初めて電気ブランを飲んだのは24,5歳の時、今はおそらく
無いであろう京都のとあるバーというか居酒屋というか、そんな所だった。
記憶は随分と曖昧だが、店の雰囲気と併せて「これが大正ロマンか」などと
阿呆のような軽い気分が頭をよぎったことは覚えている。
あがた森魚はしばらく聴かず嫌いが続いた。
昔は「ああ、赤色エレジーの女々しい人ね。」で片付けたものだ。
しかしながら改めて聴きなおすと、どんどん惹きこまれていく。
今回取り上げる「乙女の儚夢」は72年のセカンド。
フェヤポート・コンベンションの「フルハウス」が唯一冊の参考書であるとの
告白もあるが、それはこのアルバムの魅力の一片に過ぎないことに
気がつくのに、それほど時間がかからなかったのは、こちらの
基礎体力が増強されているからか?。
日本でしか有り得ない文化や虚構が時間軸を超えてこれほど
美しく保存されているアルバムは他に無いかもしれない。
当たり前だが、私が体験することの出来なかった出来事や時代が
あたかもかつて私も体験したかのような錯覚を感じさせる。
アメリカのフォークではなく、大英帝国のそれに近似値を
見出したことも、私の気分に合ったというのは当たっている。
早川義夫との接点や共通項が記されることが多いが、この普遍性は
むしろ遠藤賢司と比べるのが正しいような気がするが如何だろう。
よくよく聴けば、春から冬まで一年通しての「じれったい男女の物語」の
ようにも思えてくる。コンセプト・アルバムというのは大袈裟だが
そう呼んでみたい気もする。
何度もCD化されているアルバムだが、今回の再発はオリジナル・アナログを
再現する変形ジャケットであるうえに、12ページからなるブックレットも
初めて再現された。こういう再発こそ購入の意義、買い替えの意義があると
いうものだ。
持ち物は大切にしませう。
無いであろう京都のとあるバーというか居酒屋というか、そんな所だった。
記憶は随分と曖昧だが、店の雰囲気と併せて「これが大正ロマンか」などと
阿呆のような軽い気分が頭をよぎったことは覚えている。
あがた森魚はしばらく聴かず嫌いが続いた。
昔は「ああ、赤色エレジーの女々しい人ね。」で片付けたものだ。
しかしながら改めて聴きなおすと、どんどん惹きこまれていく。
今回取り上げる「乙女の儚夢」は72年のセカンド。
フェヤポート・コンベンションの「フルハウス」が唯一冊の参考書であるとの
告白もあるが、それはこのアルバムの魅力の一片に過ぎないことに
気がつくのに、それほど時間がかからなかったのは、こちらの
基礎体力が増強されているからか?。
日本でしか有り得ない文化や虚構が時間軸を超えてこれほど
美しく保存されているアルバムは他に無いかもしれない。
当たり前だが、私が体験することの出来なかった出来事や時代が
あたかもかつて私も体験したかのような錯覚を感じさせる。
アメリカのフォークではなく、大英帝国のそれに近似値を
見出したことも、私の気分に合ったというのは当たっている。
早川義夫との接点や共通項が記されることが多いが、この普遍性は
むしろ遠藤賢司と比べるのが正しいような気がするが如何だろう。
よくよく聴けば、春から冬まで一年通しての「じれったい男女の物語」の
ようにも思えてくる。コンセプト・アルバムというのは大袈裟だが
そう呼んでみたい気もする。
何度もCD化されているアルバムだが、今回の再発はオリジナル・アナログを
再現する変形ジャケットであるうえに、12ページからなるブックレットも
初めて再現された。こういう再発こそ購入の意義、買い替えの意義があると
いうものだ。
持ち物は大切にしませう。