ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

私をくいとめて @ T・ジョイ京都

2020-12-20 15:23:48 | 映画感想
ぶっちゃけ、のん推しです。



「のん推し」と言っておきながら申し訳ない。
彼女のすごさをどう表現したらいいのかわからなくて困っている。

大女優というほどには貫禄をもたない(失礼!)、実力派というほどには作り上げられたものを感じない(こらまた失礼!!)。
でも間違いなくすごい、と感じるこれをどう表現したら良いものか。。。
演技というよりも素に見える。いや、素に見える演技に見えない演技をするというのはなかなかにすごい事ではないか。「自然な演技」、とでも言えばいいのだろうか。いや、言ってみたもののそんな安っぽい言い方ではもったいない気がする。

考えてみれば「あまちゃん」のアキちゃん自体がそういう存在だ。
アイドルとして売り出そうとするにも、明らかにキラキラしたユイちゃんの隣で可愛いけれどちょっとぱっとしないけれどなんかちょっとちゃう何かを持っている主人公。

のんの魅力とは一体なんだ?

そして今回の映画。

脳内にいるもう一人の自分「A」と日々会話する主人公みつ子。

明らかに1人なのに妄想の中でもう一人の誰かといつも会話しているという人というのは確かにヤバイ。
けどどうだ?みつ子は映画的に(小説的に)脳内の仮想他人の自分Aに影響され振り回され明らかに会話も声に出してしているので滑稽に見えるが、誰でも自分の中に仮想他人の自分Aを持っているのではないか?少なくとも儂は持っているけどどうだ?みつ子ほどにそのAを他人に見立てて別人格をもたせて日々楽しんでいる人は多くないかもしれないけれど。
(ちなみに儂の脳内仮想他人の自分Aはかなり無口で控えめなタイプですが。。。それ以上は聞くでない)

それを演じてみせる面白さよ。
一番わかりやすかったのは数年前の歯医者の先生(?)に浮かれるところ。

でもこの映画がそれで済まないところは、その面白さを使いながら単純なコメディにしてしまわなかったというところだと思うのだ。
むしろ、その設定によって浮かび上がらせたのは、自分の内側にある誰にも見せられないドロドロであったり隠しきれない葛藤であったりどうしようもない不甲斐なさであったりどうして良いかわからない不安であったりといったネガティブさである。

脳内仮想他人の自分Aがいるという面白さは、脳内仮想他人の自分Aの存在で客観視される事でなかなか一人では見ることができない現実を俯瞰する事も出来てしまうという残酷さにつながることだってある。

例えば、一応最後はハッピーエンドだと思うんだけれど、どうしてもこのカップルがこの後も順風満帆の(つまり、このまま付き合って結婚して何の問題もなく幸せに老後まで添い遂げるというような)幸福な結末を迎えられるとは思えない。ただ一方で、ここで二人がとりあえずカップルとして付き合い始めることは必然だとも思う。

人の心というのは繊細であり、人生とはかように複雑であり、それを経験する事は遠回りと思われても必要なのであろうと。あぁ、モドカシイモドカシイ。

脳内仮想他人の自分Aは、決して達観した人物ではない。
だってそもそも(おそらくいつまでたっても未熟な)自分なんだもん、当たり前じゃん。
ならば、彼が教えてくれるのは投稿した人生相談で偉そうな著名先生が自分の知らない知識をひけらかして与えてくれる高級難度の精神論ではなく、もともと自分が持っていたキャパシティで考えられる範囲の回答でしかない。
儂らは脳内仮想他人の自分Aというエクスキューズを使って、脳内仮想他人の自分Aとともに経験を積んで成長していくしかないのだ。

このお話の中では脳内仮想他人の自分Aの存在というのは「31歳おひとりさま」の淋しい生活をなぐさめる為につくられたもの、みたいなポジションで語られているように思えるけれど、いやそのもの言いはキャッチーでとっかかりとしてはいいと思うのだけど、それだけで済ませるのは勿体ないとは思わないか?

みつ子はそれのせいでちょっと残念な人に見えるかもしれないけれど、逆に彼女の人生の楽しみ方は魅力的でもある。結局、儂らはみつ子の魅力にやられて彼女を応援したくてたまらなくなる。それは脳内仮想他人の自分Aのおかげで豊かな感受性を持ったままで居られる彼女が羨ましいからでもあると思うのだ。
なんだかんだあったとしても脳内仮想他人の自分Aを設定して日々の生活を楽しめるバイタリティを持てるみつ子という生き方はきっと楽しいんだよね。

そういえば、ゆいちゃん(橋本愛)、イタリアに住んでるのね。
二人の会話の感じとかええわぁ。やっぱりあまちゃんを思い出してしまう。。。

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