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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

「存在することの価値」に気が付くということ

2023-10-19 23:09:30 | 心理
10月7日に放映されたNコン高等学校の部、全国大会の録画を少しずつ見てきたが、今日、やっと全ての出場校の演奏を聴き終えた。
もっともテレビの録画なので音は悪く、とても鑑賞できるレベルではないので、後でNコンのホームページで録画が公開されたときにじっくり聴かせてもらって、その後で感想などを記事にあげることにした。

今回の出場校の演奏を聴いていて、何かここ10年くらい続いてきた演奏スタイルとは変わってきたなと感じた。
演奏者たちの姿を見て、画面からものすごいエネルギーの放射を感じて強い感情が湧き出してきた学校がいくつかあった。
上手く歌うこと、評価されることよりも、そのようなことを超えて、音楽と完全に一体化し、歌う喜びを心から無心に表現することを実現させているようにも感じた。

出場校のうち、学校名は忘れたが、谷川俊太郎の「やわらかいいのち」という詩を歌った学校があった。
画面の字幕に「存在意義を失ったひとたちのために」という言葉が書かれていたような気がする。

ネットで調べたら、歌詞を紹介したサイトがいくつかあった。
著作権に触れるだろうが、ちょっとここに記載させてもらいたい。

あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
たとえあなたが人生を憎むとしても
自分自身を憎むとしても
あなたは降りしきる雨に愛される
微風(そよかぜ)にゆれる野花に
えたいの知れぬ恐ろしい夢に
柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
何故ならあなたはひとつのいのち
どんなに否定しようと思っても
生きようともがきつづけるひとつのいのち
すべての硬く冷たいものの中で
なおにじみなおあふれなお流れやまぬやわらかいいのちだからだ

「すべての人を憎む」、「人生を憎む」、「自分自身を憎む」という言葉があるが、これって私が20代前半から30年くらいづっと続けてきたことなのだ。
谷川氏はそれにもかかわらず、「あなたは愛される」と説く。
これは自分の体験からしても人間の真理を表していると思っている。

「どんな人間も生まれながらにして、その存在そのものに等しく価値がある」
「存在するだけで」素晴らしいものなのだ。
何が出来るとか、出来ないとか、豊かであるか、貧しいとか、そのような比較の及ばない世界であると言える。

「存在することの価値」に気が付いていない人は、他人からの拒絶、孤立、低く評価されたり、見下されることを恐れる。
常に自分と他人を比較し、良好な人間関係を維持しようと気を使い、一方で認めてもらう、評価してもらうことを求める。
私も今では少しずつ抜け出してきたが、このような生き方をしてきたように思う。

「自分の存在」そのもの、優れているとか、裕福だとかといった二極的価値観ではなく、どのような自分であっても価値を感じることの出来る人は、自分の内面の深いところから湧きがる本当の気持ちに忠実に生きている人と言える。言い換えると自己実現出来ている人と言えるだろう。
自分の存在価値を見失っている人は、自分の本当の気持ちも分からなくなってしまっているのではないか。
自分を他人と比較し、出来ないこと、足りないこと、無いものを劣っていると受け止め、自分を否定する。自分を無価値とジャッチする。
自分を否定すると、他人の評価、リアクションで自分を都度評価するような生き方をするようになる。
「他人から嫌われないで認めてもらう」ことが全て、というような生き方に全てのエネルギーを投入する生き方になるのではないか。辛い生き方だ。

そしてそれが加速すると、先の詩のように「自分自身を憎む」→「人生を憎む」→「すべての人を憎む」という人生を歩むようになっていく。
どこで生き方を間違えたのであろうか。誰との関係でそのような生き方を選択するまでに影響を受けたのだろうか。
自分が不幸な生き方を自ら選択し、無意識にその生き方を継続させてきたことに気が付くことがまず必要となるに違いない。
気が付かないと一生不幸なまま人生を終えることになるであろう。
這い上がるには、何重にもこんがらがって強固に絡まってしまった糸を試行錯誤しながら少しずつほどいていくような作業が必要となる。

