rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

初学者が守るべき医療倫理とは何か

2015-04-01 23:55:10 | 医療

昨今の製薬会社が関連した大学の研究不正や、手術死亡が多発した事例など、医療や医師に関して「倫理」が問われることが増加しています。また日々医療を行うに当たっても「医師と患者さんとの関係」においては医師が一定以上の倫理観を持って仕事にあたっていると信じられるからこそ患者さんは自分の身体を医師に預けても良いと考えられる事は明らかです。

 

では一体具体的に「医療に求められる倫理観とはどのようなものか」と改めて問われると簡単に答えられないことであるように思われます。どの治療法を選ぶか、移植や不妊治療をどう考えるか、安楽死は、といった非常に幅広い問題が医療倫理に関わってきます。原則理論に基づいて医療倫理の4原則として1)「自律的な患者の意思決定を尊重せよ」という自律尊重原則、2)「患者に危害を及ぼすのを避けよ」という無危害原則、3)「患者に利益をもたらせ」という善行原則、4)「利益と負担を公平に配分せよ」という正義原則を示したものもあります。古くはヒポクラテスの誓いや、ヒトを研究する際の倫理規範となるヘルシンキ宣言など数多くの規範が示されてきました。

 

しかし医学生・看護学生、或いは薬剤や介護などを含む医療に携わる全ての者、特に初学者にまず問われる医療倫理とは何かと言われた場合、それは「プロフェッショナリズム」であると言われています。欧米における医学教育において「医療倫理の教育」とはmedical ethicsではなく「professionalismの教育」であると言われており、それは2012年の日本医師会雑誌「医療倫理向上にむけての特集」にも銘記されています。では具体的にprofessionalismとは何かと言われると、これは私見になるのですが、「患者さんを自分が責任を持って診る」という一語に尽きるのではないかと思います。50歳代以降の医師には意外に思われる方もいるかも知れませんが、研修中の医師には「患者を使って手技の練習をするのは当然の権利」と思っている人がかなりいます。それは欧米の研修医制度をまねて現在の臨床研修制度を作ってしまった厚生労働省の致命的な誤り(作った人達は自分で教育などしないので自覚してないでしょうが)なのですが、医科大学で6年学んで、人から教わることを当然として育って来た初期研修医が、卒業後も2年間、「種々の会得しなければならない課題」を科せられながら研修をする現在の制度が、「人から教わる立場」を続けさせられるために陥る心理的陥穽のようなものと思われます。

 

研修医であっても患者さんはベテランの医師と同じ「医者」と思って自分の身体を任せるのであって、白菊会に入って「死後医学の発展のために自分の身体を練習でも勉強でも自由に使ってください」という気持ちで病院にかかる人などいません。しかし課題をこなすために種々の経験を積む段階では、どうしても「経験しなければ」、「会得しなければ」という気持ちに研修医はなります。しかもマッチングシステムというより研修に適した環境、指導が充実した環境を研修医の側が選び、病院が研修医に選んでもらうために「甘い水」を無理してでも用意しないといけない状況を作らされている現状では「研修中に患者を使って練習するのは当たり前」と勘違いしてしまう研修医が量産されることは必然的とも言えます。これは欧米においても同じ状況であったと思われ、医療倫理の教育がprofessionalismに重点をおかれている理由とも言えるでしょう。

 

初学者であっても「患者さんに医療を行う上では自分が責任を持って診る」「至らない点、解らない点は文献で勉強し、手技が優れた上級者に教えてもらって行う」という態度がprofessionalismに基づく行動であり、これは実は一人前になってからも我々医療者が日々行っていることに過ぎない行動なのです。これができるようになって初めて医療倫理の第一段階に合格したと言えるのです。

 

これは卒業後2年間の初期研修が終了して専門医の資格を取る専門研修に入ってからも「教えてもらって当然」「患者は練習のための物」という状態が続いている場合があります。ある外科系の指導医から聞いた話ですが、新たに研修に来た専門研修医が、専門医になるために必須となる習得プログラム通りに種々の科を回るのを拒んで、「自分が将来必要と考える手技だけ身に付けば良い」と言い張ってどう対応して良いか困っているという事でした。この例も内田 樹氏が言う所の「賢い消費者」の視線でしか物を考えず、自分が必要とする能力を最小の努力(支出)で手に入れようとしている例にすぎないと言えます。本来専門医とはその領域において一定以上の能力を有し、非専門領域の人達を教え導く役割も担う必要があります。また当該専門領域の未解決の分野を研究開拓し、次代に引き継いで行く責務があります。これも内田 樹氏の表現を借りるならば、専門医になるとは「子供」から「大人」になる事を意味しており、「大人」というのは社会が成り立つために仕事をするだけでなく、次代の「大人」となるべき「子供」を育てるのが任務であると言えるのです。だから自分にとって必要な能力だけを最小限の努力で教えてもらい、後は自分が好きなように生きて行くというだけでは「子供」のまま一生過ごすという事であり、professionalismとは対極にある姿と言えるのです。

 

私は医学部の学生と接する機会も多いのですが、「最小限の努力で国家試験に受かる教育が良い教育だと勘違いするな。」と良く話します。現在は教育者が学生を評価するだけでなく、学生が教育する側を評価する制度も各大学で取り入れています。ここで起こる勘違いが「楽して試験に受かる教育が良い教育」と思い込んでしまう事、「賢い消費者」としての態度で教育を評価してしまう事です。高校までは答えの出る問題の解き方を学び、大学では答えの出ない問題の考え方を学ぶのが本来のあり方である、という大学教育の基本を理解していない人達をどう「教育」するかという問題です。困るのは文部科学省や教育の専門家までが「社会に出て即戦力になる教育を大学で行え」と言い出している事です。即戦力になる教育は専門学校でやるものであって、大学でやるものではありません。米国のように、大学を出てから専門学校としてmedical schoolやlaw schoolに入って専門知識を学ぶのは本来のあり方として矛盾がないのですが、日本の大学は社会に出る前のステップとしての役割しか認識されてこなかった歴史から、答えのでない問題を考えるための機関と理解されていません。それでいて卒業時には「学位」(学士)が授与されるという矛盾に誰も文句を言いません。日本の医科大学は某私立医科大学から東大の理科三類まで同じカリキュラムで教育が行われるという恐ろしい状態に成り果てました。そして卒業してからも初期研修は全ての医師が同じ規準で作られた研修目標をこなすことが義務づけられています。優秀で志の高い医師達は自ら努力を惜しまずprofessionalismを身につけて良い医師に育って行きますが、賢い消費者として努力せずに一人前になりたいと考える「志の低い人達」は残念ながら子供のまま研修期間も終わってしまいます。結果として良い医師にはなりません。患者さんからはなかなか見分けが付かないでしょうが、医師(看護師や他のコメディカルの人達も含む)の側からは少し接すればそのような医師は直ぐに解ってしまいます。

 

このprofessionalismが問われるのは医師だけでなく、看護師や薬剤師、その他のコメディカルの人達も同様なのですが、私が見る限り医師以外の職種ではprofessionalismができていないと感ずることがあまりない(皆無とは言いませんが)のが事実です。初歩的な医療倫理が一番問われるのが医師、というのは悲しい現実ではありますが、事実なので心してかからねばなりません。

コメント (1)
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