ちょっとばかり、目の見え具合がよくなく、目力(メジカラ)もないので、また目薬を探しにゆくときに、地平あたりを見ると、太陽がこのままだと地平線のかなたに沈むようで、印象的というか、いよいよ地球もその位置が真横から太陽の光が当たる位置にやって来たと思う。ちょうど自転軸が、太陽から見て垂直に位置すると、日は真東から昇り、真西に沈むような気がするが、もしかしたら間違っているかも知れない。あれあれ、
これはやはり違うようで、太陽から見ると自転軸がちょうど一番横を向くような位置にあると、地球の球面には、ほぼ自転軸を含む面に、真正面から光が当たるから、こちらの位置が、春分なり秋分になるのであろう。
地球の自転軸は、ほぼ年単位では位置というか、向きを変えない。もっと大きな単位、たとえば1000年とか、10000年とか言うと、この向きは、横道面に対して回転する。これは自転軸の先っぽでいうと、北極星の位置が変わるということと同じで、今は「こぐま座のα星」が天の北極に近いけれど、この位置も回転して、かなりの年代がたつと、円を描いていることになっている。なっているというのは、そのことをなかなか理解できないからで、また完全な円かというのもはっきりとしない。しかし、長い年月をかけて、地球の自転軸は、回転している。
だから今は、天の北極というと、それはこぐま座の辺りにあり、そのところを中心に恒星は回転しているように見える。もっとも、回転しているのは地球ということになっている。そのほうが、理解しやすい。夜に見えるすべての星が、回っているという考え方のほうが、なんだか困難な気もする。それに比べ、地球が回転するという結果は、たとえば自分がくるり回転すると、回りが一回転したように感じる。これからいくと、「すべての星が地球の周りを」というより、「地球がのほう」がずっと楽に理解できる。
なかなかここのところがわからずに時間がかかった。
日が沈む時間が遅くなる。というと、朝の時間が始まるのは、早くなるというわけで、いくら早起きをしても、もうすでに太陽は地平から顔を出しているということになる。だんだんとその位置は、高くなるというのが感じられる。すると、これまで建物の、またある部屋の奥深くまで日が入っていたと思うところが、だんだんと窓のある位置に近くなる。これは南向きの場合だと顕著で、それゆえこれまで日が当たって、暖かかったというのがなくなる。言ってみると、真冬のように日向ぼっこは出来なくもなる。そうゆうことがなくなるのは、少し残念でまた自然とこれまで虫干しが出来たところというのもなくなる。でも、床はというと、これまでの太陽光の密度を考えると、ずっと濃くなり、そこは焼けることになる。それは大体、影の大きさに反比例する。冬は人の影は、また建物の影は長い、このときの光の密度はというと薄めである。これからは太陽の高度がずっと上がってくる。すると、真南の方角だと、人の影は小さくなる。日時計の棒の影の位置と同じである。
そのときの光の密度は濃く、あちあちということになりそうである。
いろいろと考えられることは多い。しかし書いていることが正しいかどうか、少し怪しく、弱ってもいる。
春の先には夏がある、この時期に問題となるのがいかに太陽光を遮るかという問題で、これをやらないと明るすぎるということやら暑すぎるということにもなる。あれだけ寒い寒いと思っていたのに、もう今度は暑さのことを考えないといけないようである。なんとも、ため息の出る問題でもあって、もし北の付く土地、あるいは日本海側の夏は涼しい、と考えられている方がいたら、それは期待はずれで、ある程度の覚悟がいる。冬はさほど寒くはない。しかし、夏はほどほどに暑く、また日本一というときもある。なんでも日本一が好きなところでもあるので、きっと暑さも日本一になって、こちらもダウンしそうな状態になる。
今も何かが問題になるのは、太陽の位置で言うと、これまで日が当たらなかったところに、新たに日が当たるという場合で、これは南の方角に太陽があるより、東のあるいは西のというときが問題になる。これからの太陽は、この右と左の二つの方角にあるときは、これまでよりもぐっと部屋のあるいは建物の奥まで日が差し込むことになる。高度が大きく部屋の中に影響する時間が変わったとも言えるときで、こうなるとこれまで大丈夫だった、ある位置は日が当たり、困ったことになる。そこにコンセントがあったりもする。その他、光が当たると困るような、あるいは当たらないほうがいいものがある場合は、これは困ったことにもなる。またややこしい、世知辛い問題が浮上してくる。西日というものも大いに影響する。
でどっちがいいか、というと、ちょうど今の春分なり、秋分がいいような気もするが、結果としては、そこがどこでどのような配置にということも関係する。なんだかいつものように、歯切れの悪い最後になりそうで、これも慣れないというか、日ごろの行いが悪いのか、結構な重労働を科せられたからで、相当体に、またおつむにも来るものがある。こうして人の寿命は縮まってゆくようで、ますます住みにくい世界があるような気にもなる。もう少しズルをして、いい加減に済ませるか、2、3回に分けてやるべきだった。今頃、後悔している。
これはなんだろうか、と思ってその様子をみていた。しかしきょうはここには行けずじまい。
梅も、ここのものはもうおしまいである。
同じく、紅梅。多分、花はもう散っているかも。
これからの、植物。
この梅も、少し外側にはみ出している。道にはみ出している、木々の、またその枝は結構に多い。しかし、そのまま推移するものが多い。
