光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

名月に照らされる

2007-09-25 19:12:29 | 植物・花(秋)
  先ほど、日没前に、月は東に、日は西にで、月と太陽がにらめっこをしているのを見て、これで、中秋の名月の観賞は終わったと思った。
  雨がお昼近くまで降っていて、でもそれもあっけなく止んで、あとは、雨はこの辺りでは降らなかった。このところ、ちょっと暑そうだと思えば、近道をしたりする。さらに、妙に体のことが気になって、これがよろしくない。大丈夫かな、など心配をしだすとこれが、なかなかの重圧になって、これから抜け出すことが出来なくなる。このことで頭が一杯になる。
  元々そうゆう性格であるようで、例えばちょっとネットがつながらなくなった、そんなことで頭が痛くなったり、顔色が変わる。厄介である。こうゆうものから抜け出すことが、いっとき出来た気がしたが、それが再びもどりつつある。まー自分の思う通りにはならないこと、は、当たり前で、それでも何事もなかった如く振舞える、そうゆうものに近づこうとする。だが、これが、なかなか出来るものではない。結局この問題は最後まで付きまとうだろう。修行とかではなく、ごく普通の生活の中で、どうにかしないといけない。この振動、ぶれ、揺れは、でもやっぱり最後まで、残りそうだ。
  久しぶりに、高々、そう高々である、30分と少しの道を歩いた。足の筋肉が硬直している気もする。やっぱりねー、なだめすかして、歩く。でも、ひどい時よりはましだ。
  久しぶりに、キカラスウリのからまっているところにやって来た。一部の葉っぱは枯れているし、また実もなぜか縮みだしている。これは、もう気付いていたが、理由はわからない。この実が生って何か弊害が起こるとは考えられない。だから、それを人為的に、例えば蔓を切るなどはないと思う。去年のことはもう、うろ覚えだが、こうはまだなっていなかったと思うが。もっとも、このキカラスウリも、あとは濃い緑が黄色くなって、さらに、焼き芋のようになって、最後はいつ落ちるかということが残されているだけで、特に面白いことが待っているわけではない。でも、がんばって蔓にぶらさがっているキカラスウリを応援したくなるのも人情ではないか。
  キレイに咲いているコスモスのところにも当然ながら行くわけだけど、このコスモスは、太陽の方向を向いて咲いている。これに不思議はないが、すぐ南側が田んぼになっていて、この田んぼの稲刈りも終わっているが、なかなか、花を正面から見ることが出来ない。ちょっと残念である。今年のコスモスは、ここの新聞にも見ごろの花の欄に紹介されているが、さほど大きくないその写真を見てもすぐに花が縮れているのがわかるもので、コスモスも生き辛い今年だったのかなという気がする。これから咲くものもまだあるわけで、記者の方もやりにくいな、と思っているに違いない。

  高原、あるいは、高山は、これはもう秋、のはずだが、ホントのことはわからず、TVなり新聞の広告で、紅葉が始まっていることを知らされる。
  ここにもあるカエデも、赤くなっていると思ったら、それは枯れているのであった。まだ、紅葉とはとてもいえないが、ときどき水玉も期待して、真上を見上げる。



  何だかよくわからない写真である。ちょっと黄色いものが見える。”ちょっと”を、”ちょと”などと書いたりしていて、でもそれでもいいかと思う。それとふと気付いたのだが、この空の青さは、なんか気に入らない。ちょっと前の、ヒルガオだかの、写真の青も。



  ここには、紅葉の”この字”もない。でも、これが写真で、少し上の木々と空がうまくぼけて、いい、あるいは不可思議な色合いが出た、思う。

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