ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

12/08/31 三津五郎ほぼ一人芝居の「芭蕉通夜舟」俳諧における大衆性と芸術性の相克

2012-09-12 23:59:53 | 観劇

井上ひさしの生前から喜寿のお祝い企画として検討されながら、没後に取り組まれることになった「こまつ座/井上ひさし生誕77フェスティバル2012」。そのうち4作品のチケット半券を示せば“特製チケットホルダー”をプレゼントというキャンペーンにも取り組まれている。「日の浦姫物語」を観ればクリアするので楽しみ。

井上ひさしの作家の評伝劇は何本も観ているが、俳人は初めて(「小林一茶」も観ていない)。今回の松尾芭蕉を描く作品はほぼ一人芝居。そして坂東三津五郎が初めて井上作品に挑むということで歌舞伎観劇のお仲間でご一緒に観ようということになった(^^ゞ

【芭蕉通夜舟(ばしょうつやぶね)】作:井上ひさし 演出:鵜山仁
出演:松尾芭蕉/船頭=坂東三津五郎
   朗唱役=坂東八大、櫻井章喜、林田一高、坂東三久太郎
冒頭の場面も舟の上。前口上の中で役者が自分の名で挨拶し、これから芭蕉を演じると堂々と言う。上流階級の嗜みだった和歌や連歌に対し、庶民が短詩型の文芸を楽しむものとして俳諧之連歌が生まれ、五七五と七七を連ねていく連句が大流行。36句連ねることを「歌仙を巻く」といい、それになぞらえて36景の芝居となっているとも説明。

それから伊賀上野の藤堂家の若君の俳諧の道づれとして抜擢され台所方の奉公人として仕える19歳の若者になる。若君の舟遊びに従って舟の上で火を起こしているところから。しかしながらその若君は早逝し、芭蕉は俳諧の師匠を頼ってその道で食べていくしかなくなる。
町民などが主催する俳諧の席に出て進行役や添削評価をする俳諧師という職業で芭蕉も次第に頭角をあらわしていく。江戸俳壇で地位を築き、門人の杉風の深川の家に庵に結び、他の門人が贈った芭蕉がよく茂ったので「芭蕉庵」「芭蕉」となったらしい。
3月の深川散策で行った富岡八幡宮に芭蕉を祀った社があったことを思い出す。

お上が経済引き締め政策をとると俳諧文化は打撃を受け、そういった中で談林俳諧で活躍していた上方の井原西鶴も作家に転換したらしい。同様に談林俳諧で食べていた芭蕉だが、和歌や謡曲をもじり倒すような流行に辟易し、独自の道を歩み始める決意を固める。全国を漂白しながら歌を詠んだ能因、西行にならい、自分も剃髪、僧形となり行脚を始める。

芭蕉の思索や句作の苦闘の場面はいつも雪隠。しゃがみこんだ便座の金かくし部分の板を握りしめての苦悶というパターンを繰り返す。前口上の中で、芭蕉は一人になりたいと強く願い、一人になれる場所は雪隠だからそういう場面が多くなるとあらかじめ予告してくれているので、その場面になると客席はあきれるというよりも笑ってしまうのだ。芭蕉の思索や句作はもう「ひり出す」という感覚らしい。さらにその木製の便座はひっくりかえすと文台にもなる優れものの小道具で、驚いてまた笑ってしまう。

「閑さや岩にしみいる蝉の声」は当初「しみこむ」だったのを「い」の音を重ねたいと、一句一句を推敲に推敲を重ね、言葉を絞り出す芭蕉。天才型ではなく努力の人だったのかと納得。
36景の舞台転換は4人の黒衣姿の朗誦役がてきぱきとこなす。書割や小道具を運び、頭巾を上げて進行の説明もし、差し金で蛙や赤蜻蛉も飛ばす。さらに4人で芭蕉を乗せた台を回す盆回しまでやる。だから「ほぼ一人芝居」。

『野ざらし紀行』の中にある捨て子のエピソードも盛り込まれたが、本当は食べ物を投げ与えてそのまま去ってしまうところを、井上ひさしは戻って手をさしのべさせてしまう。抱き上げたら息の根は止まっていたのだけれど・・・・・・。芭蕉の時代は行き倒れて野にさらされたままの髑髏があるのも特別なことではなく、責任を持てなければ捨て子を拾うという人道性の発揮も当然ではない。そのような無常感を持ちながら、一人一人が必死で生きていくしかなかったのだろう。

