緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

マイケル・バークリー作曲「ウォーリー・ビーズ(Worry Beads)」を聴く

2018-05-05 23:12:18 | ギター
9連休も残すところあと1日となってしまった。
今日もマンドリン合奏の練習に明け暮れた。
合同練習以外は1人合宿のようなものだった。
明日も同じような日になるだろう。

気分転換はやはり音楽を聴くことと、記事を書くこと。
ギター曲で何かいい曲がないか、楽譜の束の中からだいぶ以前に買った輸入楽譜が出てきた。
マイケル・バークリー作曲の「ウォーリー・ビーズ(Worry Beads)」という曲。
1979年5月作曲とある。





楽譜を買ったはいいが、最初の出だしだけ弾いてそれっきりだった。
この曲がもしかするとYoutubeであるかもしれなと思って探し見たら、1件だけヒットした。
しかしエレキギターでの演奏。
原曲はクラシック・ギターのための曲である。

Michael Berkeley


マイケル・バークリー(Michael Berkeley)はイギリスの作曲家で1948年生まれ。
ジュリアン・ブリームと親交があるらしく、彼のためにギター曲をいくつか作曲している。
しかしブリームの録音でソナチネとか主題と変奏で有名なレノックス・バークリーとは別人である。

マイケル・バークリーのギター曲で最も有名なのは、ジュリアン・ブリームとジミー・バーネットのために書かれた「一楽章のソナタ」という曲。



この曲についてはいつか記事にしたことがあるが、初めて聴いたのが大学生の時。
1984年頃だったと思う。
兄がFMラジオから録音した第36回エジンバラ音楽祭のライブ録音だった。
演奏は勿論ジュリアン・ブリームで初演だったと思われる。
この曲は無調の現代音楽の部類に属するものだが、現代音楽にありがちな難解さはあまりなく、ところどころユーモア感を感じさせてくれる親しみやすい曲である。
この曲を大学生の夏休みだっただろうか、毎日のように何度も聴いた。
とにかくブリームの演奏が物凄く上手く、完璧だった。決して大袈裟でなく超名演だと思う。
ブリームが交通事故に会う前の最盛期の演奏だったと思う。
このライブ演奏の録音カセットは兄からこっそり借りて今自分の手元にある。

この「一楽章のソナタ」の印象が強烈だったので、その後マイケル・バークリーのギター曲を探したのだと思う。
今手元にあるのは「一楽章のソナタ」の他、今回紹介する「ウォーリー・ビーズ(Worry Beads)」と「即興曲(Impromptu)」の3曲だ。
下の楽譜は「即興曲(Impromptu)」



「ウォーリー・ビーズ(Worry Beads)」の全曲を今日初めてYoutubeのエレキギターによる演奏で聴いてみた。
ウォーリー・ビーズを日本語に訳すと「数珠」というらしい。
「数珠」からどんなインスピレーションを得たのか。
ちょっと寂しい出だしから始まる。
中間部の2回目のPiu mossoに入る直前の6連符の連続は、数珠の何かの連想と思われる。
Piu mossoから長調に転調する。
しばらくすると「一楽章のソナタ」で聴いたのと似たフレーズが出てくる。
全体的に純粋なクラシック曲らしからぬ所があり、軽音楽的な雰囲気が感じられなくもないが、今まで聴いたクラシックギター曲にな無いものを持っていると思った。

このYoutubeのエレキギターの奏者はクラシック奏法そのものだ。
とても上手い。
右手はピックを使わず(ピックでは絶対に弾けないだろうが)、クラシックギターのタッチ、ネックが細いから親指がちょっとはみ出している以外は左手の押さえや動きもクラシックギターと変わらない。
元々クラシックギター奏者なのだろう。
楽譜にも極めて忠実な演奏をしている。

数珠との関係が気になるが、深く考えることなく気軽に聴ける曲だった。

【追記】
オグデンというギタリスト(吉松隆のギター協奏曲「天馬効果」を録音している)がマイケル・バークリーのギター曲集のCDを出している。

「一楽章のソナタ」については後日ちゃんと紹介しようと思う。
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右手の運指と脳の知覚

