rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 自然死への道

2011-01-30 00:14:28 | 書評

書評 自然死への道 米沢 慧 朝日新書 2011年刊

 

前にも取り上げたことがある、病を治すことを目的とした医療を「往きの医療」とするならば、病と共に良く生きることを目的とした医療を「還りの医療」と表現してどちらも大切、或いは前者ばかり重視されていないか、と問題提起した米沢慧氏の新刊で、私が氏を知った「選択」という雑誌のコラム42本をまとめて本にしたものです。

 

改めて読み返して見ると、氏の一貫した「良く生きるということを助けるための医療とはいかにあるべきか」という主張が、飾らない肩肘張らないことばで優しく語られていることに共感します。日常的な医療の中で全て氏の主張に添えない部分も多々あるのですが、世の中にある「批判のための医療批判」ではなく、現代医療に関して医療現場、行政、国民目線においても見逃されている部分に光を当て、深く考えさせてくれる点で、医療者のみならず患者、国民皆が読み、考えるべき内容を含んでいると思います。

 

構成として雑誌の掲載順でありながら「老いる」「病(やま)いる」「明け渡す(死への道のり)」という内容に別れていて、それぞれ老いを受け入れる、病いと共に生きる、死を受容する(受け身的な死ではなくて、死に至るまでどのように生きるかを自分で選択する)ということについて「緩和ケアのありかた」「アルツハイマーについて」「無縁社会における死」などのテーマを決めて語りかけ、考えさせてくれます。

 

この本の表題で最初のエッセイでもある「自然死への道」、特に「自然死」とは何なのか。何となく理解できるようで説明するのは難しい言葉だと思います。米沢氏は病院での延命治療を拒み、自宅で点滴を拒んで「がん死」を選んだ吉村昭と脳梗塞後の老いを伴う不自由と最愛の妻を亡くした喪失感に堪え兼ねて自死した江藤淳を引き合いに出して「自然死」の形を描こうとしています。

 

(引用はじめ)

「老い」とは老後の事ではないし、死の手前とか生の終わりの段階でもない。老いの受け入れに始まり、老いを超えるという未踏の劇がそこにあるということである。それは心身の慢性的なうつ病状態を受けとめることでもあろうし、介護する・介護を受け入れる勇気でもあるだろう。「病」についてもまた、闘病から病を超える(いのちの明け渡し)過程がいる。自然死は、これらの過程を避けたり、退けてはやってこないということであろう。

(引用おわり)

 

と著者は結んでいます。この一文はその後のエッセイの展開と氏の主張を理解する上でキーとなる文章であろうと思います。またこの本には「なるほど」と腑に落ちるようなフレーズをいろんな個所に見いだすことができます。例えば上に書いた

 

「老いとは心身の慢性的なうつ病状態を受け止めること」

日本語で「私はがんです」という場合”I have Cancer”ではなく”I am Cancer”のニュアンスになっている。

本来の看護とは、心に串を刺されたような状態の患者にただ寄り添うことだ。

痴呆状態になってからの人生は澱のようなものだが、それを「いのちの深さ」(いのちの長さ−いのちの質)ととらえたらどうか。

がん患者の「できるだけのことをしてほしい」という希望は「可能な治療を全てして」というより「最期まで見捨てないで欲しい」という願いだ。

いのちの明け渡しとは病気への降伏ではない、大いなるものに身をゆだねる道を自分で選択することである。

 

などなど、短いエッセイの中に深く考えさせるものが沢山詰まっています。

終わりに私が普段から主張している、健康な人の検査値を異常と規定することで、将来急性疾病がおこるリスクを統計的に減らすことができるとして薬を飲ませる「予防医療」や、既に死んでいる人に儀式のごとく蘇生をする救急医療の欺瞞について考えさせる記述を中川米造氏のことばとして記されている部分を引用します。

 

(引用開始)

