goo blog サービス終了のお知らせ 

ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

溜まっている千葉日報新聞 - 12 ( 「蛸壺史観」 )

2025-01-18 15:07:14 | 徒然の記

 今回は、共同通信社の記事に戻りました。同社によるインタビュー形式で書かれています。

 ・2025 ( 令和7 ) 年は、「昭和100年」にも当たる。

 ・自分が書いてきたのは「同時代史」であり、これからは「歴史」の解釈に移行する時期だと語る。

 戻ってきた記事の最初の6行です。これが年頭に語った氏の言葉だとすれば、氏は自分のやってきた間違いが今も分かっていないことになります。

 「帰国した兵士の手紙」を読み、「ねこ庭」は氏が「同時代史」を客観的に書いていないことを知りました。「反戦平和」の思考に立ち、日本の過去を否定する側からの歴史を終始書いています。妻や子や家族を守るため国に命を捧げた兵士の言葉は、一つも取り上げていません。

 氏の姿勢は「恨みと憎しみのない」客観的事実の整理をせず、反日リベラルの立場から解釈した意見を述べることです。そんな氏が、

 これからは「歴史」の解釈に移行する時期だ・・というのでは、これ以上どのような解釈をするのかと空恐ろしくなります。

 ・僕は、こんな事実があるという話を掘り起こしてきました。それは同時代の感情にまみれている。

 ・歴史的解釈というのは、そうした情を削りながら考えることなんです。

 「ねこ庭」から眺めますと、氏がまみれている「同時代の感情」は「東京裁判史観」に他なりません。氏が削り取らなくてならないのは、日本をダメな国とする「東京裁判史観」ですが、気づいている気配がありません。

 ・20世紀において、特攻とか玉砕とか最後の一兵まで戦うという国は、日本以外になかったですね。どの国も兵の消耗率を考えて、無理なら撤退した。

 すっかり著名人となった氏の意見が、共同通信社の提供する1ページを使って掲載されています。今年もこれを読む国民が騙されるのかと「ねこ庭」は考えます。

 「温故知新の読書」で教えられた、毛沢東の言葉があります。 

 ・中国軍には、日本にあるような近代的武器はない。しかし中国には11億の人民の武器がある。

 ・日本との戦いにはゲリラ戦が最も有効で、敵が怯んで動けなくなるまで人民軍を投入する。日本軍はたかが2 、30万人の部隊だ。11億の人民の武器が押し寄せて包囲したら、時間と共に補給路を断たれた日本軍は孤立し、我々が勝利を手にする。

 砲弾が尽きるまで敵を倒しても、地からでも湧いてくるようにゲリラ兵が襲って来たと言います。ゲリラ戦の激しさは、同時に中国軍の人間消耗戦の信じられない激しさでした。

 兵を武器と考え、たとえ1 億人失っても中国にはまだ10億人の人間がいると豪語した毛沢東について、氏は知らないのか、それともわざと語らないのか。

 中国共産党軍のゲリラ戦を知っている人間には「どの国も兵の消耗率を考えて、無理なら撤退した。」という氏の説明が作り話だと分かります。

 それなのに今年も「こんな国は、日本以外になかった」と、氏が日本の悪口を言っています。記事にする共同通信社も、どうかしているのでないかと考えさせられます。

 ・玉砕とか同時代の中では「愚かだな」というけど、歴史的解釈ではどうなるのか。

 ・人間をこれだけ粗末にした国が、なぜ今ある姿になっているのかを考え抜くべきなのです。

 なるほど共同通信社は、氏のこの言葉を記事の見出しに使っていたのです。人間を消耗する武器と考え、ゲリラ戦で大量消耗させた中国共産党の国が、氏には人間を粗末にした国と映っていないようです。

 話が横道へ逸れますが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、小林よしのり氏が保坂氏を評価した言葉を見つけましたので紹介します。 ( ウィキペディアの情報だったと思います。)

  ・戦争の原因を自国の中でのみ探り、外国の視点がまったく抜け落ちているため、狭い蛸壺に入ってしまったような歴史観になっている

  ・小林は、保阪の歴史観を「蛸壺史観」と評している

 「日本だけが間違った戦争をした」「日本だけが悪い国だった」という「東京裁判史観」の蛸壺から、首だけ出して氏は世界を眺めています。

 「女性宮家」と「女系天皇」に賛成するなど、小林氏も保守か左翼かよく分からない人物ですが、この評価は「言い得て妙」の感があります。

 ・取材で米国やロシア、中国などを回るたびに、必ず自分と同年代の人間を探し出して話を聞いた。

 ・その中で気づいたことがある。

 ・「あなたは軍隊経験があるか。」と聞くと、たいてい「ある。」と答えます。

 ・そこで「自分は鉄砲を持ったことがない。」と話すと、みんなびっくりするわけ。同時に「その方がいいよ。」と、うらやましがる。

 取材で米国、ロシア、中国を回っても、「蛸壺」から出て話を聞かない限り、ツボに邪魔され相手の話が体全体に響かないのではないかと、そんな気がしてきました。「ねこ庭」が審査員だったら、「蛸壺史観」を今年の「流行語大賞」にします。

 次の記事は節を変えて、共同通信社が「まやかし」という見出しをつけています。この記事は「まやかし」ですと、読者に注意喚起しているのか、よく分かりませんが、ちょうど良い具合にスペースがなくなりました。

 「まやかし」の記事の検討は、次回になります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 11 ( 帰国した戦友からの手紙 )