2018-05-04 22:55:13 | マンドリン合奏
9連休も残すところあと2日となった。
9連休の殆どをマンドリン合奏の練習に充てているが、今日は気分転換に東京に出て楽器店でも覗いてみようと考えていた。
しかしやはり練習が優先だと思い直した。
演奏会は人生でそんなに体験できるものではない。
大学卒業以来、独奏だけやってきた自分が得ることのできた貴重な機会。
ここは本番まで最大限の練習をしようと気持ちを切り替えた。

まず曲の難所の練習から始める。
技巧的に最も難しい曲の中の難所のフレーズを抜き出して、練習する。
このフレーズは成功率が自宅での練習時には7割くらい、合同練習では緊張のせいかもっと下がる。
指が動かないというわけではないのだが、弾くべき弦に指が当たらなかったり、途中で止まってしまうことがある。
漫然と練習しても意味がないと思い、何故上手くいかないのか自分なりに分析してみることにした。

難所のフレーズの譜例は下記でAとBとがある。



速度はアレグロ。
左手と右手の運指は自分で考えて付けたもの(マンドリン合奏の譜面には全く運指が付いていないか、付いていてもごくわずかなのが普通)。

右手の運指は出来るだけ逆指にならないようにしている。
右指の動きは、低音弦から高音弦に渡る際(上昇)に、i→mの順、高音弦から低音弦に渡る際に(下降)、m→iの順になるのが自然だ。
この右指の動きが逆になると、これを逆指というが、慣れない指の動きを感じ、ミスタッチの確率が増える。
この原因はiとmの指の長さの違いによると考えられる。

また右手は同じ指を続けて使わないというルールがある。
そういえば、イエペスが未だ若かった頃、キジ侯爵の主催する講習会でセゴビアのレッスンを受けたとき、イエペスが音質の統一性の要求から同じ指を使った運指を取り入れていたのをセゴビアから注意され、大喧嘩となり、嫌気がさしたイエペスが講習会の終了を待たずに途中で去ってしまったとの逸話を聞いたことがあった。

譜例Aの2小節目を、私は一つの塊と認識し、連続して一気に弾くことを考えて練習していた。
ミスするのはだいたいが2拍目裏のファ#で、ここは④弦で弾くのであるが、③弦に爪が当たってしまうことがあった。
成功しても何か右指がふあふあと宙に浮いたような感覚、すなわちたまたままぐれで上手くいったような不確実性を感じていた。
何故上手くいかないのか、ちょっと考えてみた。
分析の結果、このフレーズを一気に弾こうとしているからではないかと思うようになった。
つまり脳がここは一気に弾かなければならないんだよと認識してしまっているのである。
指の動きが脳の認識についていってないのである。

そこで、このフレーズの2小節目を写真の赤枠の①~③に分割して、指の動きを見ることにした。
まず、①のミ音は単独で弾く場合は全く問題ない。
ただ音を1音弾くだけである。
次に②であるがこれも④弦上で、2指から4指へ動かすだけで難しいことは全く無い。
次に③も、③弦から②弦に渡るものの、i→mの順番であり逆指になっていないので全く支障はない。
このようにフレーズを3つに分解してパーツ化してみると、それぞれパーツの指の動きは全くミスをするような要因は考えられなかった。
次に2拍目の②と3拍目の③を連続して、すなわち②+③で弾くことを試みてみた。
これは最初から速い速度で弾こうと脳が認識すると、パターンA全体を弾くほどでないにしても、1割くらいの頻度でミスが出た。
そこで少し速度を落とし、i指に意識を集中し、②と③のパーツが順に連続して弾かれるように意識してみた。
つまり単体練習で行った②の動きと、同じく単体練習で行った③の動きを意識し、②と③のパーツを間を置かず順番に弾くことを脳に教えてみたのである。
すると速度を速めてもミスする確率はゼロとなった。

