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シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

『作品18』はいつ『出版用に作曲』されたのか?(No.1665)

2009-07-09 03:19:48 | 作曲家・シューベルト(1797-1828
 「自筆譜が残っていない曲全てが新作」とは言い切れないが、自筆譜が残っていない曲の大半は「出版構想」を練ってから手を付けた可能性が高い。Ms.43 が 1821年8月日付、「オリジナル舞曲集」作品9出版が1821年11月29日。作品18出版が1823年2月5日。

作品18は、広く見積もって 1821年12月~1823年1月の構想


と考えられる。この期間に作曲された大作を挙げてみよう。

  1. オペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732 1821.09.20-1822.02.27

  2. ミサ曲第5番変イ長調D678 1819.11-1822.09

  3. 交響曲第7番ロ短調「未完成」D759 1822.10.30-

  4. 「さすらい人」幻想曲D760作品15 1822.11


の4作品がある。壮観な顔ぶれである。順番は「作曲完了 または 放棄された時期」で並べた。
 オペラ「アルフォンソとエストレッラ」はシューベルトにとって『最も意気込んで作曲されたオペラ』の1つ。私高本は「シューベルトオペラの最高傑作」と思う。アバドは「フィエラブラス」が最高傑作と明言しているが。
 1820年はシューベルトにとって画期的な年の1つとなった。

  1. オペラ「双子の兄弟」D647 1820.06.14上演

  2. オペラ「魔法の竪琴」D644 1820.08.19上演


とオペラが舞台に掛かったのである! 『オペラ作曲家として飯を喰って行ける!』とシューベルトが期待に胸を膨らませていたことは、手紙からはっきり読み取れる。そして次に作曲したのが「アルフォンソとエストレッラ」D732 である。友人ショーバーの台本で、ショーバー宅に寝泊まりして「台本ができると即作曲」と言う流れ作業で極めて集中して作曲された。「オリジナル舞曲集」は、「アルフォンソとエストレッラ」作曲以前に完成稿が出来上がっていたと考えるのが妥当であろう。つまり、1821年9月21日以前に「作品9」は完成していたと考えられる。
 すると、1822年2月27日までは「作品18」完成稿には手を付けていないと推測される。


 「未完成」交響曲D759 は、「さすらい人」幻想曲の作曲依頼が来て作曲中止された。1822年10月30日に「未完成」作曲開始、「さすらい人」幻想曲同年11月作曲開始、翌1823年2月24日出版。1822年12月7日のシュパウン宛の手紙では「完成した」と明記されているので、12月6日以前には完成している。この時期(1822.10.30-11)も作品18に手を付けた可能性は極めて低い。


 この間に完成されたのが、ミサ曲第5番D678 であり、1822年9月である。3年かかりの大作と言うのは、シューベルトではこの1曲のみである。ミサ曲に限らず、オペラや交響曲でも他には無い。
 作曲が中断された主な理由は、

  1. オラトリオ「ラザロ」D689 作曲 1820.02

  2. オペラ「双子の兄弟」D647 1820.06.14上演

  3. オペラ「魔法の竪琴」D644 1820.08.19上演

  4. オペラ「サクンターラ」D701 作曲 1820.10

  5. 弦楽四重奏曲第12番ハ短調「断章」D703 作曲 1820.12

  6. 交響曲ニ長調D708A 作曲 作曲年未確定だが1821頃

  7. 交響曲ホ長調D729 作曲 1821.08

  8. 「36のオリジナル舞曲集」作品9 D365 1821.08頃作曲 1821.11.29出版

  9. オペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732 作曲 1821.09-1822.02


が原因である。オラトリオ「ラザロ」と、オペラ「サクンターラ」から交響曲ホ長調の4作品の合計5作品は完成されていない。つまり、

「36のオリジナル舞曲集」作品9 と オペラ「アルフォンソとエストレッラ」のみが完成作品


である。理想を求めては行き詰まりを繰り返していた時期であり、シューベルト作風が「大きな作品」になって行く最初の時期に当たる。(名作自体は初期作品にも数多い。)
 先の「1822年12月7日シュパウン宛の手紙」にこのミサ曲の完成についても明記されているので、わずかな箇所が1822年に作曲されたのではなく、多くの曲が1822年に作曲されたと推測される。



  1. 1822.02.28-1822.08
  2. 1822.09後半-1822.10.29
  3. 1822.12-1823.01前半

 このどれかの期間に作曲されたのかは断定はできない。


 別の面から見てみよう。シューベルトが生前出版した舞曲集一覧である。

  1. 作品9 1821.11.29出版

  2. 作品18 1823.02.05出版

  3. 作品33 1825.01.08出版

  4. 作品49 1825.11.21出版

  5. 作品50 1825.11.21出版

  6. 作品67 1826.12.15出版

  7. 作品77 1827.01.22出版

  8. 作品91 1828.01.05出版


 全て「11月下旬~2月前半」に集中している。そう、ウィーンは「冬がダンスシーズン」だからだ!
 1822年8月以前に作曲された可能性は、他の出版舞曲集と比べた時に極めて可能性が低いと考えられる。出版まで期間が空きすぎていて「時期遅れになりかねない」2月に出版されているからだ。
 さらに「作品18」以外の舞曲集は、11月~1月に出版されている。「作品18」だけが「2月」に遅れているのだ。私高本は「ウィーンの冬がどれだけ寒くて、ダンスシーズンがいつまでか?」は正確には知らないが、『冬 = ダンスシーズン』で、新年前後に最も華やかな舞踏会が開催される、とニュースでは見聞きしている。