どんな小さな炎であっても、自分の心の奥底に本当の気持ちを感じることが出来れば、暗く長いトンネルの出口を見出すことができる。
そして「生まれながらにある本来の自分の存在価値」というものが、どんなに自分を嫌おうが、憎もうが、否定しようが、変わらず自分の中にあることに気が付く。

「存在」というものは他人からも自分からも決して傷つけられるものではない、ということが実感として理解できたとき、はじめて「人の愛」を感じられるようになり、自己実現のスタート台に立ったといえる。
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心の苦しみの解決は損得勘定から生まれない

2023-09-17 00:31:08 | 心理
今日は7月から入った千葉の社会人マンドリンクラブの合奏練習に参加してきた。
20:30に練習が終わり、家に着いたのが23時を過ぎていた。遠いい~。

家に着いて遅い夕食を食べながら滅多に見ないNHK教育テレビにチャンネルを合わせた。
放送されていたのは、あるドキュメタリー番組だった。
途中から見たので詳しいいきさつは分からなかったが、引きこもりの方を支援するNPO法人や市役所の方々を取材した番組だった。
この番組を見て。心に苦しみを抱えたり、発達障害などの理由で社会で出られない人たちに対して、何とか自立して幸福に生きていけるようにサポートする方々の思いの強さに心打たれた。この方々の気持ちは本物だと感じた。

私は30年以上に渡って様々な心理療法を受け、数年前からは心理療法の講習も複数受講した。
残念ながら、これらの職業を担っている人の中には、クライアントの問題を解決出来ないのに、高額な料金を得て何とも思っていない方が少なからずいる、というのが現実だ。
表向きは悩める人の意欲的な解決を謳っているが、その一方で売上を上げることに熱心であり、心理療法をビジネスにしている点に特徴がある。
それゆえに、クライアントの獲得はまさに商業主義的な手法を駆使しており、いわゆる「落とす」という巧妙なやり方を採用していることに共通点がある。
クライアントは「溺れる者は藁をもつかむ」ということわざのとおり、誇大な宣伝文句や夢のような話に飛びつき、申し込みした時点でもうこの苦しみからおさらば出来ると舞い上がる。
私も今まで何度かこの手の方法で申し込み、失敗した経験がある。現実はそう甘くはない。

私の経験から考えると、心理療法をビジネスにしている人の療法を受けても、重度の心の問題は決して解決出来ないと思っている。
飛行機などの乗り物に乗れない、狭い場所にいるとパニックになる、といったような特定の問題は解決できるかもしれない。
しかし、対人を原因とする重い、複雑な心の問題は表面的、画一的、短期的な解決は不可能である。
重大な事件を起こした犯罪者を更生させるには膨大な年月を要すると言われている。更生出来ずに一生を終える犯罪者もたくさんいる。
しかし奇跡的に重大事件を起こした死刑囚が、生れ変わったように更生し、根源的な人間性を取り戻した方がいるという話を聞いたことがある。
恐らくであるが、この死刑囚に接し、サポートした人が、損得抜きに、というか損得とか利害とかが全く無縁の、純粋な人間の根源的な優しさを持ち、死刑囚がその優しさに触れるうちに、徐々に心を開き、自分のこれまでの悲惨な不幸であった人生を丸ごと受け入れ、無条件に肯定出来るようになったから変わることが出来たのだと思う。

重い心の苦しみを抱え、心理療法を受ける人も基本的に犯罪者の心の苦しみと根本的には変わらない。表への出方が犯罪という行為か、うつ病や対人恐怖といった心の苦しみの症状の違いがあるだけである。
すなわち、重い心の苦しみといった問題は、犯罪者の更生と同じく、膨大な時間と困難を伴うものなのである。
今日教育テレビで見た心の苦しみを抱えた方は、若くして肝硬変で亡くなったという。ある意味自殺に近い。
自殺する人は犯罪者と違って、心の傷から生じるウミを外に吐き出すことの出来なかった人たちである。
何故、ウミを吐き出すことが出来なかったのか。それは良心が強かったから。良心をどうしても捨てきれることの出来ない心の優しさと弱さがあったからである。
心の苦しみで自殺した人は、その「良心」を、人生の極限において、自らの命と引き換えに守り通そうとした人なのである。

