 皇民新聞 』 誌上にもあらわれた。
一四号 ( 1935年10月10日号 ) は 「 機關説思想徹底追撃展開號 」 となり、
頁数がこれまでの倍 ( 八頁 ) になっているうえ、編集部によれば、
「 本第十四號より日刊紙型に擴大の予定の処 」 などと記され、紙面の改編が目指された。
また、同号の 「 各地の同志に寄す 」 「 擧國一體運動の躍進とその根本基調 」 「 維新運動發展への一考察 」
 ( いずれも無署名 ) では、主張は旧来のままでも、 『 核心 』 と同じく国家改造運動の広がりが意識されている。
とくに最後の論文では、「 神人合一君民一體の一大家族體國家の完成 」 に向けて
まず 「 隣人一體氏子一體化の運動 」 を進めることが呼びかけられた。
また、八面では、天皇機関説運動の全国的な広がりを紹介しており、
なにより解説に 「 最後の一言この報導は核心社同人の厚意ある助援に負ふ 」 と付記されていることは、
両者の良好な関係あってこそであろう。
こうした関係の深まりは、相澤事件の 「 公判闘爭 」 にも影響を与えた。
憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部將校ノ動靜概況  其十四 」 には、
十月末に西田、磯部、村中らによって 「 公判闘爭 」 の相談がなされていたとされ、
その目的も併記されている。

直心道場ヲ中心トスル
大森一声、澁川善助、磯部浅一、村中孝次、西田税、大蔵大尉
等ハ十月二十七日頃本郷三丁目源來園ニ於テ相澤中佐公判闘爭ニ關スル秘密會合ヲ催シタル趣ニシテ
協議内容次ノ如シト
①  テロノ脅威ヲ以テ効果的ニ運動繼續
②  統制派ノ中央進出阻止
③  公開裁判ノ絶對的獲得 ・・< 註 65 ・・・『 二 ・二六事件 = 研究資料 』 Ⅲ  186頁 >
その後も  『 核心 』 と 『 皇魂 』 の双方を通じて、相澤支援が呼びかけられていった。
『 皇魂 』 二巻一五号 ( 1935年12月20日 ) 掲載の北満第一線皇軍将校有志 「 御統帥の×××相澤三郎中佐 」、
×××尉 「 相澤三郎中佐を偲ぶの侭 」 でも相澤への共感が綴られている。
また、先の末松の回想でも言及されていた 『 相澤中佐の片影 』 ( 1936年2月10日 ) 刊行によって、
国民に広くこの問題を訴えることも考えられた。
本の編纂準備にあたったのは和歌山の大岸だったとされ、
ここに末松は 「 相澤公判に關するかぎり、東京と和歌山の歩調の一致を物語るもの 」 ・・< 註 66 ・・・『 私の昭和史 』 247頁 >
として、東京と和歌山との共闘を見出している。
しかし、ここで末松のいう 「 かぎり 」 とはどういう意味だろうか。
同時期に、相澤公判 ( 1936年1月28日開始 ) によって、事件の意義を文書戦で明らかにし、
相澤支援の動きを昭和維新運動に結びつけていこうという動きが起きていた。
しかし、それとは異なり、蹶起に向けた動きも同時期に起っていた。
実際、公判は第六回 ( 2月12日) になると公開禁止となり、
公判闘争が暗礁に乗り上げたこともこの動きに拍車をかけたと思われる。
つまり、末松は、蹶起、すなわち二 ・二六事件に至る動きにおいて、
東京と和歌山の共闘があったわけではなかったことを述べている。
そして、もうひとつ考えられる背景として、
東京と和歌山における思想的な距離がこの時期においても変わったわけではなかったことがある。
いや、相澤事件後に両者の提携が進むなかでも、大岸の思想は北の改造法案とはますます離れていった。
その最大の点は、政治、経済、社会の改造、また国家機構の改変といった具体的な話ではなく、
信仰の問題へ置き換えられていった点である。
これは 『 皇國維新法案 』 の地点よりもさらに突き進んでいる。
1935年9月、相澤事件の証人尋問で、大岸は自らの国家改造観を次のように述べている。