 「作品9」が 1821年8月~9月構想作曲 → 11月29日出版 なので、2ヶ月程度あれば、出版社は印刷&販売に余裕があるようだ。楽譜が込み入った「さすらい人」幻想曲1822年11月作曲開始1822年12月6日前に作曲完了 → 1823年2月24日出版 なので、曲数は多くとも楽譜制作が楽な舞曲集ならば2ヶ月のスケジュールを立てたいだろう。1822年8月に出版社ディアベリが楽譜を受け取っていたならば、「ダンスシーズン開始前」の11月に出版した可能性が極めて高い。


 10月29日までに楽譜を受け取っていたら、11月には間に合わなかっただろうが、12月末 または 1月初には出版したと推測される。 新年の出版は「作品33」「作品77」「作品91」と3作品もある。全作品「出版用の署名入り自筆譜が存在しない」ので断定はできないのだが。


 とても興味深い資料が D145 には残されている。

1823年に作曲されたとほぼ断定されている エコセーズ第8番 D145/E8 自筆譜第2稿 = 嬰ト短調版


の存在だ。おそらく次の順序になるだろう。

  1. Brown Ms.29 (1818.11 Zselis)嬰ト短調版 2/4 16小節
  2. Brown Ms.48 (1823?) 嬰ト短調版 2/4 16小節
  3. 作品18 ロ短調版 2/4 8小節

「ワルツ」と「レントラー」を作曲終えて(?)、退場行進曲であるエコセーズを選択している際、どうしても取込たかった曲がこの曲のようだ。
 Ms.29 よりも アーティキュレーション が緻密に書かれた Ms.48。出版時には「テンポが倍速くなった ロ短調の8小節版」となった。そこまで改変してまでも出版したかった名作なのだ!


 状況を丁寧に洗い出すと、「作品18」の構想&完成版作曲時期はどうも出版直前ぎりぎりだったようだ。

「さすらい人」幻想曲作品15 D760 作曲完了直後に構想に入り、1823年1月前半に完成した 作品18


がおそらく99%くらいの確率で正しい。忙しかった理由は「未完成交響曲」作曲 → 「さすらい人」幻想曲依頼を受けて作曲である。やきもきしたディアベリは「さすらい人」幻想曲出版前にこの「12のワルツ、17のレントラー、9のエコセーズ」を出版している。彫刻師が「楽」なこともあるが、それ以上に「ダンスシーズンに間に合わせたい」意向があった、と推察される。時期遅れに成りかねない時期だったからだ。


 この「作品18」までをシューベルトは「何も考えずに」ディアベリから出版した。ディアベリに「いいようにふんだくられた」ことを理解したシューベルトは、次の作品(= 作品20の歌曲集)から、『ザウアー=ライデスドルフ社』と契約して出版を開始する。「作品21」出版のわずか2ヶ月後の1823年4月10日に出版されている。楽譜を渡したのは「作品18」出版頃なのだろうか?
 「作品18」は「世間の嫌な駆け引き」を知らない最後の瞬間に作曲された作品である。もう1回振り返ってみよう。

  1. オペラ「アルフォンソとエストレッラ」D732 1821.09.20-1822.02.27

  2. ミサ曲第5番変イ長調D678 1819.11-1822.09

  3. 交響曲第7番ロ短調「未完成」D759 1822.10.30-

  4. 「さすらい人」幻想曲D760作品15 1822.11

  5. 12のワルツ、17のレントラー、9のエコセーズD145作品18 1822.12-1823.01前半

  6. ピアノソナタ第14番イ短調D784 1823.02


と言う豪華なラインナップ! 「作品18」の位置付けはシューベルト自身にとって極めて高く、5年前の名作を1度ならず2度も手を入れて出版に漕ぎ着けたのだ!!
 D番号 が飛んで D678, D145 が入っているのが嫌でも眼に付く。


 この稿の最後に、『シューベルト作品カタログ旧版(1951)』に登場願おう。

    D145 の項目に「以下を参照せよ」と明記


    D299の前


    D679の前


    D697の前


    D729の前


    D769の前



 つまり

D145, D298A, D678A, D697A, D728A, D768A と名付けられて良い作品群 とドイチュ は考えていた


のである。ドイチュ は、「作品の着手時期」でドイチュ番号を決めた。

Ms.9 「12のコーダ付きのフォルテピアノのためのドイツ舞曲 1815年」


が標題である。この舞曲集の「2番トリオ」が D145/W9 である。別の舞曲集に収められた1曲を転用しただけである。ドイチュ は「作品着手時期」をできる限り早い時期でドイチュ番号を定めた。舞曲集が最もわかり難い曲集であり、できる限り多くの時期を「D番号で参照せよ」と明記しておいた。『新シューベルト全集 作品主題カタログ = 新版』は、この記述を大巾に削減してしまい、実際に『新シューベルト全集舞曲集I(BA5529)』を購入して、しかも目次でなく、楽譜全部に目を通さないとわからないようにしてしまった。(個別曲にD番号は振られているだけ!)これでは、使い難い。「次回のシューベルト作品主題カタログ」では、ドイチュの方式に是非戻してほしいモノだ。

「作品18」は D768A と称するのが「構想時期」には最もふさわしい舞曲集である。


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