10月7日に放映されたNコン高等学校の部、全国大会の録画を少しずつ見てきたが、今日、やっと全ての出場校の演奏を聴き終えた。
もっともテレビの録画なので音は悪く、とても鑑賞できるレベルではないので、後でNコンのホームページで録画が公開されたときにじっくり聴かせてもらって、その後で感想などを記事にあげることにした。
今回の出場校の演奏を聴いていて、何かここ10年くらい続いてきた演奏スタイルとは変わってきたなと感じた。
演奏者たちの姿を見て、画面からものすごいエネルギーの放射を感じて強い感情が湧き出してきた学校がいくつかあった。
上手く歌うこと、評価されることよりも、そのようなことを超えて、音楽と完全に一体化し、歌う喜びを心から無心に表現することを実現させているようにも感じた。
出場校のうち、学校名は忘れたが、谷川俊太郎の「やわらかいいのち」という詩を歌った学校があった。
画面の字幕に「存在意義を失ったひとたちのために」という言葉が書かれていたような気がする。
ネットで調べたら、歌詞を紹介したサイトがいくつかあった。
著作権に触れるだろうが、ちょっとここに記載させてもらいたい。
あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
たとえあなたが人生を憎むとしても
自分自身を憎むとしても
あなたは降りしきる雨に愛される
微風(そよかぜ)にゆれる野花に
えたいの知れぬ恐ろしい夢に
柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
何故ならあなたはひとつのいのち
どんなに否定しようと思っても
生きようともがきつづけるひとつのいのち
すべての硬く冷たいものの中で
なおにじみなおあふれなお流れやまぬやわらかいいのちだからだ
「すべての人を憎む」、「人生を憎む」、「自分自身を憎む」という言葉があるが、これって私が20代前半から30年くらいづっと続けてきたことなのだ。
谷川氏はそれにもかかわらず、「あなたは愛される」と説く。
これは自分の体験からしても人間の真理を表していると思っている。
「どんな人間も生まれながらにして、その存在そのものに等しく価値がある」
「存在するだけで」素晴らしいものなのだ。
何が出来るとか、出来ないとか、豊かであるか、貧しいとか、そのような比較の及ばない世界であると言える。
「存在することの価値」に気が付いていない人は、他人からの拒絶、孤立、低く評価されたり、見下されることを恐れる。
常に自分と他人を比較し、良好な人間関係を維持しようと気を使い、一方で認めてもらう、評価してもらうことを求める。
私も今では少しずつ抜け出してきたが、このような生き方をしてきたように思う。
「自分の存在」そのもの、優れているとか、裕福だとかといった二極的価値観ではなく、どのような自分であっても価値を感じることの出来る人は、自分の内面の深いところから湧きがる本当の気持ちに忠実に生きている人と言える。言い換えると自己実現出来ている人と言えるだろう。
自分の存在価値を見失っている人は、自分の本当の気持ちも分からなくなってしまっているのではないか。
自分を他人と比較し、出来ないこと、足りないこと、無いものを劣っていると受け止め、自分を否定する。自分を無価値とジャッチする。
自分を否定すると、他人の評価、リアクションで自分を都度評価するような生き方をするようになる。
「他人から嫌われないで認めてもらう」ことが全て、というような生き方に全てのエネルギーを投入する生き方になるのではないか。辛い生き方だ。
そしてそれが加速すると、先の詩のように「自分自身を憎む」→「人生を憎む」→「すべての人を憎む」という人生を歩むようになっていく。
どこで生き方を間違えたのであろうか。誰との関係でそのような生き方を選択するまでに影響を受けたのだろうか。
自分が不幸な生き方を自ら選択し、無意識にその生き方を継続させてきたことに気が付くことがまず必要となるに違いない。
気が付かないと一生不幸なまま人生を終えることになるであろう。
這い上がるには、何重にもこんがらがって強固に絡まってしまった糸を試行錯誤しながら少しずつほどいていくような作業が必要となる。
どんな小さな炎であっても、自分の心の奥底に本当の気持ちを感じることが出来れば、暗く長いトンネルの出口を見出すことができる。
そして「生まれながらにある本来の自分の存在価値」というものが、どんなに自分を嫌おうが、憎もうが、否定しようが、変わらず自分の中にあることに気が付く。
「存在」というものは他人からも自分からも決して傷つけられるものではない、ということが実感として理解できたとき、はじめて「人の愛」を感じられるようになり、自己実現のスタート台に立ったといえる。