2025-01-18 09:01:10 | 徒然の記

 今回紹介する手紙は、亡くなった戦友の細君へ、死なずに帰国した兵士が出した手紙です。

 自分だけが生還した後ろめたさに、戦友の家族に訃報をすぐに伝えられず、一年余も迷った挙句、「それでは松下君の英霊に申し訳なく」と、やっと出した手紙です。

  〈 亡くなった戦友  松下 八寿雄氏 

    京都府船井郡出身、自作農、45才、軍属

    昭和19年7月 ニューギニア・サルミにて戦死

    妻と子供五人

  〈 帰国した戦友   世津 定弘氏 

     滋賀県滋賀郡出身 自作農

〈  昭和20年7月5日出し、松下氏の妻・きさのさん宛の手紙 〉

   ・拝啓、初夏の候、貴家ご一同様には、ますますご清祥の御事と存じます。

   ・小生この度、復員を致しまして、ご家族の皆々様に、このお便りを差し上げます心の苦しさをお察し下さいませ。

   ・ご主人様、松下君には、出征以来無二の親友として交わり、お互いに助け合い励ましあって、幾戦線を超えました。
 
     ・昭和19年4月戦況の悪化により、ホーランジャよりサルミへの転進を開始。
 
   ・死の転進行軍二ヶ月余、無事サルミに到着し、同地にありて作業中、7月1日の大爆撃にて松下君は不幸爆死されました。
 
    ・小生、丁度その日は別の作業にて夕方帰隊、松下君の悲報に、墓前にて思わず男泣きに泣きました。
 
   ・朝の元気な顔が、夕には魂と変わりませしこの姿に、ただただ胸迫り、運命とは言いながら、幾年月苦楽を助け合った二人でしたが、松下君の御魂を抱いて一年余今自分は故国に帰り来て、ご遺族の皆様にご報告する小生の胸は、張り裂けんばかりです。
 
  ・いっそのこと、公報にてご承知されるまで、お知らせ致すまいとも思いましたけれど、それでは松下君の英霊に申し訳なく、今ここに拙き筆を運びます次第。
 
  ・ご家族様には、さぞさぞ御驚き、御悲しみ、いかんとも御慰めの言葉も、これなく。皆々様も、ご自愛専一にて、新日本建設にご奮闘なされてこそ、地下の松下君も、成仏されることと信じます。
 
  ・いずれ一度は、御墓参りに参上致したく思いますれども、先ずは取り敢えず、書面をもって、ご通知、お悔やみを申し上げます。     敬白
 
 
 この手紙は8年前の平成30年、「ねこ庭」の過去記事から転記しています。保坂氏と共同通信社の記事のように、多くの説明はありませんが、今でも読むと目頭が熱くなります。
 
 4000人もの兵士に話を聞いたのなら、保坂氏は他国の人間を殺した兵士の話だけを集めるのでなく、殺された側の兵士の言葉も紹介できなかったのだろうかとそんな思いがします。
 
 日本を「人間を粗末にした国」と語りたくて、日本を批判する例に偏っている氏の姿勢が、読者の心に響かない記事にさせているのではないでしょうか。多くの説明をしなくても、兵士の言葉をそのまま伝えた方が読む人に迫ったのかもしれません。「帰国した戦友の手紙」は、ご本人の言葉だけで戦争の悲惨さと苦しみを伝えている気がします。
 
 今回は戦友からの手紙を紹介するにとどめ、これ以上のコメントを差し控えます。次回は、残りの記事の紹介と検討作業に戻ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 10 ( 保阪氏の経歴と、氏の話 )

2025-01-17 19:33:20 | 徒然の記

 腰を据えて、保坂氏と共同通信社の記事を検討すると決めましたので、同社の記事を全部紹介します。

 ・終戦の日を保坂少年は、北海道南部の八雲町で迎えた。

 ・当時5才、翌年4月に新たに生まれ変わった八雲小学校に入学した。

 ・自らを、「戦後民主主義の第一期生」と語る。

 ・戦時の灯火管制がなくなり、街が明るくなった。それが保坂さんの戦後の始まりだった。

 次の9行を転記して分かりましたが、紙面は「ねこ庭」が予想していた氏の寄稿でなく、共同通信社によるインタビュー記事でした。

 ・小学校の校庭に、天皇の御真影と教育勅語を収めた奉安殿があったんですね。戦時中は神聖な場所です。

 ・それをある日、校長がツルハシを振るって壊していた。子供心に、何でこんなことをするのかと思いましたね。

 「ねこ庭」の管理人である私が生まれたのが昭和18年12月9日で、昭和14年12月14日生まれの氏は、5才年上になります。

 当たり前の話ですが、氏が小学校一年生だったのは昭和20年で、私が一年生だったのは昭和25年です。小学校の正門脇の築山にあったのは、奉安殿だったのか、奉安殿跡だったのか、自分の記憶を辿ります。

 連合国軍 ( GHQ ) による統治が、昭和20年9月から昭和27年4月まで約6年半ありました。

 サンフランシスコ平和条約の発効が昭和27年4月で、日本の独立はこの時、つまり私が一年生に入学した2年後です。

 GHQが全国の学校にある「奉安殿」をそのままにしておくはずがありませんので、私の記憶にある「奉安殿」は「跡地」だったことになります。

 私も「戦後民主主義の第一期生」の範疇に入るのかどうか知りませんが、氏の話は自分の記憶と重なります。

 ・午後3時20分になると、みんな学校近くの踏切まで走りました。

 ・進駐軍の米兵を乗せた列車が通る時に、ガムやチョコレートを投げてよこすからですね。

 ・僕は父親に「拾うな」ときつく言われていたので、美味しそうに食べている友達が羨ましかった。

 私の思い出は列車でなく、街を走る米兵のジープでした。追いかけて来る子供たちを見つけるとジープを止め、ガムやキャンデーを手渡しでくれました。差し出される子供の手の数が多かったので、与える菓子がなくなると彼らは手を振って走り去りました。自分もガムやキャンデーをもらったのか、どんな味がしたのか、何も覚えていません。