五問    證人ハ國家改造ノ必要ヲ認メテ居ルカ
答    私ガ見習士官頃カラ中尉ノ初頃マデハ専ラ國家本意ノ改造運動ヲ考ヘテ居リマシタ。
 ソシテ其ノ方面ノ研究ヲ致シマシタ。私ハ性格上研究的デアリマシテ没頭ノ気味ガアリマシタ。
中尉ノ初頃カラ所謂單ナル經濟、政治、社會機構第一主義ノ改造ガ
外交性ノモノデアルト云フ感ジガ起キテ參リマシタ。
ソシテ主トシテ頭ヲ古典的ナ文献ノ研究ニ向ケテ參リマシタ。
尤モ大キナ影響ヲ与ヘマシタノハ御歴代ノ御詔勅ト古事記デアリマシタ。
ソシテ古事記ノ修理固性ヲ深ク考ヘ初メマシタ処、
遂ニ神ト云フ様ナ感ニ發展シテ參リマシテ神佛ト云フ霊的ナ考ヘニ捕ハレマシテ、
遂ニ現人神陛下ガマシマスト云フ信仰ニ到達致シマシタ。
之ガ在來ノ單ナル所謂政治、社会、經濟機構第一主義ノ考ヘ方ニ決定的ナ判決ヲ与ヘマシタ。
此ノ判決ト申シマスノハ、所謂改造或ハ所謂維新ナルモノノ眞髄ハ
先ヅ第一ニ我々ガ現人神陛下ノ子デアリ赤子デアルト云フ自覺、
信仰デアルト云フ結論デアリマス。
七問    証人ノ懐抱セル國家改造ノ理想ト目的ハ如何
答    國家改造ト云フ事ハ臣下トシテ申上グベキ事デハナク、一ニ上御一人ノ御事ニ掛ツテ居ルト考ヘマシテ、
 我々赤子ガ眞ノ赤子トシテノ充實發展、換言シマスト天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スル事ニ邁進致シマスナラバ
必ズ御稜威ガ御盛シニナリマシテ、天下皆一人モ其ノ処ヲ得ザル者ナキ結果ニ到達スルト信ジマス。
從テ一般ニ云フ改造トカ維新トカ云フ辭ヲ以テシテハ、此ノ信念ハ十分表ハス事ハ出來マセヌ。
叙上ノ見地カラ眞ノ改造ハ眞ノ維新ト云フ字句ヲ鞏イテ使ヒマスナラバ、
天皇陛下、即チ日本國デ赤子ハ陛下ノ分身分霊デアリマシテ、
此ノ信仰ノ上ニ立ツテ其ノ曰曰ノ生活ヲ充實發展シテ行ク事ガ即チ維新デアリ、
改造デアルト信ジマス。・・< 註 67 ・・・『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅳ 匂坂資料 八 』 446、7頁 >

天皇という神への近接による霊的な維新が大岸を 「 所謂政治、社會、經濟機構第一主義ノ考ヘ方 」から
遠ざけた事が記されている。
大岸によれば、天皇信仰のもとに各人が己の生を全うすることこそ 「 維新 」 であった。
国家改造を担うのは天皇だけなのである。
むろん、皇道派青年将校の一部が目指すクーデターやテロとは遠くかけ離れたものになる。
この翌月、大岸には 『 皇政維新法案大綱 』 『 皇國維新法案 』 につづく、
第三期の改造案として 『 皇政原理の一考察 』 を発表した。
この論稿は、大岸によれば中村義明との合作であったという。