私は心理療法を商業主義的なビジネスにしているような方に、重度の心の問題を解決できるのか、ということについてかなり疑問を抱いている。
売上を上げることを第一に考えているからである。だから心理療法の手法も画一化、手順化され、多くのクラウアントを獲得出来る汎用的なものにならざるを得ない。
このようなやり方に、人の純粋な本物の気持ちというものが存在する余地は極めて少ない。

死刑囚であろうが自殺する人であろうが、自分の心を自ら傷つけざるを得なかった苦しい不幸な生き様を直視し、それを無条件に受け入れ、優しく肯定できるようなれれば、人生のベクトルは必ず良い方向に向きを変えることが出来ると信じている。
そしてそのベクトルを変えることが出来るきっかけを与えることが出来るのは、案外、普通の人、いわゆる損得勘定や利害とは無縁の人の方が多い。
意外に、お金持ちでなく、社会的地位が高くなくても、素朴に質素に生きている人に優しい人が多い。
ベクトルが変換し始めると、そのような人たちが自然に発した無条件の優しさに徐々に気が付いていくに違いない。
そしてその何気ない優しさををシャワーのように浴びることで、心の苦しみは解決に向かうことが出来ると確信している。


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NLPによって対人恐怖症は改善されるのか(完)

2023-09-02 22:37:31 | 心理
これまで対人恐怖症についてテーマにした記事を連続11回で書いてきた。
心の苦しみの中でも、重い対人恐怖症というのは治すのが最も困難な領域のものだと思う。
いや「治す」という表現は適切ではない。
対人恐怖でもいいんだ、対人恐怖でもおかしくない、対人恐怖と自分の人格、自分の心の核となるものとは無関係だ、という心境になれるように願いたい。

今日、ブラタモリという番組を見ていたのだが、訪問先の町の案内役の方の対応、人との接し方があまりにも上手くて感心していたのだが、この時、もしこの案内役の中に重度の対人恐怖の方がいたとしたら、どうなるだろうということがふとひらめいた。
タモリさんと女性アナウンサーに向かって、目をパチパチさせ、話すことばはどもり、しどろもどろ、顔面がピクピク引きつり、言葉が出てくるまでに10秒くらかかり、額や頬におびただしい汗が滝のように流れていたとしたら、どう思うだろうか、ということだった。
その時私が思ったのは、この人は極めて人間らしい、人間くさい、それもなかなかお目にかかることのできない(いい意味での)魅力ある人物ではないか、と感じる人も意外に多いのではないかと思ったことだった。

人間、プラス面もあればマイナス面も同じくらい持っているのが本来的な姿であり、苦しむこと、悩むことも人間そのものだと思う。
人前で緊張する、震える、顔が引きつる、上手くしゃべれない、態度が頼りないなど、ちゃんと理由があって起きている状態を、情けない、はずかしいと受け止めて、それを克服すべくすさまじい努力を重ねるから回復不能になるまで心を病んでしまうのである。

以前、「神経症(こころの病とか、苦しみの総称)とは、神経症を治そうとする病気である」、「このままの自分でいけない、という気持ちがこのままではいけない現実を引き寄せる」ということを聴いたことがあった。
今ではこの言葉の意味することがよく分かる。

対人恐怖症者は対人恐怖感情が表に現れるがゆえに、その現れ方を異常に気にする。
その外に現れた状態を見て、人は様々な反応を示す。
面白がる人、マウントを取る人、攻撃して精神的利益を得ようとする人もいれば、特段、それがなんだと言う感じで、5秒後には忘れてしまう人もいるだろう。
一方で、理解してあげたい、フォローしてあげたい、助けてあげたいと思う心優しい人もいるだろう。
対人恐怖症者は表に出たものを否定する人物だけしか目に入らない。それ以外の人に対して盲目となっている。

対人恐怖は苦しいが、フランクルが言うように「苦しいけど意味のある人生」というとらえ方を出来るようになれればと思う。
対人恐怖を経験したことで、人間の隠された最も嫌な醜い側面、悪、狡猾さを身をもって知ることが出来たということだ。
見方を変えれば、人間心理の様々な側面を現実の体験をから知ることが出来た、という貴重な体験をしたのである。
それだけ、人間の心に対して誰より敏感な能力を身に付けることが出来たと言える。