 ・授業を突然自習にして、窓際で外を見ながら涙を流している先生とかいましたね。

 ・戦争で家族を亡くしたんです。そう言う時代でしたね。

 慌ただしい戦後でしたから、5年も経つと世相が変わったのでしょうか。私の記憶には、子供の前で涙を見せるような先生はいませんでした。

 次の記事は氏の話でなく、共同通信社の説明です。

 ・京都の大学を卒業後、会社勤務を経て、1970 ( 昭和45 ) 年代から戦争の聞き書きを始める。

 ・「兵士は何のために死んだのか」を知りたかったと言う。取材相手は、川べりなど人気のないところへ連れ出して聞く。

 ・すると兵士たちは、時に家族にも話していない、胸の内をとつとつと明かした。

 次の記事は、インタビューに答えた氏の話です。

 ・早稲田の英文科を出てインドネシアで従軍した人ですが、不意打ちで休息中のオーストラリア兵らを全滅させたんですね。

 ・死んだ中に、手紙を書いている途中の兵士がいた。

 ・読んだら、「お父さん、お母さん、あと1週間で除隊です。帰ったらあのレストランで、食事をしましょう。」とある。

 ・彼は手紙を捨てることができなくて、靴下の中に入れて引き揚げてきたのです。そして「保坂さん、預かってくれないか。」と言う

 ・断りました。

 ・彼は死んだ後でお棺に手紙を入れてもらって、家族に内緒のまま一緒に灰になりました。

  次の記事も、インタビューに答えた氏の話です。

 ・中国戦線で上官に、「始末しろ」と言われ、5才の子供を撃ち殺した兵士。共産党員をより分けて、皆殺しにした兵士。

 ・そうした秘密を聞き出すことは、「取材者も、そのつらさを一緒に背負い込むことになるのだ。」と言う。

 ・話を聞いて地下鉄で帰る際、自分の体と意識が遊離しそうになったことがある。消耗します。聞き書きというのは、本当に応分の構えがないとやれないんですよ。

 保坂氏と共同通信社が紹介している兵士の告白は、作り話でなく事実だと思います。戦争時の異常で深刻な出来事ばかりですが、「ねこ庭」はどの話にも心を動かされませんでした。

 文筆を仕事にしている氏と共同通信社ですから、文章がまずい訳がありません。書いている当事者に何か足りないものがあるのか、胸に響くものがありません。主観の問題なのか、「ねこ庭」の先入観がそうさせるのか。

 次回は過去記事の中から、「ねこ庭」が読後に涙を拭った兵士の手紙を一通紹介します。単なる主観の問題か、「ねこ庭」の先入観が邪魔をしているのか、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に比較して読んで頂けたらと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 9 ( 保阪正康氏の意見 )

2025-01-17 10:20:49 | 徒然の記

     令和6年12月16日 「特攻で戦死の兄忘れられず」 上原登志江さん

  令和7年  1月  1日 「新しい平和論を」 ノンフィクション作家・保阪正康さん

  令和7年  1月  1日 「新春経済アンケート」 千葉県経済界トップ29名へのアンケート

  令和7年  1月  1日 「県選出国会議員に聞く」 衆議院議員23名へのアンケート  

  令和7年  1月  1日 「県選出国会議員に聞く」 参議院議員11名へのアンケート 

  令和7年  1月  3日 「大連立  選択肢ある」「首相や公明党が言及」 

  令和7年  1月  3日 「トランプ旋風再び」「どうなる世界」 

 ・8件の記事をどこまで紹介できるのか、やってみなければ分かりません。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、無用と判明次第切り上げようと思います。

 シリーズを書き始めた1月13日に上記のように書いて、1番目の記事の検討だけで8回を費やしました。反日リベラルの石破内閣が今も続き、立憲民主党の野田氏が「自民党を政権から引き摺り下ろす」と息巻いています。

 自由民主党内の保守議員は何をしているのか、マスコミがさっぱり動きを伝えません。過激なトランプ氏の大統領就任が迫っているというのに、「少数与党である自民党は、野党の意見をよく聞かねばなりません」と、ねばねばの石破氏が相変わらず寝言を言っています。

 この国難の時に、「大連立  選択肢ある」「首相や公明党が言及」などという愚かしい記事の検討作業を続ける気持がなくなりました。 

 ここで止めてもいいのですが、ノンフィクション作家保阪正康氏については、客観的な検討作業をしてみたい気持があります。保守のような意見を言うかと思えば、反日左翼の主張をするので、昔から好感を覚えられない人物の一人で、名前を聞くだけで不愉快になっていました。

 「恨みと憎しみ」のない事実の整理をした、賀屋興宣氏に出会う前の話です。

 「戦前戦後の日本史の大河」をみた自分が、どれだけ冷静に氏の意見を読めるようになったのか。感情的批判の自分を卒業できたか、それが知りたくなりました。

 1月1日、千葉日報新聞の12面全部を氏の意見が占めています。共同通信社の配信記事ですが、よほど同社に気に入られているらしく、氏の写真が紙面の約半分を飾っています。

 大きな活字の見出しが、氏の意見をPRしています。

 「戦後80年の年頭に」「ノンフィクション作家  保阪正康さん」

 「新しい 平和論を 」「日本の特異性を考え抜く」

 「人間を粗末にした国が、なぜ今ある姿になっているのか」

 「ねこ庭」が検討作業の物差しに使うのは、敗戦後の日本を属国にした「アメリカの三段階の関与 ( 日本弱体化計画 ) 」をどこまで認識しているのか。

 この一点です。

 残りの記事の検討を止めましたので、腰を据えて作業にかかれます。先ず紹介するのは、大きな写真の下に書かれている氏の経歴です。

 〈 ほさか・まさやす 〉

  ・1939 ( 昭和14 ) 年札幌市生まれ 同志社大卒 広告会社を経て出版社に勤務

  ・72 ( 昭和47 ) 年にノンフィクション『死なう団事件』で作家デビュー

  ・昭和を生きた政治家、官僚、兵士らへの聞き書きや、終戦時に米国や旧ソ連に押収された資料を調査し、昭和史の実証的な研究を進めた。

  ・著作は『東條英機と天皇の時代』、『昭和陸軍の研究』、『ナショナリズムの研究』( 2017年度 和辻哲郎文化賞 ) など多数

  ・「昭和史を語り継ぐ会」を主宰  一連の昭和史研究で04 ( 平成16 ) 年に菊池寛賞を受賞

 氏の写真の背景には、青空と海と砂浜が映っていて、説明文があります。

  ・北海道八雲町を訪れた保阪正康さん

  ・自宅から3キロほどの距離を歩き、父親とよく海水浴に来ていたという

 縦長の写真を飾るように、先に紹介した記事の見出しが額縁みたいに書かれています。

  「人間を粗末にした国が、なぜ今ある姿になっているのか」

 検討作業を進めるまでもなく、この言葉だけで氏への嫌悪感が走ります。日本の過去を真面目に調べた人間なら、このような言葉を使いません。「人間を粗末にした国」と言う言葉で日本の過去を語るのは、「東京裁判史観」を持っている馬鹿者の意見だからです。

