ドイツに旅行して感じたことの一つに「郷土愛の強さ」があります。郷土の森や自然を自慢し保存することを実に大切なことと考えています。ドイツは連邦制でもあり、バイエルン地方の人はベルリンやルール地方の人達よりも国を超えたオーストリアの人達に親近感を感ずると言います。(それでもサッカーはドイツ代表を応援するけどね、と言ってましたが)
愛国心という日本語の英訳はパトリオチズムですが、日本の場合幸いなことに国の境界と民族の境界が歴史的に大差がなかったために民族愛を示すナショナリズムとパトリオチズムはほぼ同一のものとして語られています。韓国では南北の問題もあり両者が相反する内容を含むでしょうし、中国でも自分の属する民族によって両者の意味合いが変ってくる事でしょう。「日本でも厳密には違うぞ」という議論はあるでしょうが、日常生活の実感としてはそれは嘘です。
日本では「お国自慢」という言葉が示すように純朴な郷土愛の延長として愛国心が語られることが多かったのですが、大日本帝国が戦争に敗けたことで郷土愛の範囲を国家まで広げた時点でそれは議論の余地なく「悪いものとする」と定義づけられ教え込まれてきました。「愛国心は大切だ」などと言おうものなら本人の真意や信条を確認することもなく特定のレッテル貼りをして「倫理的に悪意を持った人士」として黙らせなければならないと殆ど無意識のうちにすり込まれてきたと言えます。だから私もなかなか公の場所で公言できない。
「郷土愛の延長として愛国心があってはならない」というのは、日本において未来永劫続かなければいけない概念でしょうか。
愛国心(パトリオチズム)は帝国主義戦争に利用されたとする解釈はむしろ欧米列強において、戦後はアメリカで現在においても当てはまる概念であって日本の兵士の手記などでは純朴な郷土愛の延長として愛国心が語られている場合の方が多いように感じます(こう書くだけで戦争を美化していると言う反応が返ってきてしまう所が日本の思考力のレベルの低さなのですが)。クリントイーストウッド監督の硫黄島二部作「硫黄島からの手紙」と「父親達の星条旗」は日米の戦争における愛国心の解釈を対比させた良い例と言えます。前にも書いた通り(http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/3756d57ec9ca63e42e58851317fdce7c?st=1)、日米軍人が自らの命をかけて戦った目的を「手紙」と「旗」に見事に象徴させているのですが、日本人よりも外国人である監督の方が日本人の愛国心を色眼鏡なく素直に解釈していることは皮肉なことです。
人間が社会で生活する以上「法律」が及ぶ範囲の境界として「国家」があります。他国にたいする経済問題の協議では「国家の利益」を背負って官僚や政治家が交渉にあたりますが、自己の所属する社会の延長としての「愛国心に基づく国益」をとことん追及する気概がなければ、力の強い者(他国)に結局利用されてしまう結果になります。日本において「反愛国心」を利用する勢力(主にアメリカですが)の狙いはそこにあります。「愛国心」=「戦争」=「帝国主義復活に利用される」という短絡思考はそれ以外の考え方が出てくると都合が悪い勢力が編み出し我々にすり込ませたものです。大事な郷土や家族を不幸にさせないために、軍産複合体やグローバリストの策略に乗ってまた戦争を「させられない」ためにも健全な愛国心を持って国益を追及できる人材を育ててゆかねばならないと感じます。
愛国心という日本語の英訳はパトリオチズムですが、日本の場合幸いなことに国の境界と民族の境界が歴史的に大差がなかったために民族愛を示すナショナリズムとパトリオチズムはほぼ同一のものとして語られています。韓国では南北の問題もあり両者が相反する内容を含むでしょうし、中国でも自分の属する民族によって両者の意味合いが変ってくる事でしょう。「日本でも厳密には違うぞ」という議論はあるでしょうが、日常生活の実感としてはそれは嘘です。
日本では「お国自慢」という言葉が示すように純朴な郷土愛の延長として愛国心が語られることが多かったのですが、大日本帝国が戦争に敗けたことで郷土愛の範囲を国家まで広げた時点でそれは議論の余地なく「悪いものとする」と定義づけられ教え込まれてきました。「愛国心は大切だ」などと言おうものなら本人の真意や信条を確認することもなく特定のレッテル貼りをして「倫理的に悪意を持った人士」として黙らせなければならないと殆ど無意識のうちにすり込まれてきたと言えます。だから私もなかなか公の場所で公言できない。
「郷土愛の延長として愛国心があってはならない」というのは、日本において未来永劫続かなければいけない概念でしょうか。
愛国心(パトリオチズム)は帝国主義戦争に利用されたとする解釈はむしろ欧米列強において、戦後はアメリカで現在においても当てはまる概念であって日本の兵士の手記などでは純朴な郷土愛の延長として愛国心が語られている場合の方が多いように感じます(こう書くだけで戦争を美化していると言う反応が返ってきてしまう所が日本の思考力のレベルの低さなのですが)。クリントイーストウッド監督の硫黄島二部作「硫黄島からの手紙」と「父親達の星条旗」は日米の戦争における愛国心の解釈を対比させた良い例と言えます。前にも書いた通り(http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/3756d57ec9ca63e42e58851317fdce7c?st=1)、日米軍人が自らの命をかけて戦った目的を「手紙」と「旗」に見事に象徴させているのですが、日本人よりも外国人である監督の方が日本人の愛国心を色眼鏡なく素直に解釈していることは皮肉なことです。
人間が社会で生活する以上「法律」が及ぶ範囲の境界として「国家」があります。他国にたいする経済問題の協議では「国家の利益」を背負って官僚や政治家が交渉にあたりますが、自己の所属する社会の延長としての「愛国心に基づく国益」をとことん追及する気概がなければ、力の強い者(他国)に結局利用されてしまう結果になります。日本において「反愛国心」を利用する勢力(主にアメリカですが)の狙いはそこにあります。「愛国心」=「戦争」=「帝国主義復活に利用される」という短絡思考はそれ以外の考え方が出てくると都合が悪い勢力が編み出し我々にすり込ませたものです。大事な郷土や家族を不幸にさせないために、軍産複合体やグローバリストの策略に乗ってまた戦争を「させられない」ためにも健全な愛国心を持って国益を追及できる人材を育ててゆかねばならないと感じます。