人の人生って、例外なくプラスマイナスゼロとなるように出来ているような気がする。
「苦しいけど意味のある人生」が最後に実ることを信じたい。


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NLPによって対人恐怖症は改善されるのか(11)

2023-09-01 23:26:23 | 心理
(前回からの続き)

【最後に】

対人恐怖症の解決に取り組むこと、35年。
それまでの間、殆どブランクなく様々な心理療法を試してきた。この間の人生と言えば、仕事と心理療法とギターと絶え間ない自己分析の作業しかなかったと言っていい。

正直なところ、対人恐怖症に有効な心理療法は未だ現れていない。
虫恐怖、乗り物恐怖、会食恐怖といった恐怖症であればNLPによる潜在意識や記憶の書き換えでも上手くいくかもしれない。
しかし、何十年にも渡る自己否定や人間不信の体験を起因とする重い対人恐怖にはこのような療法は歯が立たないと言っていい。

最近ネットを検索していると、誇大な表現で、何十年もの苦しみ、悩みがたった〇回、たった〇分で治るとか、半年から1年くらいの期間で心理セラピストとして独立開業可能と謳って、巧妙な勧誘方法で高額な料金で申し込みさせる手法を使った心理ビジネスを見かけるようになった。
ひと昔前までは、カウンセラーなどの心理職はせいぜいイエローページに広告を出す程度で、細々と対面でセッションを行う人が殆どであったが、ネットの普及で大きく状況は変わった。
今は、zoomなどのネット環境で、多くの人対象に講習や養成講座を開設し、億単位の売上を上げ、それを公言している人もいる。

しかし私もこの種の講座を受けたことがあるが、苦しみの解決に確実な効果を出せるものはなかった。
虫歯を治してもらいたくて歯医者にいったけど、高額な料金を取られたうえに治らなかったならばその歯医者には2度と行かないだろう。
しかし現実には心理療法の世界には、治せないのにお金をクライアントから得ている方はたくさんいる。
医療と違って、治せなかった事実に対する責任を負うという、明確な事実を突きつけられることが無いからだ。クライアント側に問題があるなど、いくらでも理由を付けて問題に直面することを回避することが出来る。
しかし治せないというのはクライアントに問題があろうがなかろうが紛れもない現実なのだ。

自己否定が今まで書いてきた方法で解消されてきたら、こんな方法で対人恐怖が改善していくのではないかと思っている。
それは何人かの心理スタッフと共に、少人数のクライアントとともに、ある活動をすることである。
ある活動とは、例えば、手つなぎ鬼、ドッジボール、(S)陣取り、探検、小旅行、ホームパーティー、ハイキングなどをスタッフとクライアントたちで行うことで、我を忘れて笑ったり、楽しんだりする過程で、人間が本来持っている根源的な自己肯定の感情や、人に対する優しさ、人といることの安らぎ、前向きな行動力、創造力を取り戻していくことを目的としたものである。
幼少期から思春期、青年期のそれぞれの人生過程において、得たくても得られなかった体験を遅ればせながら体験し、人間らしい感情を取り戻していくのである。

このやり方は重い対人恐怖症者にとってかなり有効な方法ではないかと思っている。
ただこの活動をする前段階として、自己否定と自己否定した自分を抹殺し異なる自分になろうとする強迫的衝動による行動パターンは最低限、ある程度解決が進んでいる必要がある。
これは個人セッションにて対応する。

そしてボランティアに近い低料金で行う。だから副業としてか、退職してから行うことが条件だ。高額料金は取らない。

まだ夢の段階だが、自分の苦しみが完全に解消された時、このようなことをしようという気持ちが強まっているかもしれない。
こう考えるだけでも気持ちが前向きになってくる。
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NLPによって対人恐怖症は改善されるのか(10)

2023-08-31 21:24:26 | 心理
(前回からの続き)