人は「天命」に従って一人で生まれて生きて一人で死んでいくものだという感覚が、今の私にはある(もちろん「天命」というものは自分が生きる中で見つけるものだ)。それがこの作品の芭蕉像と実によく重なり、共感また共感に包まれながら見入っていた。
「時めいていた過去」と「滅ぶしかない未来」を漂わせるのだともいう。「夏草やつわものどもが夢の跡」などの句もそれに該当するのだろうか?すべては生成・発展・消滅するものだが、だからといってそのことが無意味なのではなく、その過程にこそ意味があるし、味わうべきものもあると思っているので、こういう感覚も共感至極。

井上ひさしの芝居は下ネタが盛り込まれているものだが、あまりに雪隠の場面が多いからか(笑)、お色気の場面は象潟の海士の苫屋に泊った時に他人の情事を覗き見できてしまったというくらいのものだった。蛸と女人の浮世絵で言わずもがなにするのが憎い。

「荒海や佐渡に横たふ天の河」の場面では、舞台に穴の開いた幕が広げられたと思いきや、舞台奥からの照明で客席の脇の壁や天井に天の河が出現した。その美しかったこと!
旅から戻った芭蕉は、ついには文台も投げ捨て、庵も売り払って旅の中で詠む暮らしをする決意を固める。「侘び」、「さび」とか「新しみ」、「軽み」とか、さらに芸術性を極めていく道をすすんでいくが・・・・・・。

そして最後も舟の上の場面。舳には芭蕉の棺が乗せられて朗誦役は門人役として乗り込んでいる。だから「通夜舟」なんだなぁと納得(大阪で客死した芭蕉を遺言に従って粟津の義仲寺に埋葬すべく、伏見まで川を上っている)。
三津五郎はその船頭になっている。その船頭はなんと女房の目を盗んで俳諧の道にのめりこんでいる。嬉しそうに「俳諧のコツは、俗っぽく、ちょっとふざけて、目先を変えて」などとひとりごちている。
俳聖と呼ばれるまでに芭蕉が極めた俳諧の世界は、こうした庶民のところまで広く継承されることはない。実に皮肉のようだが、ちょっとかじった素人の作品でも先生が褒めてくれるのが嬉しくて、礼金をへそくりで払ってまで俳諧を楽しんでいる。三津五郎は苦悩する芭蕉の役もよかったが、こういう三枚目の庶民の役にも軽みが自然に出ていて実によい。
まさに「大衆性と芸術性の相克」が俳諧の世界にもあることを突きつけた幕切れだ。これはあらゆる芸術・芸能・文化の領域にあることで、いずれも必要なことなのだと理解している。そう受け止めてしまえば、この幕切れも実に味わい深いものだった。

作家を主人公にした評伝劇シリーズは井上ひさし自身が投影されているが、この作品にもそれが強く感じられた。松尾芭蕉の人生や作品についてもっと知りたくもなった。
また、三津五郎が実によかった。歌舞伎以外の現代劇にも意欲的に出演を重ねているのが結実したのだろう。また、襲名以来俳句を始めていたということでこの膨大な台本がすっと頭に入ってきたのだとのこと。同様に俳句を嗜む小沢昭一という怪優に当て書きされた脚本でハードルは高かったと思われるが、三津五郎はそれを超えていった。それを観ることができたのも嬉しいことだ。

三津五郎は10月の国立劇場で「塩原多助一代記」を主演する。塩原太助という実在の人物を踏まえた芝居ということで、これも楽しみだ。

ネット検索でみつけたサイト「あの人の人生を知ろう」の「松尾芭蕉の生涯」の項はこちら
「俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース」の「芭蕉の晩年と墓所義仲寺」の項はこちら


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4 コメント

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観劇してみたい・・・ (茲愉有人)
2012-09-13 12:06:27
「芭蕉通夜舟」ですか。観劇したいお芝居ですねえ。

『芭蕉全句集』(岩波文庫)によると、

閑かさや岩にしみ入る蟬の聲 (おくのほそ道 元禄7年成 元禄15年刊)
 という成案を筆頭にして三句所収しています。

 立石寺
山寺や石にしみつく蟬の聲  (曾良書留 曾良自筆 元禄2年稿)
さびしさや岩にしみ込蟬のこえ (初蟬 風国編 元禄9年刊)
淋しさの岩にしみ込せみの聲 (こがらし 壺中・芦角編 元禄8年刊)

句全体に呻吟、推敲している気がします。どこまでも句の芸術性を追求したのでしょう。この辺りの推敲過程を舞台で句を語りながら演じていたのでしょうか?