ここに咲くのはというと、このフキノトウだけとなりそうで、これはしかし違う。オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、その他雑草はがんばっている。
これはやはり違うようで、太陽から見ると自転軸がちょうど一番横を向くような位置にあると、地球の球面には、ほぼ自転軸を含む面に、真正面から光が当たるから、こちらの位置が、春分なり秋分になるのであろう。
地球の自転軸は、ほぼ年単位では位置というか、向きを変えない。もっと大きな単位、たとえば1000年とか、10000年とか言うと、この向きは、横道面に対して回転する。これは自転軸の先っぽでいうと、北極星の位置が変わるということと同じで、今は「こぐま座のα星」が天の北極に近いけれど、この位置も回転して、かなりの年代がたつと、円を描いていることになっている。なっているというのは、そのことをなかなか理解できないからで、また完全な円かというのもはっきりとしない。しかし、長い年月をかけて、地球の自転軸は、回転している。
だから今は、天の北極というと、それはこぐま座の辺りにあり、そのところを中心に恒星は回転しているように見える。もっとも、回転しているのは地球ということになっている。そのほうが、理解しやすい。夜に見えるすべての星が、回っているという考え方のほうが、なんだか困難な気もする。それに比べ、地球が回転するという結果は、たとえば自分がくるり回転すると、回りが一回転したように感じる。これからいくと、「すべての星が地球の周りを」というより、「地球がのほう」がずっと楽に理解できる。
なかなかここのところがわからずに時間がかかった。
日が沈む時間が遅くなる。というと、朝の時間が始まるのは、早くなるというわけで、いくら早起きをしても、もうすでに太陽は地平から顔を出しているということになる。だんだんとその位置は、高くなるというのが感じられる。すると、これまで建物の、またある部屋の奥深くまで日が入っていたと思うところが、だんだんと窓のある位置に近くなる。これは南向きの場合だと顕著で、それゆえこれまで日が当たって、暖かかったというのがなくなる。言ってみると、真冬のように日向ぼっこは出来なくもなる。そうゆうことがなくなるのは、少し残念でまた自然とこれまで虫干しが出来たところというのもなくなる。でも、床はというと、これまでの太陽光の密度を考えると、ずっと濃くなり、そこは焼けることになる。それは大体、影の大きさに反比例する。冬は人の影は、また建物の影は長い、このときの光の密度はというと薄めである。これからは太陽の高度がずっと上がってくる。すると、真南の方角だと、人の影は小さくなる。日時計の棒の影の位置と同じである。
そのときの光の密度は濃く、あちあちということになりそうである。
いろいろと考えられることは多い。しかし書いていることが正しいかどうか、少し怪しく、弱ってもいる。
春の先には夏がある、この時期に問題となるのがいかに太陽光を遮るかという問題で、これをやらないと明るすぎるということやら暑すぎるということにもなる。あれだけ寒い寒いと思っていたのに、もう今度は暑さのことを考えないといけないようである。なんとも、ため息の出る問題でもあって、もし北の付く土地、あるいは日本海側の夏は涼しい、と考えられている方がいたら、それは期待はずれで、ある程度の覚悟がいる。冬はさほど寒くはない。しかし、夏はほどほどに暑く、また日本一というときもある。なんでも日本一が好きなところでもあるので、きっと暑さも日本一になって、こちらもダウンしそうな状態になる。
今も何かが問題になるのは、太陽の位置で言うと、これまで日が当たらなかったところに、新たに日が当たるという場合で、これは南の方角に太陽があるより、東のあるいは西のというときが問題になる。これからの太陽は、この右と左の二つの方角にあるときは、これまでよりもぐっと部屋のあるいは建物の奥まで日が差し込むことになる。高度が大きく部屋の中に影響する時間が変わったとも言えるときで、こうなるとこれまで大丈夫だった、ある位置は日が当たり、困ったことになる。そこにコンセントがあったりもする。その他、光が当たると困るような、あるいは当たらないほうがいいものがある場合は、これは困ったことにもなる。またややこしい、世知辛い問題が浮上してくる。西日というものも大いに影響する。
でどっちがいいか、というと、ちょうど今の春分なり、秋分がいいような気もするが、結果としては、そこがどこでどのような配置にということも関係する。なんだかいつものように、歯切れの悪い最後になりそうで、これも慣れないというか、日ごろの行いが悪いのか、結構な重労働を科せられたからで、相当体に、またおつむにも来るものがある。こうして人の寿命は縮まってゆくようで、ますます住みにくい世界があるような気にもなる。もう少しズルをして、いい加減に済ませるか、2、3回に分けてやるべきだった。今頃、後悔している。
これはなんだろうか、と思ってその様子をみていた。しかしきょうはここには行けずじまい。
梅も、ここのものはもうおしまいである。
同じく、紅梅。多分、花はもう散っているかも。
これからの、植物。
この梅も、少し外側にはみ出している。道にはみ出している、木々の、またその枝は結構に多い。しかし、そのまま推移するものが多い。
ここに咲くのはというと、このフキノトウだけとなりそうで、これはしかし違う。オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、その他雑草はがんばっている。
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