Ⅱ 勇気を持って人に接する

B.無意識で行っている自己否定と自己否定した自分を守るための強迫的衝動による行動パターン(自動回路)の意識化と解消
A.周囲の人間全てを自分を攻撃する敵と認識し、強化された信念の意識化と解消

これらの苦しみがこれまで述べた方法で解決されてくると、それまで他人に対し閉ざしていた凍った心が少しずつ溶解され、心の最も深いところで眠っていた人と心を通わせたいという、人間全てが根源的に有している感情が湧き上がってくるようになる。

これまで人と接する、人といっしょにいることが苦しくて、何十年も孤独でいることを余儀なくされていた。
何故か。強烈な恐怖と、上記A,Bで述べた潜在意識上での自動回路により絶えず生じていた、怒り、憎しみ、悲しみ、不安、強迫、孤独感などのマイナス感情を力でもって抑え込み、そのうえで人と接しなければならなかったからだ。
これでは人といっしょにいることが楽しめるわけがない。苦痛以外の何物でもないことは何よりも明らかなのだ。別に自慢する意図があるわけではなく、体験者でないと理解出来ない苦しみなのだということだ。

しかし上記A,Bによる苦しみが解消されてくると、人と接する苦しみが和らいでくるので、閉ざした心の僅かな隙間からでも、人の気持ちというものが感じ取れるようになってくる。
厚い、鋼鉄の壁に穴が、最初は小さな穴1つかもしれないが、徐々にその穴が増えたり、拡がっていく感じをイメージすると分かりやすいかもしれない。
これがいい方向に続いてくると、人間の中には案外、いい人、優しい人がいるのではないかという感覚が芽生えてくる。
これまでも、恐怖に支配されていた時に接した人の中でも自分に対して優しい気持ちをかけてくれた人がいたのかもしれないが、周囲の人間全てを自分を攻撃する敵と認識し、それが信念となるまで強化されていたために、その気持ちを悉く撥ねつけていたからだ。厚い鋼鉄製の鎧で全身を覆っているようなものだ。人の話す言葉全てが槍だと感じているのである。
人の言葉を反射的にさえぎるためにシャッターが瞬時に降りるような規制が働くのである。

そして、この鋼鉄製の壁や鎧に開いた穴なり隙間から感じ取ることが出来た、人の優しさが本物であると確信できたとき、かなり大きな変化が心に起きてきたと思っていい。
そのためにも勇気を持って人と関わっていくことが大切だし、重要だ。

私の場合は、20代半ばから50代半ば近くまで仕事以外の人間関係を持つことが出来なかった。仕事は独りで生きていくために必要だと思っていたし、うつ病時代に仕事を干された経験からそれ以後は殆ど休まず勤務してきたが、私生活では人と親しくすることはついに出来なかった。ずっと孤独な生活を送ってきた。
しかし転機が訪れたのは今から約6年前、ある偶然のきっかけで学生時代やっていたマンドリンオーケストラに30数年ぶりで参加したことであった。
これをきっかけに私生活で人と関わる機会が否応にも得られるようになった。
それでも最初はかなり苦痛であったが、徐々にその苦痛も軽減していった。
それは参加した団体にこれまで関わってきた人間とは全く性質の異なる人たちがいたからだ。
彼らと接するうちに、自然に、それまで歪んでいた人に対する認識が矯正されていったといっていい。
そして2020年に参加した心理療法の講習会で、生涯の友と言える2人の方と親しくなることが出来た。
心理療法のセッションでその方々とラインで5時間ぶっとおしで話したことも何度もあった。2時間ほどしか寝ないで職場に向かったことも何度かあった。
それまで5分話すだけでも苦痛だった自分が長時間話せるように変わっていったのである。

前回までの記事で、心を病む原因が対人関係であれば、治せるのも対人関係ということを書いた。これは鉄則だと思う。
技術的手法では決して人の心は変えることは出来ないということなのだ。
案外、プロの心理療法家ではなく、普通の人の方が閉ざした心を開くことができるのではないかと思ったほどである。
人の心に変化をもたらすのは本物の気持ち、本物の感情でしか無いということなのだ。

(次回に続く)
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