緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ハンス・シュミット=イッセルシュテットという指揮者

2022-02-04 23:25:33 | オーケストラ
「悲愴」の鑑賞を30数年振りに再開して2か月が経過した。
この間、毎日睡眠時間を削って「悲愴」を聴き続けた。CD、LPなどで100枚近くの音源を聴いた。
その結果、数多くの指揮者の演奏との出会いがあった。
カラヤン、バースタイン、クレンペラー、ベーム、小沢など素人でも知っている指揮者以外に初めて名前を聞く指揮者もたくさん出会うことができた。

同一の曲の聴き比べをしてはっきり言えることは、よく知られた誰でも知っている巨匠級の指揮者の演奏が必ずしも優れているとは限らないといこと。
本当に自分にとって最高の演奏を求めるのであれば、先入観を抜いて、まっさらな状態で演奏を聴き、自分の感情と向き合ってそこから大きなものを感じ取れる演奏を地道に探し出していくしかない。
埋もれていてなかなか表に流通していない録音もある。
しかし本当に、この曲は一生聴き続けるに値する、心底ほれ込んだ曲であれば貪欲に探し求めていいと思う。
金はかかるがその分他を削ればいいだけの話だ(安い服、安い酒、値引き商品・食物、燃料、電気製品など)。

前置きが長くなったがそんな中で出会った、あまり知られていない指揮者で悲愴に関してはこれは凄いと言える指揮者に出会った。
ハンス・シュミット=イッセルシュテット(Hans Schmidt-Isserstedt、1900年5月5日 ベルリン - 1973年5月28日)。

始めYoutubeで見つけたのだが、直感でなかなかいいと思って、ちゃんとCDを買って聴いてみようと思った。
聴いてみてびっくり。Youtubeと全く別物。音が全然違う。
やはりCDを買って正解だった。
Youtubeで演奏の良し悪しを判断するの全くのナンセンスだ。
Youtubeで聴いてから、良かったらCDを買うというのも邪道だ。いい演奏を見逃してしまう可能性大である。
はっきり言えることだが、Youtubeでは演奏の真価を見出すことは不可能だ。

横道に反れたが、ハンス・シュミット=イッセルシュテットの演奏は正攻法、オーソドックスでありながら、感情エネルギーが凄まじく表出されている部分もあるし、繊細な表現もされている。技巧レベルも高い。
そして驚いたことにアマゾンやヤフオクで録音を検索してみたら意外にその数が多いのだ。
名前はあまり知られていないけど、影の実力者という感じだ。
今回、30CDのBOXを中古で買った。これで数多くの交響曲などが聴ける。

ハンス・シュミット=イッセルシュテットの悲愴の録音は1954年と1960年の2種類(他に1965年もあるらしいが未確認)があるが、私は1960年の方が優れていると感じた。

ハンス・シュミット=イッセルシュテットの悲愴の第4楽章を聴くと、チャイコフスキーのどうすることも出来ないほどの心の苦しみがリアルに感じられる。
苦しくて苦しくて死んだ方がどんなに楽だろうか、という心の苦しみだ。
しかしチャイコフスキーはその一方で、希望、愛情、感動、至福感、躍動感といった感情もきっとどこかで体験している。
チャイコフスキーはこの「悲愴」で、彼がその人生で味わいつくしたこの様々な生々しい感情を音楽を手段に描きたいと思ったのではないか。
チャイコフスキーは、意外に肖像画や写真がたくさんある。
その目に注目したい。眼光鋭いけど澄んでいて、よく見ると優しく見える。
この目は大きな心の葛藤を解決した後で現れるような目の光のように思える。

彼は人生の最後の曲で、彼が今まで体感したどんな感情でも否定することなくありのままに表現したいと思ったに違いない。
でななければ第4楽章など書けるはずがない。
チャイコフスキーは人生の最後の最後で、自らの生き様を全て受け入れ、今まで味わいつくしたどんな感情でも真の意味で肯定することができたのではないかと感じるのである。





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