緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

回想

2019-08-13 22:12:51 | その他
8月初め、父が永眠した。享年89。
こういう私的なことを記事にすることについて異論はあるだろうが、自分の気持ちとしてはやはり書き留めておきたいと思った。

8月1日夜に北海道の実家にいる兄から父危篤の連絡を受けたが、翌日早朝に亡くなったことを告げられた。
昨年9月に起きた北海道東部地震の直後に体調を崩し、以来ずっと入院していたが、日に日に衰弱していき、亡くなる1か月前からは意識も殆どなかったという。
悔やまれるのは父の最後を家族が看取ることが出来なかったことと、金がかかってもいいからもっと見舞いに行くべきだったことだ。
父が独り寂しく旅立ったことを思うと心が痛む。

父は北海道の小さな漁港で生まれ育った。
父は無駄口をたたかない寡黙な人だった。
生前、父は自身が子供の頃や結婚する前の若い頃のことを殆ど口にしたことはなかった。
父の父親や母親がどんな人でどういう仕事をしていたかなど、自分から話すことも無かったし、私の方からも聞くことはなかった。
祖父の仕事を聞いたのは随分前、私が小学生か中学生の頃だったと思う。
その時母が何かの折に話してくれた。
私の古い記憶では漁業協同組合に勤めていたと聞いたのであるが、先日母にそれとなく確認したら、軍人を運ぶ船の船長だったと言う。
葬式で父の弟(故人)の奥さんに私の祖父は漁業協同組合に勤めていたのかと聞いたら、違うとの返事だったから、先日の母の言ったことが正しいのかもしれない。
父の母親についても、これも全くの偶然なのであるが、ある関係者と父が同席したとき、祖母が海女をやっていて、それは豪快な人で父が幼い頃に海に投げ込まれた(無論、泳ぎを覚えさせるため)ことを話しているのを直接聞いたことがあった。

私はカナヅチなので海にはあまり行かなかったが、母から父は泳ぎが達者で、体が丈夫な人なんだよ、とことある度に言われた。
父は戦後間も無く地元の旧制中学を卒業後、いったん地元に就職したが、1年後に転職し、札幌に出て地方公務員として45年間勤め上げた。
この転職した事実も葬式で初めて知った。
とにかく自分のことは殆ど何も言わない人だったから、こういう事実が後になって出てきて、そうだったのか、と思わずにはいられないのである。
父が母と出会ったきっかけも葬式で親戚から初めて聞かされてびっくりしたくらいだから。

私が子供の頃の父はちょっと怖い存在だった。
とっつきにくく、気軽に話せる人ではなかった。
私がいまだに人見知りするのは恐らく父の影響だろう。
父とあまりストレスなく話せるようになったのは、30代の終わりくらいからであろうか。
定年後の父はおおらかであったし、昔にくらべ会話の頻度も増えたように思う。
しかし父と話せるようになったのは、ここに記すことの出来ない、さまざまな積み重ねがあったことは間違いない。
親子関係って、子供が結婚したら卒業、というような幸福な関係もあるかもしれないけど、お互いに一生かかって築き上げていくものだと改めて感じさせるられるのである。
少なくとも私の場合はそうであった。
最初から完璧な父親などいない。
親から悪い影響も良い影響も受けるであろうが、長い人生の過程で、それが「事実」として受け止められるようになるにはそれなりに時間がかかるものである。

父は物凄く手先の器用な人だった。
私が小学校1年生の時だった思う。
父が私と兄を連れて、近くのミツヤというプラモデル屋に行き、帆船のプラモデルを初めて買ったのである。
この時のシーンは今でもはっきりと憶えている。
雪の積もった冬だった。
この帆船のプラモデルをきっかけに父は模型作りに熱中しだした。
夜中までシンナーの臭いを充満させて没頭していた。
そして小さな部品が無くなると大騒ぎしたものだった。
母がことあるごとに愚痴をこぼしていたことを思い出す。
この模型作りは私が中学1年生の頃まで続いたが、ある日、母と姉から「もう、やめて下さい」と強く言われて、それっきり作らなくなってしまった。
父は何も言わずに従った。
しかし内心は楽しみを奪われた寂しさを感じていたに違いない。
たいしてお金のかかる趣味でなかったのに。
父は物欲の少ない人だった。
だけど人生には満足していた。
これは私には到底真似のできない、凄いところだと思う。

父との思い出の中で、強烈に印象に残っているものが2つある。
1つは私が小学校5年生の時だった。
札幌の五番館というデパートに家族で買い物に行き、そのデパートの食堂で私は天ぷらそばとクリームソーダを食べたのであるが、その取り合わせが悪かったのか、食堂を出た直後に急に気分が悪くなり、戻してしまったのである。
これは自分にとってはとてもショックで、とても落ち込んでしまった。
デパートを出てたしか狸小路を歩いていた時だった思う。
兄が、「あんなところでゲロを吐きやがって」と私を責め立てたのである。
すると父が兄を叱りつけ、私に「何も気にすることはない」と言って、私の汚れた手をずっと握ってくれたのだ。
その時の父の暖かい手の感触、その時の光景は今でもはっきりと憶えている。

2つ目は、私が30代前半だった頃。
20代の時、私は心を壊し、その後遺症を治すために仕事以外の大半の時間とお金を費やしていた。
ある日広島まで行って治療を受けることになったのだが、姉が連絡してくれたのか父が広島まで行くと言い出して広島まで来てくれたのだ。
結局、その治療は上手くいかず、私は帰りの道中ずっと落胆しぱなっしだったのであるが、電車の向かい側に座っていた父をふと見たら、父が涙を流していたのだ。
父の涙を見たのはそれが最初で最後だった。
父は父なりに父親としての責任を感じていたのかもしれない。

父は、子供に「ああしろ、こおしろ」と言わない人だった。
勉強しろということも言われなかったし、将来何になるのかなども聞いてこなかった。
就職が決まっても、ああそうか、という感じだった。
私はずっとその無関心が不満だった。
父は不思議によその人のことをあれこれ悪口言ったり、責め立てたりもしない人だった。
よく新聞の読者投稿欄で、安倍総理などの政治家を大上段から責め立て、正論を吐く輩がいるが、そのような人物とは対極に位置する人間だった。
また、人に対する依存心から、思うようにならないことに不満をぶちまけることもなかった。
このような心理状態になるのは、自分の深層心理に自分が認めたくない現実があり、それを他人に見出して直面することを回避しようとしているわけなのだが、父にはその傾向が殆どなかった。
「合わせ鏡」とはよく言ったものである。
人間の悪いところも良いところも全て受け入れていたのではないか。

思うに父は誰に言うこともなく、淡々と心理的に幸福になる生き方を模索し、実現していったのではないかと思うのである。
父は年を重ねるごとに平安になっていった。
しかしとくに特別なことはしていなかった。
「自己実現」とか「成功哲学」といったものには全く関心を示さない人だった。
今もってどのようにしてそのようになっていかれたのか不思議だし、今思えば聞きたいくらいだ。

父が何故、いろいろ口に出して言わなかったのか。
その理由が今になって分かるような気がする。
口に出さなくても、人の気持ちや生き方は十分に伝わると思っていたのかもしれない。
いや、そういうことも特別意識していなかったに違いない。

父は自己に忠実に生きて、人生を全うした。
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