 しかし早まるなと、「ねこ庭」の中にいる冷静な心が戒めます。記事を読まないうちから批判するのでは、成長した自分がいないことになるので困ります。

 記事の書き出しの6行を、転記しながら読んでいきます。

 ・1945年の敗戦から80年となる年が明けた。

 ・世界各地で戦争や紛争が続く中で、私たちは遠ざかる大戦の記憶をどうつなぎとめ、そのリアルを伝承すべきなのか。

 ・4000人以上の戦争体験者から聞き書きをして、現代史を実証的に描いてきたノンフィクション作家の保阪正康さんが、自らの戦後の原点となった北海道八雲町や皇居前を歩き、思索を巡らせた。

 なるほどこれが、共同通信社の今年の記事配信方針だったと言うことです。6行で同社の今年の情報操作計画が見えてくるのでは、検討作業への意気込みが削がれます。これでは本日の計画もフイになりそうで、困ります。

 息子たちと「ねこ庭」を訪問された方々は気づかれたと思いますが、保坂氏の記事と上原登志江さんの記事が同じ共同通信社のもので、しかも大きな扱いで全国配信されていること。

 保坂氏が聞き書きした4000人以上の戦争体験者の中に、上原登志江さんが含まれていると知りますと、保坂氏の意見を検討する前に、共同通信社の情報操作の意図の方が見えます。

 そうなると今回のテーマは、「保阪正康氏の意見」であると同時に、「共同通信社の意図」になります。学徒の作業を邪魔されましたが、せっかく記事の6行を紹介したばかりなので、次回もこのまま作業を続けることにします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 8 ( 上原登志江さんの平和活動 )

2025-01-16 14:12:15 | 徒然の記

   1.  共同通信社の記事配信先    2.  上原登志江さんの平和活動

 上原登志江さんは一般的に言われる有名人でないため、ウィキペディアで経歴を探しても出てきません。

 令和6年12月16日の千葉日報新聞で、「特攻で戦死の兄忘れられず」と語っていた登志江さんの写真を見た時、普通の主婦の方なのだろう思っていました。

 しかし特攻隊員として亡くなった上原良司氏が多くの新聞で取り上げられ、登志江さんの言葉と写真が掲載されているのを見て、どのような人なのかが知りたくなりました。

 令和5年記事で、断片的に語られる登志江さんの情報を集めてみました。

  ・登志江さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの、3男2女の次女として生まれた。

  ・登志江(93)さんは、長男の良春さん、次男の龍男さん、三男の良司さんに長女の清子さんの5人兄弟の末っ子である。

  ・三人の兄は戦死し、現在生きているのは姉の清子さんと登志江さんの二人だけである。登志江さんは結婚している。

  ・この時代の家庭には珍しく、上原家には膨大な量のスナップ写真が残っている。たとえば中国に軍医として出征していた父の寅太郎さんに送るため昭和13年春、安曇野で撮られた写真帳など。

  ・こうした写真群からは、豊かで幸福だった家族の生活が伝わってくる。

  ・兄良司さんは、「自由主義者」を自認しながら航空特攻で戦死。

  ・戦没者の遺稿集『きけ わだつみの声』に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた

  ・しかし良司さんが家族に、「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。

 記事からも推察されますが、登志江さんはいわゆる左翼系の平和活動家でなく、有名になった兄良司さんの妹として注目されていたようです。

 良司さんの母校慶應大学にある二つの組織や、中央大学全学連携教育機構とのつながりも、ここから生まれているようです。登志江さんが自ら近づいたというより、当該団体の関係者が、平和の「語り部」としての彼女を重要視したのではないかと思われます。

 説明するとまた長くなりますので、3つの組織の紹介は省略しますが、いずれの組織も教授と学生が主体で、戦争の事実を調査検証し、今後の平和活動に生かそうと研究しています。
 
 中央大学全学連携教育機構に対して登志江さんは、彼らの研究の場所として自宅を開放し、兄たちが残している膨大な遺品類  ( 日記、ノート、アルバム、出版物、収集品等 ) を披露しています。
 
 登志江さんは座談会に参加したり、展示会に遺品を寄贈したりする中で、「死んでも靖国には行かない」という良司氏の言葉を話したのではないかと推察します。
 
 平和活動家の教授が注目し、マスコミが大きく取り上げ、瞬く間に良司氏が再度有名になったのではないでしょうか。結果として、左翼系マスコミの筆頭である共同通信社の平和宣伝に使われています。
 
 亡くなった兄の言葉を世間に広めることが、戦争を無くすことにつながるのならと、おそらく登志江さんは善意の気持ちから、周りに集まってくる人々に協力しているのではないかと思われます。
 
 前回紹介した各社の記事の最後に、( 登志江さんの提供による ) という注釈の書かれていたことが思い出されます。せっかく良司氏が、家族以外に語っていなかった言葉なら、そのまま自分の心に刻んでおけばよかったのに・・・
 
  ・小さな親切、大きな迷惑
 
 申し訳ないことですが、「ねこ庭」からみれば、登志江さんの行為はこのようになる気がしました。「驚きというより、意外感に打たれました」と前回述べたのは、こういう意味です。
 
 「溜まっている千葉日報新聞」の、1 番目の記事の検討が終わりました。次回は2番目の記事です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 7 ( 共同通信社の記事配信先 )

2025-01-16 09:26:04 | 徒然の記

  残っている「びっくりする事実」の報告

 学徒兵上原氏の記事に関し、残っている「びっくりする事実」する事実はあと2つです。長くしないように、簡単に報告します、

  1.  共同通信社の記事配信先    2.  上原登志江さんの平和活動

 1.  については過去記事で何度か取り上げていますので、驚く人はいないと思いますが、似たような記事が全国に拡散される具体例を目にしますと、やはり驚きます。

 千葉日報新聞だけでなく、似た記事を掲載している地方紙は、みんな共同通信社の配信記事を使っています。配信先を再度紹介しますので、どうか改めて驚いてください。

 共同通信社が偏った記事を配信せず、さまざまな意見を全国の地方紙に配信すれば、それだけで世論が変わります。同社の名前はほとんど出ないので、国民の中にはその影響力の大きさを知らない人がまだいます。

