rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 いのちのレッスン

2010-11-03 16:15:12 | 書評
書評 いのちのレッスン 内藤いづみ 米沢 慧 雲母書房 2009年刊

在宅ケアを中心に内科を開業する内藤いづみ氏とホスピスや介護・ケアについて造詣の深い医事評論家の米沢慧氏のホームページ上での往復書簡による意見交換を単行本にまとめたもので、ホスピスの生みの親であるシシリーソンダースや死の臨床においての患者の心理を解明したキューブラー・ロス、戦場写真家からホスピスの伝道者となった岡村昭彦氏などをテーマに、近況をまじえながら現代日本における終末期医療の問題点を論じてゆく物です。

それぞれが重いテーマであり、身近な人に癌や死、介護などの問題をかかえていないと関心が持ち辛いものばかりかと思われるのですが、老いや命にかかわる病気は必ず全てのひとにいつかは訪れるものであり、現在関心がなくてもどこかで向き合わなければならないテーマと言えます。また医師である私にとってはこれらは日常的なテーマであり、取り上げられている全てのテーマが身近なものと感じました。

それぞれのテーマについて手短に紹介したり寸評を述べたりするのはあまり意味のないことに感ずるので、在宅ケアや死と向き合う臨床についての全体的な感想を述べる事にします。

在宅ケアで開業する内藤いづみ氏は1956年生まれで、福島県立医大を卒業してから東京女子医大内科を経て現代医療のあり方に疑問を感じて英国に渡ってホスピスの研修を受け、日本でまだ殆ど行われていなかった在宅による終末期医療を始めて現在に至ります。2005年を過ぎて日本の病院医療の崩壊が叫ばれるようになり、また2006年にがん対策基本法が成立して初めて厚労省は在宅医療による終末期ケアも重視するようになりましたが、それまでは内藤氏も診療報酬面やまわりの医療者の理解度など孤軍奮闘の状態であったことは間違いありません。がん対策基本法もその基本理念を読めば判るように、「がん」の早期発見・治療と治療技術の均霑化による「がんの克服」を目的にしているのであって、がん患者が残る限られた人生を有意義に送ることを目的には作られていません。内藤氏は小生のような現代医療に携わる医師達が死の臨床に無関心であることを非常に苛立たしく感ずると書いておられるのですが、それももっともなことだと感じました。

私について言えば、やはり日常診療において「死の臨床」に正面から向き合うことは誤解を怖れずに言えば「めんどうくさい」「苦手」という範疇に入ります。ほら、やはり最近の医者は医療において大切な「医師のこころ」を失っているじゃないか、と言われるとある程度当たっています。しかし実際には私も月に何人かの看取りを行なっているのですから、現実問題としては「死の臨床」を避けて通ることはできないし、苦手と思いながらも向き合っているのですが、何故「めんどう」「苦手」といった感覚を持つのかを考えて見ました。

現代医学は米沢氏の表現を借りれば病気の克服、治癒を目的とする「往きの医療」であり、終末期医療や介護・ケアというのは疾患の治癒ではなく病と共に良く生きることを目的とした「還りの医療」ということになります。全国の大学病院や地域の基幹病院は「急性期病院」と言われて、短期間の治療で治る病気が対象とされ、慢性疾患の場合でも急性増悪したものを安定化させてリハビリなどを行なう療養型の病院に送るのが基本になっています。だから平均入院期間も14日以内であることが求められていて、入院が長くなると病院が請求できる医療費も減額されるように定められています。つまり我々は「往きの医療」を行なうよう厚労省から定められているのです。

医学の進歩によって急性疾患の殆どは治療可能になり「病気は治って当たり前」、「結果が悪ければ医療ミス」などと一般の人々に誤解されるまでになったことは前から述べている通りです。治って当たり前の病気に対して我々医療者の持つ感覚は「商売医療」であって、勿論医療を行なう時にはミスなく全力を尽して医療を行なうのですが、病気が治ってしまえば患者さんとのつながりは一度解消されて、患者さんの人生にまでかかわろうとはしません。だから短時間に効率良く沢山の患者さんを治療するほど病院の評価はあがるしくみになっています。一方で「死の臨床」「死と向き合う医療」というのは患者さんの人生との対話に他なりません。沢山の商売医療を行なっている中でぽつんぽつんと「患者さんの人生に深く向き合うような医療を行なう」ことはかなりストレスのかかることであり、そんなに簡単に気持ちの切り替えができるものではありません。だから「めんどう」であり「苦手」に感じてしまうのです。

老健施設では時に入所しているお年寄りが死亡している状態で発見されることもあります。そのような時、嘱託の医師が来て自然死として死亡診断をしてくれれば良いのですが、往々にして救急車が呼ばれて急性期病院の救命救急室に搬送されます。救急隊は死後硬直しているなどよほど明らかな死亡状態でない限りは心臓マッサージなどの救命処置を行いながら搬送してきますので、病院としても到着と同時に死亡を確認する訳にも行かないので心臓マッサージ、挿管、強心剤の静脈注射などを30分くらい行って、蘇生しないことを確認して家族に説明して死亡判定をします。死斑が出かかっているような亡がらに蘇生措置をすることは無駄なことであり、80年以上生きてきた最期にこのような処置を加えられることは不本意だろうな、と思いながら儀式ともいえる処置を行います。それでも救急を預かる研修医達にとっては貴重な訓練とも言えますし、この経験で将来本当に緊急を要する患者が助かることもあるのですから良しとするべきですが、「老健施設からCPA(心肺停止状態)の患者さん入ります」の連絡が来ると「やれやれ、何故嘱託の医師は診てくれないのだろう。患者さんは自分の死に場所としてその施設を選んだだろうに」とぶつぶつ言いながら救命室に向かいます。急性期病院には93歳の心不全、家族は何もしないことを希望、とか89歳のがん患者、血圧低下、緩和医療のみ希望といった患者さんが運ばれてきます。本来ホスピスや在宅医療で診られるべき患者さんが短期間で治る病気を扱う病院に入院しているのが現実です。

著者の内藤氏は死の臨床に向き合わない医療者のみでなく、時々ある「家族の死に向き合おうとしない家族」にも怒りを表明します。確かに施設や病院に預けっぱなしでなかなか面会にも来ない家族がいることも確かです。緩和医療を苦手に感ずることの一つに「医療者が家族の代わりの役割を要求されている」ように感ずることがあげられます。癒しを必要とする患者さんにもっとも適切な癒しを提供できるのは家族や友人です。医療者は患者の気持ちを理解した上で、家族が疲弊しきってしまわないようにアドバイスをする、或は家族が与えることが出来ない医学的なケアを行うのが役割です。そのような患者、家族、医療者三者の良い関係を米沢氏は「ファミリートライアングル」と呼んでいます。そのような適切な距離感を保ちながら三者が良い関係を結んでゆければ理想的な緩和ケアや死の臨床を行うことができるのだろうと思います。残念ながら日本では医療体制も医療者も患者側もこのような体制には至っていません。この本で語られている内容は本来の医療であり未来の医療ということになるように感じました。
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