光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

主張のない画像、の平凡さ

2011-03-09 18:40:49 | 植物・花(春)
  大体目的としているのは、花の様子とか、
  それと共存している虫。
  お天気も好きだが、いい具合に晴れているという場合は機嫌はいい。
  星の世界は憧れである。

  デジタルということで、気兼ねせずボタンを押せば
  残る画像は多く、でもそれをしみじみ見ることもない。
  貧乏性というか、買ったのだからと思うので、盛んに使おうとする。  
  なかなか矛盾に気が付かない。




  アジサイ、主張はしていなさそうで、でも思うに、頑張れよとか
  人にいっている余裕はありそうな感じだ。




  その二。




  その三。雪のなくなった田んぼの後。これも主張はないように見える。




  その四。見事に茶色いだけの世界がある。




  その五。水中にある、緑色。これが水中でも大丈夫なのは、ここが水田だ
  からというのはある。




  その六。梅の木。




  その七。遠くからしか見えない、そうゆう木々。




  その八。梅の花、これは主張していたと思う。きれいでしょというように。
  そうゆう風に思うから、うまく写ってと思うが、どうでしょうか。これだけ
  はずれると。梅の意志をうまく伝えられなかった、という感じか。ただ
  咲いている梅。



  
  その九。これはちょっと離れて、街の道の花壇。




  その十。同じものがいくつか。並んでいて、どう見ても3月ではない。




  これはケヤキ。大きな街路樹。ただ細めの枝が目立つだけ。

  
  換気ということもあるので、あるところは少しだけ「新鮮」な空気が入る。今は北風に
変わっていて、それで雨か雪が降っている。この風というか空気の冷たさに悲鳴を上げそう
になるが、一枚余分に着るものを増やしたりということをやる。今頃、時雨るのはありそう
だが、雪が降るとかあっていいのかという気はする。外の気温は、恐らく2℃とか3℃という
程度だろう。冷蔵庫の中の冷気で、冷凍だとちょっと足らない。

  昔のいえ、というのを思い出す。昔のいえは一言でいうと、大きく、それで空間はあっ
た。外と一応は遮断されていて、でも冬は室内でも0℃とかになった。そうゆういえに私は生
まれたのではなく、私の父とか、叔母とかはそこで生活をしていた。それから祖父母もそう
で、当然か。ほとんどのことを知らないで、知っているのは自分が学校の休みとかに遊びに
いっていたころの時だけ、といっていい。少し補足すると、祖父母もその時代を終えるとい
うときがあるから、そうゆうときは、例えば葬儀とかには出た。そうゆうことがそのいえで
出来たというのが昔の「いえ」だが、
  もう一つ特徴的というのは、広い割りにものはほとんどなかった。ガランとしていたの
である。でも先に祖父が亡くなってというときが来て、残った祖母はその後も長生きをして、
でも最後のある時間は長く病院のベッドで寝たきりとなった。そうゆうときの、前!に時々だ
が私もいったことがあって、その中でも思い出されるのは、いくつかのご飯を炊く鍋、釜が
その広い、昔ながらの囲炉裏の回りに置かれていたということ。一々中を見ることはなかっ
たがきっと、そのご飯を炊く釜の中に白米は入っていたのだろう。それがそのまま置かれて
いて、特に感じ入ることはなかった。

  今はご飯は小さい鍋で炊いて、それもなかなかなくならず、さらにカビが生えるという
時間がまた復活しそうだが、時代に関係なく思うようにいかないことは増えてくる。最近の
調子はいかがですかとか聞かれることがあるが、いや年ですよ、老化現象が激しくてとか受
け答えしていると、それはお互い様ですよという返事が返って来て、そうかも知れないと思
う。なるほど年齢はかなり違う、かただがそれに関係なく、やるべきことはあるだろうと今
は思う。ただ、そうゆうことを同じ年齢になられても、また同じように聞かれることが、そ
の方もあるだろうが、果たしてどう答えるか。私も、こう老けるとかは思っていなかったの
だけど。




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