 〈 共同通信社との契約加盟社及び加盟社発行新聞 〉

  日本放送協会  北海道新聞  室蘭民報  東奥日報  デーリー東北  秋田魁新報  山形新聞  岩手日報

  河北新報  福島民報  福島民友  下野新聞  茨城新聞 上毛新聞  千葉日報 神奈川新聞 埼玉新聞 

  日本経済新聞  産経新聞  夕刊フジ  毎日新聞  スポーツニッポン  報知新聞  日刊スポーツ  サンケイスポーツ

  東京新聞  東京中日スポーツ  山梨日日新聞  信濃毎日新聞  新潟日報  静岡新聞  中日新聞  中日スポーツ 

  中部経済新聞  伊勢新聞  岐阜新聞  北日本新聞  富山新聞  北國新聞  北陸中日新聞  福井新聞  日刊県民福井

  京都新聞  奈良新聞  神戸新聞  デイリースポーツ  山陽新聞  中國新聞  日本海新聞  山陰中央新報  四國新聞

  愛媛新聞  徳島新聞  高知新聞  西日本新聞  大分合同新聞  宮崎日日新聞  長崎新聞  佐賀新聞  熊本日日新聞

  南日本新聞  沖縄タイムス  琉球新報

〈 共同通信社との契約新聞社発行新聞 〉

 朝日新聞  読売新聞  東京スポーツ  中京スポーツ  大阪スポーツ  紀伊民報  熊野新聞  紀州新聞  山口新聞  九州スポーツ  南海日日新聞  八重山日報

〈 共同通信社との契約民間放送局 〉

 北海道放送  エフエム北海道  東北放送  エフエム仙台  青森放送  青森テレビ  秋田放送  

 秋田テレビ  エフエム秋田  山形放送  さくらんぼテレビジョン  アイビーシー岩手放送  ラジオ福島  

 栃木放送  とちぎテレビ  茨城放送  群馬テレビ  エフエム群馬  千葉テレビ放送  ベイエフエム 

 テレビ神奈川  横浜エフエム放送  テレビ埼玉  エフエムナックファイブ  フジテレビジョン  TBSテレビ 

 ニッポン放送  文化放送  テレビ朝日  テレビ東京  エフエム東京  J-WAVE  東京メトロポリタンテレビジョン

  Inter FM897  日本BS放送  日経ラジオ社  BSよしもと  山梨放送  エフエム富士  信越放送 

 長野エフエム放送  新潟放送  CBCテレビ  東海テレビ放送  東海ラジオ放送  中京テレビ放送  テレビ愛知 

  エフエム愛知  名古屋テレビ放送  ZIP-FM  三重エフエム放送  三重テレビ放送  静岡放送 

  静岡エフエム放送  岐阜放送  北日本放送  富山エフエム放送  北陸放送  テレビ金沢  エフエム石川 

  毎日放送  朝日放送テレビ  朝日放送ラジオ  大阪放送  関西テレビ放送  エフエム大阪  テレビ大阪 

  FM802  京都放送  エフエム京都 び わ湖放送  エフエム滋賀  奈良テレビ放送  和歌山放送 

  テレビ和歌山  ラジオ関西  サンテレビジョン  岡山放送  テレビせとうち  中国放送  広島エフエム放送 

  西日本放送  南海放送  高知放送  RKB毎日放送  九州朝日放送  テレビ西日本  福岡放送  TVQ九州放送 

  エフエム福岡  ラブエフエム国際放送  CROSS FM  エフエム大分  テレビ宮崎  エフエム長崎  エフエム熊本 

  南日本放送  鹿児島テレビ放送  エフエム鹿児島  琉球放送  エフエム沖縄  ラジオ沖縄  琉球朝日放送

 地域別に分類すれば分かりやすくなるのですが、数が多すぎて手が回りません。「ねこ庭」が応援している千葉日報社を、茶色表示にしました。

 配信先の紹介は、物好きでしているのではありません。共同通信社の記事が、全国の新聞社・放送局に日々配信されている事実の重さ、というより、その威力を知って欲しいからです。

 同社が「憲法改正は急ぐ必要なし、改憲の民意は高くありません」と記事を配信すると、どれだけの国民へ影響力を行使できるかということです。

 同社と同じような反日・左傾の報道をするのが、「トロイの木馬」の優等生であるNHKと朝日新聞です。「終戦の日」のお祭り報道を見ると分かりますが、マスコミ各社は互いに協力し、同時期に一斉報道をすることで世論を誘導しています。

 短く終わらせるつもりでしたが、共同通信社の記事配信先が多くてスペースを使ってしまいました。過去記事の再転記ですが、訪問された方々に驚いて貰えばそれで今回のシリーズの目的が達成されます。

 次回は残る一つ、2.  上原登志江さんの平和活動です。驚くというより意外感に打たれましたが、訪問された方々がどう感じられるか、好奇心の学徒となった「ねこ庭」です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 6 ( 上原良司氏の扱い ? )

2025-01-15 18:10:44 | 徒然の記

  シリーズの第一回目で「面白い」と言ったのは、ニュースの日付のバラつきでした。学徒兵上原良司氏の記事が、これだけの新聞に異なった日付で報道されている不思議さで、ついこんな言葉を使いました。

    平成22年 5月17日        日本共産党              

  令和5年10月21日        毎日新聞

    令和6年 5月11日          東京新聞デジタル

  令和6年 8月15日         yahoo ニュース      

  令和6年10月24日         北國新聞  京都新聞  佐賀新聞

   令和6年12月3日     北海道新聞デジタル  沖縄タイムス  新潟日報デジタルプラス

   5 日前        山陽新聞

 令和6年12月16日        千葉日報

 一番早い記事は日本共産党の平成22年5月で、次に毎日新聞が取り上げたのは10年後でした。翌年の令和6年5月から12月にかけて、千葉日報を含む各社が一斉に同じ内容の記事を報じています。

 毎年8月15日の「終戦の日 ( 敗戦の日 ) 」に、 マスコミが一斉に「戦争特集記事」を恒例行事として報道していますが、学徒兵上原氏の記事を一斉に報道する理由が分かりませんでした。

 太平洋戦争末期のフィリピンで、大西中将が特攻隊を創設したのは10月でしたから、この時期に合わせているのは北國新聞と京都新聞と佐賀新聞だけです。

  何の意図で、マスコミ各者は特攻隊上原氏の記事を拡散するのか ?