次に、①と②+③の連続である。
これをアレグロの速さでまずやってみた。
するとまた元のように2拍目裏のファ#の音を③弦でタッチするというパターンが何度か生じた。
原因は1拍目のミ音を弾いたときに、脳が以前のミスタッチしやすいパターンの回路にスイッチを入れ、それが無意識に実行されているのではないかと思われた。
そこで、1拍目のミ音を弾いたとき、直ぐに②+③のパーツに移るのではなく、少し間を置いて、②+③の単体練習を行った時に作られた脳の回路にスイッチが入るのを待ってから弾いてみたら、ミスタッチが無くなった。
キーポイントは1拍目のミ音を弾いた直後の脳の指令である。
脳の回路を②+③の単体練習の時のものにスイッチが入るよう、あとはガムシャラに練習して、ミ音を弾いてからあとは間を置かずにできるよう新しい回路を作るのみである。
自動車の運転にしても何にしても新しい運動を行う際は、いちいち意識が脳に指令を与えなければならないが、反復練習で回路が出来上がると意識せずとも潜在意識がそれを実行することは良く知られたことである。

次に譜例Bあるが、これも譜例Aの応用だ。
つまり1小節目を①と②のパーツに分けるのである。
①は特段問題ない。
②はi→mよりも、m→iのほうが単体としては弾きやすいが、前後を考え合わせるとi→mとならざるを得ない。
このパターンBのキーポイントは②の動きである。
①と②を一気に塊のようにやろうとするから、②で止まってしまっていたのである。
②はちょっと慣れない指の動きだ。
そこでパターンAと同じように①と②を単体で別個で練習し、①のパーツの動きが終った後に間を置かずに②のパーツの動きが実行されるように脳に指令を与え、これが無意識でも確実に実行されるよう新しい回路が出来上がるように練習することにした。

これらの訓練を毎日実行し、1週間後の合同練習での成果を確認したいと思っている。

今日の午後は、昨日の合同練習での練習音源を聴き、午前の指揮者が特に強く注意していた箇所のおさらいをした。
自分はもちろんのこと、かなりの方が技巧が未だ完全に出来上がっていないから弾くだけで精一杯であり、だから走ってしまったり、逆に遅くなってしまったりと、音楽的要求になかなか応えられていないのかもしれないと思った。
指揮者からするととてももどかしいのかもしれないが、とにかく技巧面を完全にマスターし、指揮者の要求する音楽的表現を余裕を持って受け入れるように頑張りたい。
本番まであと2週間。
納得のいく結果になれるよう持っていきたい。
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フェデリコ・モンポウ作曲「風景」(Paisajes )を聴く

2018-05-03 22:35:45 | ピアノ
今日は朝から東京でマンドリン合奏の練習があった。
演奏会まで2週間ほどとなったが、管楽器、パーカッション、ナレーションなど賛助の方の参加率が少なく、大丈夫だろうかという気がした。
ゴールデンウイークに入ってから、演奏会のための練習にかなりの時間を当てた。
こういう休日でないと満足に練習できないこともある。
技巧的にはほぼ完成といったところではあったが、今日の練習では午前の指揮者から厳しい指摘が相次ぎ気が引き締まる。
技巧的な完成度が完全なレベルに到達して初めて指揮者の要求に応えられるのだと痛感する。
音楽表現を意識すると練習で弾けていた箇所がもつれてミスタッチした。
音楽を演奏するって本当に難しいし、奥が深い。
求めるとどこまでも際限が無いと言う感じだ。
次の練習まで10日ほどだが、指揮者の求める音楽表現をどこまで実現できるか。
練習時間の捻出が課題であるが、あまり家に閉じこもって練習ばかりというのも効率が悪いのも事実。
明日は9連休のうちのちょとしたリフレッシュに当てたい。