夫れから昨年皇魂社から 『 皇政原理の一考察 』 と云ふのを皇魂付録として出して居ります。
之は中村が作り私が筆を入れたものであります。
之は殆んど自分のものとなつたものを発表して居る考であります。
私の考は皇国維新が第二期、一考察が第三期の現在であります。
私は軍務と維新とを二元的に考へるのは間違て居る、直接行動に出づるが如きは
外来思想で、奉公そのものが維新だと思ふのであります。」
・・< 註 68・・・『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ 匂坂資料 六 』 399頁
 ここで大岸が 「 皇政維新 」 と述べているのは 「 皇国維新法案 」の記憶違いだろう。
この文章の前に 「 昭和八、九年に皇政維新と云ふものを書いて東京に行き、澁川善助に見せると、是非印刷したいと云ふ訳で、
小さな印刷物にしました 」 399頁 と述べているからである。>

これは 『 皇魂 』 1935年10月15日号の付録として発表されたものであった。
同号は未確認だが、幸い1937年に国体原理研究所という団体が復刻しているので、
これを見ていきたい。
構成は以下のようになる。

総説
天皇
一  天皇即現人神
一  天皇親政
一  親裁ト マツロヒ
一  生産ト天壌無窮
一  天皇即至親
一  天皇ト國體
政治の原理
一  歪曲せられたる政治理念
(イ)  法治思想
(ロ)  徳治思想
一  日本政治道の規範
一 祭即政

『 皇政原理の一考察 』 のすべてが復刻されたのかという疑問は残るものの、
『 皇國維新法案 』 とは異なり、
国際関係、「 亜細亜聯盟 」 の主張、制度改造論が一切省かれているのが特徴である。
その内容をまとめれば、
天皇親裁 ( シラス ) と それに相即する人民の輔弼 ( マツロヒ ) が記されたものとなる。
前者の天皇親裁では、天皇は現人神であり、国体であり、「 至親 」 であり、
その 「 親裁 ( シラス ) の希求が説かれている。
後者の人民の輔弼では、「 欧米流 」 で 「 力 」 に依拠する 「 法治思想 」、
「 支那 」 に発する 「 徳治思想 」 をいずれも批判し、
「 日本の政治道の規範 」 として 「 神への融合参加 」
( それは 「 無私、没我の敬虔なる折の大乗犠牲心、( 幸福感との一致 ) に立脚する 」ことにつながる )
すべきだと説く。
それゆえに、「 祭即政 」 ということになる。

・・・・「 マツリゴト 」 は実に 「 現人神 」 ( 宇宙心、絶対力 ) への 「 マツロヒ 」
即ち神人合一の実践たり君民一体、祭即政たり。
政治とは 「 マツリゴト 」 なり。
億兆一心の 「 マツロヒ 」 即ち天皇信仰の実践たり。
之れ実に生命発展の原理たる 「 生産 」 の原理 ・生成化育、国家民族の無窮なる生成発展の原理を含蓄せる至高の要義たり。

『 皇國維新法案 』 では、天皇は 「 祖神 」 の直系という位置付けだった。
今回は 「 顯現者 」 となる。
天皇にとって、シラスとは 「 皇祖神 」 への 「 尊崇帰一の御実践 」 である。
また、 『 皇國維新法案 』 では、天皇が神に対して 「 まつろひ 」 することも述べられていたが、
今回の 「 マツロヒ 」 では人民が現人神 ( つまり天皇 ) に対して行うものであることがとくに強調されている。
つまり、天皇の神格化がさらに推し進められた。
むろん、こうした思想上の変化は、現実の運動と関連づけられるべきものだった。
幡掛正浩が戦後の追悼文で評したように、大岸は 「 北、西田両氏の影響下にある青年将校の中に全身を投じ、
しかもその中から、尊皇絶対の方向へ同志の思想を正して行こうと心魂を傾け尽した人 」
・・< 註 69 ・・・幡掛正浩 「 私の大岸頼好 」 44頁  『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』 >
だったからである。
それゆえに、この大岸 ・中村、つまり皇魂社における信仰の深化はもとより、
こうした理論を改めて公にしたことは、国家改造運動に思わぬ影響を与えていった。
これについて、直心道場幹部の大森一声が戦後になって興味深い回想 ( 1971年 7月28日 ) をしている。