 答えは、ウィキべディアの解説の中にありました。解説のタイトルと注書きです。    

  「出撃した日本の特攻隊の一覧」 (対艦船特攻)

      (  日本軍の特別攻撃隊のうち、出撃したものの一覧である。)

 出撃した特攻隊の名前と、出撃した機体の名前が、出撃日毎に一覧表になっていました。
 
 〈 特攻隊名 〉
 
   朝日隊  山桜隊   菊水隊  大和隊   敷島隊   彗星隊   若櫻隊 ・・・・
 
 〈 出撃機種名 〉
 
   零戦2   零戦17   彗星1   彗星6    99艦爆5   零戦3   彗星2    99艦爆8 ・・・
 
 兵士が特攻機に乗って出撃した日付が、次のように書かれていました。
 
 〈 出撃日 〉
 
   10月 ・・ 21    25   26  27  28   29   30  
 
   11月      ・・ 1     5    6   7   11   12   13   14  15   18   19   21   24   25   26   27   29
 
   12月 ・・  4   5   6   7   8  10   11   13   14   15   16   17   18  20  21   22   25   26   28   29  30    
 
 何でもない数字の一覧表でなく、日付の数字の一日毎に、隊員たちが艦隊に体当たりし命を落としています。日付を眺めているうちに文字を打つ手が止まり、自然と涙が湧いてきました。
 
 3ヶ月に亘り、これほどの回数を出撃しているのですから、「この悲惨な戦争を再び繰り返すな」と、いずれかの日に合わせて各社が記事を発信していたのかも知れません。
 
 戦争に反対し戦争を否定する気持には、右も左も保守もリベラルもありません。この地球上から消えてしまえと憎む気持に、変わりはありません。だから「ねこ庭」は、マスコミ各社の報道に頭から反対しているのではありません。
 
 疑問を抱くのは、沢山の特攻隊員が尊い命を捧げているのに、なぜ上原良司氏にばかり焦点を当てるのかという点です。
 
 恋人を残して死ぬ運命を悲しみ、国が自分を死刑にしたと氏は批判しましたが、恋人や家族を敵から守るため戦うと覚悟を述べた隊員もいました。
 
  ・「いかなる講和になろうとも、日本民族が、まさに滅びんとする時にあたって、身をもって防いだ若者たちがいたという歴史が残る限り、500年1000年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう。」
 
 大西中将の言葉を信じて、敵艦に体当たりした隊員もいたのですから、様々な隊員の姿を記事にして伝えるのがマスコミの使命でないかと考えます。
 
 以上シリーズの一回目に述べた「びっくりする事実」の一つ、「記事の日付のバラつき」の理由を説明しました。次回は残っている「びっくりする事実」を報告いたしますが、何も驚かなかったと言われる方々は、次回をスルーしてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 5 ( 上原登志江さんの記事 )

2025-01-15 07:46:21 | 徒然の記

  本日は、びっくりする事実が、最初の記事から見つかりましたので楽しみにしていてくださいと予告した、本題に戻ります。  

 言葉の使い方を、幾つになっても間違えます。特攻隊で散華した学徒の話で、「楽しみ」なもののあるはずがありません。もしかするとびっくりする事実も、「ねこ庭」がそう思うだけなのかも知れません。

 共同通信社が登志江さんの顔写真まで掲載して、紙面の4分の1を占める大きな記事を書いているので、真っ先に浮かんだのが、

 ・上原登志江さんという人はどんな人なのだろう、という疑問でした

 ネットで検索しますと、令和6年12月16日 「特攻で戦死の兄忘れられず、上原登志江さん」、と千葉日報新聞に似たような見出しの記事が、似たような時期に、他社も報道しているのを見つけました。

 「ねこ庭」は似た記事の洪水に驚いたのですが、果たして訪問された方々が驚かれるのかどうか、見つけた順番に紹介します。

 毎日新聞   令和5年10月21日
 
  ・「学徒出陣から80年 戦死した上原家3兄弟の真実 次女の証言」
 
  ・ 学徒出陣し、「特攻」で戦死した上原良司さんの妹、くつろぐ良司さんと登志江さん ( 1938年ごろ撮影 )
 
  ・ 特攻出撃前の良司さん(左端 )    ( 登志江さん提供 )
 
東京新聞デジタル        令和6年 5月11日
 
  ・「最後の輝き  <一枚のものがたり>  上原良司  」
 
  ・上原は、大正11年9月長野県七貴 ( ななき ) 村で医師の三男に生まれ、今の安曇野 ( あづみの ) 市で育った。
 
  ・慶應の予科から43年10月に経済学部に進んだが・・・
 yahoo ニュース       令和6年 8月15日
 
  ・「死んでも靖国に行かない」 「特攻兵の兄が遺した言葉 妹に 」
 
  ・学徒出陣し、「特攻」で戦死した上原良司さんの妹、上原家の3兄弟
 
  ・右から良春さん、良司さん(左)と龍男さん ( 登志江さん提供 )
 
 日本共産党               平成22年 5月17日
 
  ・ 「きょうの潮流 」上原良司の故郷、長野県安曇野の風景です。
 
  ・  カメラマンの安島太佳由さんが 、 なにげなく顔を合わせた末の妹・登志江さんに「死んでも靖国へは行かないよ」
 
 北國新聞     令和6年10月24日
 
  ・「特攻初作戦80年、兄忘れられず 94歳妹」
 
  ・上原良司は、敗戦を予見し、自身を「自由主義者」と称した遺書を残したことで知られる。
 
  ・「特攻は死刑みたいなもの」  そう語る妹登志江さん( 94 )
 