今日の合奏練習の昼休みにピアノの弾く音が聴こえてきた。
ベースの女性の方が弾いているのであろうか。
ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」の出だしであった。
ピアノの音を聴くとすぐに反応する。
ピアノの音はギターと同じくらい敏感だ。
ピアノのどんな微妙な音の違いも識別できる。
何でだろう。
幼い頃から家で弾く姉のピアノを聴いて育ったからか。
父の勤め先の宿舎、それは4階建ての公団と同じ造りの粗末な2DKの住居であったが、夕方に遊び終り家の前まで来たときに、姉の弾くピアノの音が流れていたのを思い出す。
この時どんな曲だったかも概ね憶えている。
初めて家にピアノのが運びこまれたことを今でもはっきりと憶えている。
姉が中学2年生時に発表会の練習をしていた時、宿舎の上の階の人から嫌がらせの電話があった。
私よりも何十倍も気の強い姉が泣いていた。
姉はそのことがあってからピアノを辞めた。
再開したのは大学生になってからだったであろうか。
姉は大学を出たのに調律師になりたいと言って、ピアノ工場に弟子入りした。
そして念願の調律師になった(今は調律の仕事はせずに英語教室をやっているが)。

マンドリン合奏の練習が終わってまっすぐ家に帰る。
メンバーの一人から飲み会にどうかかと言われたが、参加しそうな人が4名くいらいしかいないので、今回はやめた。
ギターパートだけで20数名いるのに、あまり練習後の親睦はさかんでないようだ。
しかし次回の練習は土曜日なので参加しようかと思う。
せっかく機会、人と知り合うチャンスは活かしたい。
とくに音楽大好き人間とはもっと話したいと思う。

家に帰ってからどっと疲れが出た。
昨日寝たのが夜中の1時。
いつもの平日の睡眠時間と同じだ。
楽譜の書き直しをしなければならなかったので、夜遅くなってしまった。
昼休みのピアノの音を思い出し、そうだ、ピアノを久しぶりに聴こうと思った。
選んだのスペインの作曲家のフェデリコ・モンポウ。
モンポウのピアノ曲やギター曲のことはこれまでいくつか記事にしたが、今日聴いたのは「風景」(Paisajes )という曲。
マイナーな曲だ。
3曲の小品からなる曲。
第1曲「泉と鐘」は悲しい出だしから始まる。モンポウらしい音楽。
古風な感じもするが、中間部では神秘的な和声、それは鐘の響きなのあろうか。
第2曲「湖」の分散和音に混じる旋律は極めて美しい。
モンポウの自演の録音、彼が80歳を過ぎて録音されたものであるが、凄い演奏だ。
モンポウの録音では、アリシア・デ・ラローチャの演奏が知られているが、私はモンポウの自演を聴くべきだと思う。
この美しい音は、聴く者の心に鋭く入ってくる。
芯のあるタッチ。感情に満ちた音。
モンポウの音から学ぶものは本当にたくさんある。
このモンポウの音は私のギターの音の理想の目標とする音。
歌と踊り第2番の演奏を聴いた時に確信した。

今日、マンドリン合奏の練習で同じパートのギターの音がかなり雑に聴こえた。
ffで何であんなに強いタッチで割れた音を出すのだろう。
マンドリン合奏のギターパートの陥りやすい欠点だと思った。
そういう自分も負けじと同じように力がかなり入っていたので人のことを言う資格は無いが今後気を付けなければと思った。

全ての音楽の演奏で最も重要なのは音だと思う。



Federico Mompou Paisajes {Paysages}
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熊谷賢一作曲 マンドリンオーケストラのためのボカリーズⅥ「二つの春の歌」を聴く

2018-05-01 23:48:48 | マンドリン合奏
ゴールデンウイークも早くも4日経過した。
マンドリン合奏練習三昧だ。
楽譜をA4サイズからB4サイズに拡大コピーし、スクラップブックに貼り付け直す。
貼り直すのに2時間ほど費やした。
ど近眼なので、A4ザイズだと良く見えないのである。
明日は運指などの書き込みを入れなければならない。

