を観てきましたよ。
まぁ悪くはなかった。
多分アレだ。
期待しすぎたんだな。
なんか「ものすげーもん」が観られるんじゃないか、みたいに思っていた気がする。観に行く前は。
いや、「すげーもん」は観れた。いくつかの意味で。
単純に演奏とか。
時代性に対しての解釈とか。
これってどうなの?と思うような演出効果とか。
ただ、儂の印象としてはどれも奇を衒っている、という感じが強く残ったのだ。
「どう?こんなんありえへんでしょ?」
みたいに投げかけられているような気がして。
ありえへんような事だけどひょっとしたらあったかもしれない事だから楽しいし意味があるし興奮するのだ。そんな事知っちょる。
でも、なんかもう一つ飛び抜けたものを期待してしまっていた気がする。
それは森山未來だからなのか、大友良英だからか、湯浅政明だからなのか?
まぁ、全部なのだろうけれど。
(ごめんなさい、アヴちゃんの事はよく知らないのです)
それが期待したものとは違ったとはいえ、音楽は十分現代の儂らの心も揺さぶるもの。いや、多分正確にいえば、ロックっぽい現代的な音と演出をそこに使っているので儂ら現代の文化では解釈しやすく受け容れるのも容易、というだけの事なのかもしれない。
同じような感覚が室町時代の民衆の中にあった事は否定しないが、そこにあった音楽や舞が現代のそれとは全く違うものである可能性の方が高い、なんて事はヤボだから言わないほうが良いっスよ、お兄さん♪
(誰だ?テメーは)
そういえば森山未來は以前清水寺で踊っていたな。
今回の役柄は踊る方ではなかったけれど、犬王の踊りに清水の森山未來は繋がっている気がする。
まぁ、勝手にそう感じているだけだけど。
呪によって異形の身体をもって生まれ少しずつ身体を取り戻すというのはどろろだな。
平家の亡霊の声を聴く。そして舞い、昇華する。
「友有」と名乗り、共にあるのだ、と宣言する彼らの本質は全ての魂の共生なのかもしれない、と思った。
が、結末はどうだ?
権力という理不尽によって御伽噺は突如現実の物語になる。
それで、さいごに2人は邂逅したのか?
犬王の迎合はフェイクだと思って良いのか?
いつだってそうなのだろ?
純粋な魂の物語の中に政治権力は無遠慮に土足で踏み込んで行くのだ。
友有座の幟を汚く踏み躙ったその足はまさしく権力のそれであろう。
人々を揺るがす新しい自由な文化。
それを嫌い陳腐に沈静化させる支配者。
いつの時代の話?
って、これ現代の話じゃんね。
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