 山陽新聞    5 日前
 
  ・「死んでも靖国には行かない」「特攻死した22歳の青年が妹に 」
 
     ・ 特攻戦死した上原良司が、出撃前夜に記した遺書「所感」
 
  ・見習士官時代の上原良司、1944年7月ごろ、 特攻戦死した良司の記憶を語る妹の登志江さん・・
 
 北海道新聞デジタル     令和6年12月3日
 
  ・「死んでも靖国には行かない」「特攻死した22歳の青年が妹へ」
 
  ・特攻戦死した上原良司が、出撃前夜に記した遺書「所感」
 
   ・特攻出撃する前日の良司(右)1945年5月10、特攻戦死した良司の記憶を語る妹の登志江
 
  沖縄タイムス     令和6年12月3日
 
  ・「死んでも靖国には行かない」「特攻死した22歳の青年が妹 へ」
 
  ・ 特攻戦死した上原良司が出撃前夜に記した遺書「所感」
 
  ・ 見習士官時代の上原良司、1944年7月ごろ
 
  新潟日報デジタルプラス     令和6年12月3日
 
   ・「死んでも靖国には行かない」「特攻死した22歳の青年が妹に 」
 
  ・ 特攻戦死した上原良司が出撃前夜に記した遺書「所感」
 
  ・ 見習士官時代の上原良司、1944年7月ごろ、 特攻戦死した良司の記憶を語る妹の登志江さん
 
  京都新聞     令和6年10月24日
 
  ・「 特攻初作戦80年、兄忘れられず 94歳妹」
 
  ・上原良司は、敗戦を予見し、自身を「自由主義者」と称した遺書を残したことで知られる。
 
  ・「特攻は死刑みたいなもの」 そう語る伊萌と登志江さん( 94 )
 
  佐賀新聞     令和6年10月24日
 
  ・「 特攻初作戦80年、兄忘れられず 94歳妹」
 
  ・登志江さん(94)( 千葉県松戸市 ) は、帰省した兄が家族に「さようなら」と3回叫んだ大声が忘れられない。
 
  ・上原は長野県安曇野市(旧有明村)で ・・・
 
 探せばまだありそうですが、スペースをオーバーしたのでこの辺りでやめます。似たというより、同じ記事も何件かあります。「ねこ庭」の発見と意見については、次回に報告いたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 4 ( 4人の読者の声 )

2025-01-14 18:45:58 | 徒然の記

  『きけ  わだつみのこえ』の読者の声

  これは平成30年3月に、「ねこ庭」がネットの情報で見つけた、『きけわだつみのこえ』を読んだ読者の感想文です。

 意見を寄せた人がどんな人物なのか分かりませんが、50年前の学生だった自分と重なるような気がします。 (「ねこ庭」が岩波書店の文庫本『きけわだつみのこえ』を読んだのは、昭和40年頃でした。)

 〈 読者 1   〉

  ・最近は、想像力の乏しい若者が多い。

  ・戦争がいかなる悲劇かをよく考えないで、日本に集団的自衛権の行使を認めるべきだとか、交戦権を認めるべきだとか、核武装するべきだとか、好戦的な主張をする人がいる

  ・それ自体は、今の日本では思想の自由を侵してはならないから、許されることなのだ。残念ながら。

 の人は、「最近の若い人は」と書いていますが、ご本人もおそらく30~40代の若い人である気がします。

 集団的自衛権、交戦権、核武装という言葉に反応して、即座に「好戦的主張」という言葉に結びつけてしまうところが、そっくり岩波書店的思考です。

 〈 読者 2  〉

  ・日本を戦争が出来る国に逆戻りさせたいと考える、思想の自由は認める。

  ・しかしそう主張する前に、『きけわだつみのこえ 』 は読むべきである。

  ・「故・上原良司氏の文章を読めば、戦争になると、国家は個人に対して、どんなにやりたいことがあっても、どんなに大切な家族がいても、死ぬことを強要する、と言うことが分かる筈である。

 読者1 の人も、読者2 の人も分別のある人らしく、憲法が保障する「思想の自由」を尊重しています。「戦争ができる国に逆戻りさせたい」人間は、多くの国民の中にいないのに、岩波書店や朝日新聞の言葉に染まるとこうなります。

 自分たちの意見がGHQが作った「自虐史観」であることに気づいた時、二人の新しい出発になるのではないでしょうか。

 〈 読者 3   〉

  ・22歳にしてこれほど、思想を錬磨した優秀な人材が、何千人も無駄に死なされたのである。

  ・それが戦争である。かかる悲惨が繰り返されて良いとは私には思えない。

  ・上原氏の文章を読んで、なお「戦争をしたい」という人は、気の毒だが知能が低いか、人間の悲しみを理解する感受性が、欠落しているのではないかと思う。

 この人も、岩波書店の優等生で、戦争を繰り返そうとしている国民がほとんどいないのに、好戦的な人間が溢れていると勘違いしています。今何才になられているのか分かりませんが、普通の知能を持つ人なら、「ねこ庭」が現在しているように自分の無知を恥じているのかも知れません。

 〈 読者 4   〉

  ・上原氏の遺書は、何百ページにもわたる『きけわだつみのこえ』の、最初のたった一文だけである。

  ・このあと、延々と、涙なくしては読めない文章が続く。

  ・それでも、戦争をしたいのなら、戦争になったら、まず自分から志願して下さい。と申し上げる。 

 学生時代を思い出しますと、「ねこ庭」も読後には反戦・平和を願う気持に駆られ、亡くなった学生に深く同情しました。自分と同年代の学生たちの遺書だったので、涙無しに読めませんでした。

 息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、4人の方の意見を紹介しているのは、批判や否定のためではありません。反日・リベラルの出版社と大手マスコミが協力すると、どれ程大きな影響を若い人たちに及ぼすかという実例を、自分の経験を踏まえて紹介しています。

 真摯に本を読み、日本の未来を考えているから、4人の方は意見を述べています。このような真面目な人が、その後両論併記の『戦没学生の手記に見る15年戦争』を読んだ時、意見がどのように変化するのか。 

