rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

左翼と右翼の定義:何故インテリは左翼が好きか?

2008-12-18 00:29:16 | 社会
反日主義が大好きな人達や本格的に戦後日本占領政策の工作員として思想統制を行っている人達にとっては、私のような考えを持つ日本人は「ネット右翼」と括られるのだろうと思います。要は反日主義に同調しない面倒な奴=民族主義右翼とし、彼らの作り上げた戦前を全て「倫理的悪」と規定した範疇に放り込み、倫理的に善である「戦後民主主義思想」の範疇から追い出すことで黙らせたい人達に入るのだろうと思われます。

反日でグローバリストが左翼であり、国家や郷土を大切にすることが右翼であるという色分けは左翼=社会主義、共産主義であった時代が終わって共産主義社会自体が消滅してしまった現在、コミンテルンの指令の下国家の枠を超えて世界革命にまい進するグローバリズムの精神(地球市民とか)だけが形骸化して残った哀れな姿の様にも見えるのですが、「反日」という点では中国韓国のばりばりの民族主義右翼と結託しながら、アメリカのユダヤ民主党系のグローバリズムとは一線を隔している(実体は利用されているのかも)ようで彼ら自身自分の明確な立ち位置は「反日」以外なくなってしまっているのではと思われます。

私が大学受験をしていた1970年代といえば経済学部は「マル経」以外は殆どなく、近代経済学などバカにされて学問としては顧みられることがなかったようですが、結局日本の優秀な学生達が何の役にも立たない「マル経」を勉強させられた御蔭で日本の経済学者は現在もろくな人間がいませんし、官僚や銀行員も先をきちんと読める人間が育たずバブルや失われた15年といった苦節を日本が味わう事になったのだろうと思います。

私は昔から愛国者でしたが、家は貧しく階級的には貧民でした。だからプチブル出身のくせに左翼ぶって大学でセツルメントなどの活動をして上から目線で偉そうな事を言っている左翼学生達は大嫌いで「貧乏人の気持ちも知らないくせに何を言っていやがる」と思っていました。そういうのが今では商社のお偉いさんになって「ワインのことなら任せて」などと言うやらしい中年になっているので今でも嫌いです(ルサンチマンかもしれませんが)。

さて、私は人間性を顧みない社会主義や共産主義は昔から嫌いでしたが、比較的偏差値の高い「インテリ層」にあたる人達が何故左翼思想にかぶれる(或いはシンパシーを持つ)のか不思議に思っていました。私の場合、愛国心があるだけで皇国史観など一かけらもないので右翼ではないのですが左翼でなく、愛国心が強いというと「右翼」に分類されてしまうところが日本の思想の貧しいところだと常々感じていました。

京都大学人間環境学教授の佐伯啓思氏の「自由と民主主義をもうやめる」幻冬舎新書2008年刊に「何故インテリは左翼が好きか」という問の答えに近いものが書いてあり興味深く読みました。

ある学生の「左翼」と「保守」は何が違うのかという質問の答えとして、氏は

(引用はじめ)
「左翼」は人間の理性の万能を信じている。人間の理性能力によって、この社会を合理的に、人々が自由になるように作り直してゆくことができる、しかも、歴史はその方向に進歩している、と考える。

一方「保守」とは人間の理性能力には限界があると考える。人間は過度に合理的であろうとすると、むしろ予期できない誤りを犯すものである。従って過去の経験や非合理的なものの中にある知恵を大切にし、急激な社会変化を避けようと考える。

これが本来的な意味での「左翼・進歩主義」と「保守主義」の対立です。社会主義か資本主義か、或いは親米か反米か、といったこととは関係ありません。
(22-23ページ 以上引用おわり)

と説明していて、氏としては真の日本的保守主義を見直そうという趣旨でこの本を書いているのですが納得のゆく説明だと思いました。「合理性」=「ラチオナル」であることで社会は善なるものに矯正できるというのはいかにもインテリ好みな考え方です。

世の中「きれいごと」のみを声高に叫んで追及しだすと大抵おかしな方向に向かいます。最近の医療問題しかり、個人情報保護問題しかり、環境問題しかり、教育問題しかり、全て現状維持が良いとは言いませんが長い時間をかけての結果でそのようになってきた状態を理屈だけで変えようとすると無理がしょうずるものです。その意味で氏の主張に私は近いものがあると感じました。
コメント (6)
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