rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

映画『コッポラの胡蝶の夢』感想

2020-07-07 18:52:24 | 映画

映画『コッポラの胡蝶の夢』(原題Youth Without Youth)は、2007年のアメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニア映画。原作はミルチャ・エルアーデの小説『若さなき若さ』。監督、脚本はゴッドファーザーや地獄の黙示録のフランシス・フォード・コッポラで、主演はあまり有名でないティム・ロス(ドミニク)、アレクサンドラ・マリア・ララ(ラウラ、ヴェロニカ)

ストーリーは、1938年、70歳の言語学者ドミニクは、自身の言語学の研究も未完のまま、「別の世界にあなたは生きている」と言われて別れたラウラを忘れられない孤独な日々を送っていた。ある復活祭の日、彼は突然雷に打たれ病院に収容され奇跡的に一命をとりとめる。しかも驚異的な頭脳と若き肉体に復活し、しかも手に取った本の内容を直ぐに理解するといった超常的な能力まで獲得してしまう。

1955年.ラウラに生き写しのヴェロニカと出会うが、自分と同様に落雷に遭った彼女は、1400年前インドに住んでいたルピニの知識を得て、サンスクリット語で話すようになっていた。彼らは「輪廻転生」と騒がれるが、ドミニクは彼女の力で自分がなしえなかった言語の起源を探究する研究を達成しようとする。しかし若返る自分と異なり、早老化してゆく彼女を救うために自分が彼女から離れる決断をし、故郷で自分を導く鏡の分身を壊すことで本来の年齢に戻って雪の中息絶える。

1969年、故郷のブカレストのカフェに行き、友人たちに荘子の「胡蝶の夢」(夢と現実の堺がない話)を語る所から邦題がつけられました。

主人公ドミニクはラウラとそっくりのヴェロニカと出会い夢のような日を送るが

 

SF的なストーリーを理解することは困難ではないのですが、監督脚本を敢えてコッポラ本人が手掛けて、私財を投じてこの作品を作ったコッポラの狙いは何であったかは難しい問いであると思います。主人公のドミニクの様に自分のやりたい事を若返ってやり直したいという欲望のようにも見えますが、その解釈ではやや弱い。私はコッポラ流の世界における真善美の意味表現であったように感じました。奇才スタンリー・キューブリックは、彼の世界における真善美の意味を映画「バリー・リンドン」で表現したと前に論考しました。キューブリックは真(宗教)、善(バリーの生き方)、美(映像)をこの映画で表現したのですが、コッポラは真(ドミニクが追求した学問)、善(人類が核戦争で滅びて新しい人類となってより高いステージに上るという未来予知を伝えるべきかで悩む)、美(ラウラ、ヴェロニカへの愛情)という内容を描いています。

 

学問について  ドミニクは言語の起源、紀元前のエジプト、インカ、メソポタミアなどの言語まで理解するに至り、もう少しで自分の研究を極める所まで行きますが、ヴェロニカへの愛情(美)を優先させることで断念します。

善について ドミニクは未来を正確に予知する能力を得て、人類の未来を解読不能(将来コンピュータの発達で解読できるようになるだろう)の文字で記述し、某所に保管します。これは未だに解読不能とされる奇書「ヴォイニッチ手稿」を連想させる描写であり、 謎のイラストとして紹介されているものにも通じます。ドミニクは人類が核戦争で一度滅びて(第六の絶滅と表現しているー第五は恐竜の絶滅)新しい人類に昇華するという未来を「進化のために善である」という自分と、「多くの罪のない人が死ぬ事は善ではない」というもう一人の自分の板挟みにあって悩み、結局答えは出ずに終わります。キューブリックにとってもそうであったように、コッポラにとっても「善」とは移ろいやすい物という結論なのでしょう。

美について これはキューブリック同様「変わらない物」「真よりも優先される物」としてコッポラはとらえたように思います。ラウラを思い続け、ヴェロニカへの愛情で学問を捨てるという決断、雪の中で息絶えたドミニクの安らかな瞳は、胡蝶の夢で夢と現実を行き来しながらも、美を追求できたという満足を表していたように感じました。

コメント (3)
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