 あるいは「温故知新の読書」で、「戦前戦後の日本史の大河」を自分で眺め、「GHQによる三回の関与 ( 日本弱体化計画  ) 」を知った時、この方たちの意見がどのように変化するのか。

 4人の読者の意見は、言葉遣いは似ていますがどう読んでも過激な反日・左翼の主張ではありません。日本を「恨みと憎しみ」から攻撃しているのでなく、憂国の思いで言葉が発せられている気がします。

 その後知識を得た後での4人の方の思考の変化・・ねこ庭」は、そこに期待と関心を寄せながら、感想文を紹介しました。余計な寄り道だったような気もしますが、自己反省のためにも、記録に残したくなりました。

 次回は、びっくりする事実が、最初の記事から見つかりましたので楽しみにしていてください、と言った本題に戻ります。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

溜まっている千葉日報新聞 - 3 ( 両論あった学徒の意見 )

2025-01-14 08:31:37 | 徒然の記

   共同通信社の、ゆがんだ世論誘導の意図

 過去記事を調べてみますと、8年前の平成29年7月と翌年の3月の2回、上記に関係する検討作業をしていました。

 8年前の検討のきっかけは、わだつみ会編『戦没学生の遺書にみる15年戦争』(昭和38年刊 光文社) を読んだことでした。

 以前、昭和24年出版の『きけわだつみのこえ』を読んでいましたが、内容が微妙に違っていたため、戦没学生の手記を集めた本が、これまでどのように出版されてきたのかを調べてみたのでした。

 1.  『はるかなる山河に』 昭和22年 東京大学協同組合出版部刊 ( 東大生のみの遺書 )

 2.  『きけわだつみのこえ』 昭和24年 東京大学協同組合出版部刊

   この本は、後に岩波書店から文庫本として出され版を重ねています。

 3.  『戦没学生の手記に見る15年戦争』 昭和38年  光文社刊 

   この本は、後に「第2集きけわだつみのこえ」と改題されました。

   1.  の『はるかなる山河に』は非常な反響を呼び、当時のベストセラーになっています。昭和22年に初版本が出ますが、昭和24年には第5版が印刷されていました。

 しかしこの本に対し、東大だけが大学生ではあるまいとの批判が巷からあったため、東大協同組合出版部は、全国の大学生を対象として遺書を広く募集し、昭和24年の『きけわだつみのこえ』として編纂したのだそうです。

 書名の由来につきましては、ネットの説明をそのままに紹介します。

 ・学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名も公募し、応募のあった約2千通の中から、京都府在住の藤谷多喜雄氏のものが採用された。

  ・藤谷氏の応募書名は、 「はてしなきわだつみ」であったが、これに添えた応募用紙に次の短歌が書かれていた。

   嘆けるか怒れるか はた悶せるか 聞け果てしなきわだつみの声

 ・ということで、短歌から「わだつみのこえ」が取られたと言う。

「 わだつみ 」が、今では戦没学生をあらわす言葉のように使われていますけれど、元々の意味は海神 ( わだつみ ) を意味する日本の古語だとのことです。

 学徒の遺書を扱った本の過去を調べる気になったのは、「ねこ庭」が読んだ上記2.と3.の内容が、違っていると感じたためでした。2の『わだつみのこえ』には、日本精神主義的な学生の遺書や、戦争謳歌に近いような遺書がほとんどなかったのに、3の『戦没学生の手記に見る15年戦争』には、日本賛美や肯定の遺書が混じっていたからです。

 ネットの情報によりますと東大協同組合出版部は、昭和24年の編集方針として「平和への訴え」を掲げたため、遺書の言葉が戦後の反戦平和運動のスローガンに利用されたと、述べていました。

 日本がサンフランシスコ条約に調印し、独立するのが昭和26年ですから、『きけわだつみのこえ』が出版された昭和24年当時は、GHQが日本を統治していた時です。

 出版物には当然GHQの検閲 ( プレスコード  ) が入り、戦争を肯定する言葉や米軍の批判は削除されました。掲載された遺書が「反戦、平和」「軍国主義の否定」で編集されても致し方なかったと、今でも言わているGHQの影響力に驚きました。

 実は昭和26年に、サンフランシスコ講和条約を批准し日本が独立した後、戦没学徒の遺族から岩波書店に要望が出されました。要望は次の二点でした。

   1.  GHQの検閲で削除・修正された箇所を、元の文章に戻してもらいたい。

   2.  GHQの検閲のため取り上げられなかった、戦争肯定の手記も取り上げて欲しい。

 しかし話がまとまらず、結局裁判沙汰になったそうです。

 岩波書店は『きけ  わだつみのこえ』を何度も自社で出版していますが、両論併記をした『戦没学生の手記に見る15年戦争』の出版を、断りました。良心的、人道的、平和主義を標榜する岩波書店は、一度決めたら反日・リベラルの主張を捨てない朝日新聞と同じ体質の会社でした。

 結局、昭和38年に、『戦没学生の手記に見る15年戦争』は、光文社がカッパブックとして出版しています。

 同年の『戦没学生の手記に見る15年戦争』の編集に際しては、国家的表現や日本主義的言辞が含まれた手記も、戦争の事実として採録されることとなりました。死を前にして学徒たちがどのように考え、何をしていたのか。右も左も区別せずそのまま掲載し、判断を読者に任せようというのがカッパブックの姿勢でした。

 以上が8年前に検討した内容ですが、特攻に臨んだ学徒の思いは共同通信社の記事のように、「特攻は死刑のようなもの」という批判的な意見ばかりでなかったことが証明されています。

 こうした出来事は報道されませんので、国民には伝わりません。遺族の方々と岩波書店の裁判がどうなったのかは知りませんが、事実が世間に知られていない証拠が、共同通信社のおかしな記事が今になっても国民を惑わせていることになるのではないでしょうか。

 テーマが横道へ逸れますが、マスコミと出版社が協力すると、どのように国民が影響されるかの実例を、『きけ  わだつみのこえ』の読者の声を見つけましたので、次回に紹介します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする