ずゐぶんと久しぶりに、カザルスのモーツァルトを聴く。
38番から41番までの4曲を聴く。
これほどまでに、条件の悪い録音なのに、
(オーケストラは、如何にカザルスを慕ったメンバーによるものとはいへ、
臨時編成のオーケストラですし、
そして、1960年代の録音ながら、ライブのためか、音も艶やかさがなく、
がさついた印象が強い)
聞こへてくるモーツァルトの音楽が、何と聞くものの心をえぐるのか!
流麗さやバランスのよさなど、ここには、微塵もない。
(勿論、”ティータイムのモーツァルト”的な安直さもない)
円空の仏像のやうに、ササクレさへも残しながら、
けれど、その心を捉へる造形の見事さは如何ばかりだらうか。
指揮するカザルスの肉声も演奏のなかに聞こえますが、
破天荒なまでの、荒々しい、けれど自らの音楽を創ってゐる姿を彷彿とさせる声です。
40番の第1楽章のテンポが素晴しい!
一瞬のつむじ風のやうに、モーツァルトが駆け抜けてゆく。
41番も、しゃくり上げるやうなリズムの中間楽章のあとに、
見事なフーガの美しさを無視したやうに、
この、モーツァルト最期の交響曲の終焉に向かってゆく。
38番は、小生の好きな第一楽章が、まったくのイン・テンポで突き進んでゆく。
そして、過激なまでの終楽章。
39番も、”白鳥の歌”などと形容されることを哂ふかのやうに、
まう、ベートーヴェンを見据ゑた、心情を吐露する演奏になってゐる。
以前、ある舞踏家の方の稽古場(廃校になった校舎の一室)で、真空管のアンプで、カザルスのバッハのチェロを聴いたことがありました。
無伴奏組曲の1番を大音響で聴きました。
5,6人の人がゐたのですが、小生は、思はず涙してしまふほどの、音楽のちから、でした。(その舞踏家のかたは、無伴奏で踊るつもりだったのかしらん?)
(写真は、ジャケットから)
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