それは二月事件と相澤事件の間ごろだと思いますが、秋ごろでした。
十年の秋でしょうか、そのころに私の道場に集まったのです。
皇魂派は、菅波もたしか満洲から来たと思います。
菅波、大岸、中村 こちら側は大蔵栄一、村中、磯部、末松太平、澁川、西田、
私のほうから西郷と私、あるいは加藤春海、福井幸もいたかも知れません。
それらが談合したのです。
談合した結果は、これは面白い議論になったのですが、
改造法案というものは、一時一句訂正を許さないものかという議論がでたのです。
・・・・
大分激しい議論になりましたけれども、結局こういうことになったのです。
改造法案はどうあるべきか。
ここで抽象的な議論をしてもしようがない。
具体的に政治はこう、経済はこう、教育はこう  というふうに、両方で具体的に案をだそうではないか。
それから外地の軍人たちに分裂しているという印象を与えないためには、
「 皇魂 」 という雑誌と 「 核心 」 という雑誌を、おのおのその責任分野を決めようじゃないか。
「 皇魂 」 は大衆啓蒙に、「核心 」 は理論誌にするということにそのとき申し合わせたのです。
そういふような編集方針で両方併行していく。
できるならば 「 皇魂 」 は新聞紙にして、
うんとだして配布するということにしてもらいたいということに話合いがなったのです。
そして何ケ月か後に、改造法案の草稿をもちよって、これを検討しようということになったのです。
ところが大岸頼好が協定違反をしたのです。
大岸頼好がやったのか、中村義明がやったかわかりませんけれども
「 皇國維新法案 」 というものをつくって、
われわれに相談なしに突如発表しちゃったのです。
そこで西田関係の青年将校は憤慨したわけです。
これは約束違反じゃないか。
せっかく決めたものを何故ぬきうちにやるか。
それならおれのほうもということになつたのです。
それが 『 大眼目 』 という新聞がでた原因なのです。
『 大眼目 』 を西田が出すとあたりさわりがありますので、福井幸という、これを編集署名人にして、『 大眼目 』 をだしたのです。
これに相澤事件の公判記録をどんどん載せて、ばらまいたのです。
完全にそこで皇魂派と西田派、いわゆる皇道派の青年将校とは分裂しちゃったのです。
・・< 註 70 ・・・『 大森曹玄 ( 一声 ) 氏談話速記録 』 40頁 1頁 1971年 内政史研究会 >

右記に 「 皇國維新法案 」 が登場しているが、その発行は1934年 ( 昭和9年 ) 4月頃、
しかも、『 皇魂 』 創刊 ( 同年八月 ) の前なので、大森の記憶違いであろう。
『 大眼目 』 創刊は1935年 ( 昭和10年 ) 11月だからなおさらである。
したがって、彼が指したものが 「 皇政原理の一考察 」 ( 同年10月15日発行 ) だと時期的に合致する。
これの発表が西田派の青年将校に物議を醸したことは、
中村義明が憲兵調書で
「 皇政原理の一考察について、そう勝手にこんな重大な意見を発表されては困ると云ふ話が出ました 」
・・< 註71 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 二巻 29頁 >
と述べていることが裏付けている。
その後、澁川善助らによって 『 核心 』 と 『 皇魂 』 『 皇民新聞 』 合同の編集委員の設置と会合の開催が呼びかけられたが、
中村義明はかたくなに参加を拒み、『 皇民新聞 』も 11月25日号をもって廃刊したという。
こうして、二つの皇道派は思想の溝が埋まらぬまま、二 ・二六事件へと至ることになった。

次頁  おわりに  に 続く


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