さて今日、中央大学マンドリン倶楽部から6月2日に開催される第114回定期演奏会の葉書が届いていた。
曲目を見ると、第Ⅰ部に学生時代に演奏した、マスカーニの歌劇「仮面」序曲があった。
第Ⅱ部は2曲だったが、2曲とも何と藤掛廣幸の曲ではないか。
そのうちの1曲はあの「星空のコンチェルト」だ。
中央大学マンドリン倶楽部にしては珍しい選曲。
「星空のコンチェルト」は意外に難しい。
難しいというのは技巧的なものではなく、聴き手を本当に感動させるレベルの表現力のことである。
この曲もCDやYoutubeの録音、また母校を始めとする大学マンドリンオーケストラの生演奏など数多く聴いてきたが、今まで本当に感動するに値する演奏だと感じたのは藤掛廣幸の事務所から購入したCDのライブ演奏の録音しかない。
はたして中央大学マンドリン倶楽部はこの曲をどう仕上げてくるのか。
前回の冬の定期演奏会は平日開催だったため残念ながら聴きに行けなかったが、今回は土曜日のため、仕事が入らなければ聴きに行ける。
楽しみにしている。

今日の朝、熊谷賢一の曲を聴いた。
マンドリンオーケストラのためのボカリーズⅥ「二つの春の歌」という曲だ。
熊谷賢一の曲は壮大な大曲が多いのであるが、この曲はシンプルで短い。
演奏はプロムジカ・マンドリン・アンサンブルで1977年初演。
1977年というと、私がギターを始めた翌年だ。
今までの人生で最も楽しかった時代。
活気に溢れ、朝起きるのが楽しかった時代。
そういえばこの頃新聞配達をしていた。朝日がとてもきれいな日があった。
ピンク色の太陽だった。
勉強はさっぱりであったが、ギターに熱狂していたし、友達と良く遊んだ。
試験勉強は一夜漬け。
友達の家の庭にテントを張って、4人で試験勉強したことがあった(結局殆どしなかったけど)。

今日聴いた「二つの春の歌」という曲は、そんな1970年代の楽しかった時代を思い出させた。
凄く、瑞々しい生命の息吹が感じられる。

熊谷賢一の曲は、人の気持ちを前に押し出す力が感じられる。
熊谷賢一の曲を聴いていつも感じるのは「再生」という言葉。
「二つの春の歌」は表向き、春の生命の息吹、明るい外に向かおうとする開放感や躍動感を感じるのであるが、私にはその気持ちに至るまでの長い道のり、その道のりが決して平坦ではなかったことも同時に感じられるのである。
生れてからずっと幸福で、幸福感の中で春の季節を感じ取った気持ちとは全然違う気がする。
熊谷賢一の曲は、「樹の詩」のように、立ち上がれないほどのダメージを受けた存在を引き上げ、その対象に力強いエネルギーが注がれるかのような「再生力」が感じられる。
再生することが困難なくらいダメージを受けた存在に対する受容力、そして前に押し出し、鼓舞し、引っ張りあげようとする強いエネルギーが感じられる。

熊谷賢一は、もしかすると常にどん底やゼロからの「再生」を音楽表現のよりどころとしていたのではないか。
熊谷賢一が実際どんな人間であったか分からないが、曲を通して感じ取れるものからすると、人間という存在に対する理解力が深く、敏感な方だったのではないかと推測するのである。

この曲の演奏者であるプロムジカ・マンドリン・アンサンブルは小編成であるが、各パートの楽器の音が今と全然違う。
特にギターの音が素晴らしい。
太く力強く芯のある音。テクニックも凄いが。
作曲者の意図を汲んだエネルギーに満ちた清冽な音だ。
右手はこの時代のタッチだ。今の時代には殆ど聴けなくなった。
「樹の詩」の演奏で、冒頭からしばらくしてギター三連符が続く箇所があるが、その三連符がだんだん速度を増し、あの高揚した部分に入る直前に見せた、初演者のノートルダム清心女子短期大学のギターパートの強いエネルギーに満ちた音を思い出す。

ギターだけでなく、マンドリンの音も芯のある強い音だ。
冒頭のギターの三連符のアルペジオが印象的だが、全体に渡ってギターパートが主力となっている。
熊谷賢一がギターを実際に弾けたかわからないが、これほどのパート譜を書けるということは、相当のギター奏法の知見を持っていたと思わざるを得ない。
マンドリン・オーケストラの作曲家の中には、ギターパート譜が貧弱な方が多いが、熊谷賢一はギターのことを良く知っているし、最大限活かそうとしていることが分かる。

熊谷賢一:ボカリーズⅥ「二つの春の歌」
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