もっともテレビの録画なので音は悪く、とても鑑賞できるレベルではないので、後でNコンのホームページで録画が公開されたときにじっくり聴かせてもらって、その後で感想などを記事にあげることにした。
今回の出場校の演奏を聴いていて、何かここ10年くらい続いてきた演奏スタイルとは変わってきたなと感じた。
演奏者たちの姿を見て、画面からものすごいエネルギーの放射を感じて強い感情が湧き出してきた学校がいくつかあった。
上手く歌うこと、評価されることよりも、そのようなことを超えて、音楽と完全に一体化し、歌う喜びを心から無心に表現することを実現させているようにも感じた。
出場校のうち、学校名は忘れたが、谷川俊太郎の「やわらかいいのち」という詩を歌った学校があった。
画面の字幕に「存在意義を失ったひとたちのために」という言葉が書かれていたような気がする。
ネットで調べたら、歌詞を紹介したサイトがいくつかあった。
著作権に触れるだろうが、ちょっとここに記載させてもらいたい。
あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
たとえあなたが人生を憎むとしても
自分自身を憎むとしても
あなたは降りしきる雨に愛される
微風(そよかぜ)にゆれる野花に
えたいの知れぬ恐ろしい夢に
柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
何故ならあなたはひとつのいのち
どんなに否定しようと思っても
生きようともがきつづけるひとつのいのち
すべての硬く冷たいものの中で
なおにじみなおあふれなお流れやまぬやわらかいいのちだからだ
「すべての人を憎む」、「人生を憎む」、「自分自身を憎む」という言葉があるが、これって私が20代前半から30年くらいづっと続けてきたことなのだ。
谷川氏はそれにもかかわらず、「あなたは愛される」と説く。
これは自分の体験からしても人間の真理を表していると思っている。
「どんな人間も生まれながらにして、その存在そのものに等しく価値がある」
「存在するだけで」素晴らしいものなのだ。
何が出来るとか、出来ないとか、豊かであるか、貧しいとか、そのような比較の及ばない世界であると言える。
「存在することの価値」に気が付いていない人は、他人からの拒絶、孤立、低く評価されたり、見下されることを恐れる。
常に自分と他人を比較し、良好な人間関係を維持しようと気を使い、一方で認めてもらう、評価してもらうことを求める。
私も今では少しずつ抜け出してきたが、このような生き方をしてきたように思う。
「自分の存在」そのもの、優れているとか、裕福だとかといった二極的価値観ではなく、どのような自分であっても価値を感じることの出来る人は、自分の内面の深いところから湧きがる本当の気持ちに忠実に生きている人と言える。言い換えると自己実現出来ている人と言えるだろう。
自分の存在価値を見失っている人は、自分の本当の気持ちも分からなくなってしまっているのではないか。
自分を他人と比較し、出来ないこと、足りないこと、無いものを劣っていると受け止め、自分を否定する。自分を無価値とジャッチする。
自分を否定すると、他人の評価、リアクションで自分を都度評価するような生き方をするようになる。
「他人から嫌われないで認めてもらう」ことが全て、というような生き方に全てのエネルギーを投入する生き方になるのではないか。辛い生き方だ。
そしてそれが加速すると、先の詩のように「自分自身を憎む」→「人生を憎む」→「すべての人を憎む」という人生を歩むようになっていく。
どこで生き方を間違えたのであろうか。誰との関係でそのような生き方を選択するまでに影響を受けたのだろうか。
自分が不幸な生き方を自ら選択し、無意識にその生き方を継続させてきたことに気が付くことがまず必要となるに違いない。
気が付かないと一生不幸なまま人生を終えることになるであろう。
這い上がるには、何重にもこんがらがって強固に絡まってしまった糸を試行錯誤しながら少しずつほどいていくような作業が必要となる。
どんな小さな炎であっても、自分の心の奥底に本当の気持ちを感じることが出来れば、暗く長いトンネルの出口を見出すことができる。
そして「生まれながらにある本来の自分の存在価値」というものが、どんなに自分を嫌おうが、憎もうが、否定しようが、変わらず自分の中にあることに気が付く。
「存在」というものは他人からも自分からも決して傷つけられるものではない、ということが実感として理解できたとき、はじめて「人の愛」を感じられるようになり、自己実現のスタート台に立ったといえる。