『野ざらし紀行』のエピソードは紀行文の最初近く冨士川のほとりでのエピソードですね。舞台では背景がどのように設定されていたのでしょうか。興味があります。

『野ざらし紀行』原文では、 
「猿を聞人捨子に秋の風いかに」という句を詠んでいます。
この句の前に、
「露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてろをるに」と記していますので、「抱き上げたら息の根は止まっていたのだけれど」という井上ひさしの創作は演劇効果を意図したのでしょうね。
この句の後に、芭蕉の感懐が記されています。芭蕉の考えが表出しているのではないでしょうか。
「いかにぞや、汝ちちに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきなけ。」
(『芭蕉紀行文集』・岩波文庫) 芭蕉は天命観を持っていたのでしょうね。

「夏草や兵共がゆめの跡」(猿蓑)も、「奥州高館にて」という同じ前書付きで、「なつ草や兵どもの夢の跡」(泊船集)の初案があったようです。「の」から「が」への転換!助詞一字で句意が大きく変化しますね。

象潟での情事の覗き見も、井上やすしの舞台のおもしろさを加える創作なんでしょうね。原文に直接関連することは「捨子」の記と違って、「おくのほそ道」には出てきませんから。しいていえば「波こえぬ契ありてやみさごの巣 曾良」からの連想の発展での創作でしょうか。

それにしても、36景の舞台転換はすごいですね。能舞台的手法を利用しているのでしょうか・・・・

『芭蕉入門』(井本農一著・講談社学術文庫)によれば、「秋深き隣は何をする人ぞ」を詠んだ翌日の夜から寝込み容態悪化。旧暦10月8日の深更午前2時ごろ、看病中の呑舟という門人に「病中吟」との前書きをつけ、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を書かせたとか。11日には門人・其角が病床に駆けつけ、付き添う。10月12日午後4時頃、芭蕉永眠。
翌13日に義仲寺に運び入れられたとか。大津の智月尼がかけつけてきて遺骸に対面し、「ことのほか落涙」したと記されています。14日ま夜中12時ごろ境内に埋葬。門人の焼香者80人、聞き伝えて来た会葬者300余人だったとか。

義仲寺は、ウォーキング仲間と2度ほど門前を通り過ごしながら、未だ境内を訪れていません。いずれ芭蕉翁の墓を見学に訪れたいとは思っていますが。

マニアックな感想になってしまいましたが、拝読してついつい・・・・




文字化け (茲愉有人)
2012-09-13 12:08:42
セミの旧字が変換できなかったようです。
文字化けしています。すみません。

引用なのでそのままの文字を使ったのです。
★茲愉有人さま (ぴかちゅう)
2012-09-17 00:52:54
返事が遅くなり、恐縮です。
>マニアックな感想......いえいえ、たくさんの情報を有難うございます。
「閑かさや岩にしみ入る蝉の聲」はそんなに何通りも吟じて苦闘していたわけではなかったように思いますが、推敲を重ねた様子はよくわかりました。
捨て子のエピソードの場面では、「いかにぞや、汝ちちに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。・・・・・・」は台詞にしっかりありました。
>芭蕉は天命観を持っていたのでしょうね......そこに共感しきりでした。私も神社仏閣めぐりで祈る時、最近は「天命をつくさせてください」ということも祈っているくらいです。
井上ひさしの戯曲は丁寧に調べに調べ、ひねりにひねって面白く、そして何が言いたいとかがじんわりと伝わるように書かれていて、本当に命を削ったような仕事だというように感じます。
7月に観た「しみじみ日本 乃木大将」の感想も書くつもりですし、次は「日の浦姫物語」の観劇予定もあります。頑張って感想を書くつもりですので、今後ともよろしくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。
感想楽しみにしていますよ (茲愉有人)
2012-09-17 11:24:29
「しみじみ日本 乃木大将」ですか。

乃木大将を祀った乃木神社は京都の桃山御陵の傍にあります。
我が家から、ちょっと時間がかかるといえど、散歩でいける距離ですね。

その近くの道路を通ることはしばしばあるのですが、神社に立ち寄ったのは二度ばかりにしかすぎません。

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