「病には病気と疾病がある。検査で異常がみつかったのは疾病であって病気ではない。病気とは自覚症状がでて生活が障害されるようになることだ。前者は患者になるのであり、後者が病人。この病人が医療から取り残されている。」「病気とは臓器と臓器、自分と身体、自分と社会とのあいだを含めて関係のこだわりであり、関係の切り離しである」

「それを修復し、病人を癒すことが医療の役割だとすれば、医学という科学を患者の治療に適用することでできることはごく一部。医療が文化といえる倫理をもつようにならないといけない。」

忘れてならないのは「慰めと癒し」とは患者への配慮、(いのち)への配慮を指すことである。

(引用おわり)

 

ここに記されているように「予防医学」には慰めも癒しも必要ないのであり、医療が文化といえる倫理など全く必要としていないことが解ります。症状のない早期癌を治療することも、疾病の治療であって病人の治療ではないということになります。癌が進行して日常生活に支障を来すようになり、本当の病人になったとき、現在の急性期を主体とした医療は「慰めと癒し」「いのちへの配慮」について十分な手当て(医療内容としても診療報酬としても)がなされていないと感じます。

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 結婚について | トップ | 痴漢冤罪と推定無罪 »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
読んでほしい! (F・T)
2011-01-30 13:20:31
はじめまして rakitarouさん
米沢氏の『自然死への道』の書評、興味深く読ませて頂きました。
医療者の立場から「慰めと癒し」「いのちへの配慮」ということが十分にできていないのではないか、とrakitarouさんが告白されたことに感銘をうけます。
なぜなら、医療関係者ではない私でさえも、日常の中に医療用語や情報がなだれ込んできて、それを普通に使ってしまっている、まさに「病院化社会」を生きている実感があります。技術で手段だったはずの医療が、いつの間にか、うえから検査し管理するもののように思え、そこから外れることに後ろめたささえ感じます。だから「慰めと癒し」「いのちへの配慮」などの感覚が、日常の中でさえも麻痺していると思うからです。
「死」に、自然も不自然もないはずなのに、今こうやって「自然死」という言葉が選ばれ、ドキリとさせられるのはどうしてでしょうか。「いのちのステージが変わった」時代を生きている私たちは、どんな錨を下ろせば、いのちをまっとうする生き方ができるのでしょうか。米沢氏のいう自然死は、医療を受けるか受けないかとか、そんなことではないですよね。今の時代の生き方の問題を取り上げているのだと思います。
医療関係者だけでなく、国民みんなが読んで考えてほしいというラキさんの意見に私も賛成します。
返信する
還りの医療 (rakitarou)
2011-01-30 15:14:43
FTさん、コメントありがとうございます。昨年ある研究会で米沢氏に御講演いただく機会を得たのですが、その後医学部の教授の方から「還りの医療」という概念に非常に興味を持った、という感想をいただきました。日本の医療者はほとんど「病気を治す」という攻めの医療以外には興味や努力を払っていないのが実情です。痴呆に対しても痴呆を治すことには必死ですが、いかに受け入れるかは考えられていません。
老後や終末期医療については、ご指摘のように国民皆が考えてゆかなければいけませんね。
返信する
還りの医療 (F・T)
2011-01-31 13:58:38
米沢慧氏の「往きのいのち」「還りのいのち」に対応する「往きの医療」「還りの医療」の考え方ですね。医療ばかりでなく、日常の生活も「往き」ばかりが注目され、加齢や老いに対しては、抗ったり拒んだりする情報が多いように思います。でも実はスキーのように、シュプールを描くときが、余裕があり、景色を愛でる楽しみがあるのかもしれません。「還り」というだけで消極的なイメージになりがちでしょうが、実は豊かにシュプールを描ける人生の、サポートとしての「還りの医療」は、登りつめる時に必要だった「往きの医療」と同等に大切なものだと思います。今は、社会全体が登りつめ、豊かさも長寿も手に入れて、さて、ここからどうしようかと立ち往生しているようにも思います。
返信する

コメントを投稿

書評」カテゴリの最新記事