「ハリー・ポッター」シリーズのダニエル・ラドクリフが主演するゴシックホラー。19世紀末のロンドン。愛妻を亡くし、失意のどん底にいた若き弁護士アーサーは、事務所の所長に命じられた仕事のため、ひとり息子をロンドンに残し、とある田舎町に赴く。その町で最近他界した老夫人の遺言状を見つけ出さなければならないアーサーは、老夫人が住んでいた館に足を運ぶ。しかし、沼地に建つ館には異様な雰囲気が漂い、謎めいた黒衣の女がたびたび出没。やがて館の忌まわしい過去と、町の子どもたちが相次いで変死している事実を探り当てたアーサーは、恐るべき呪いの連鎖に巻き込まれていく。(映画。comより)
久々に正統派ゴシックホラーを見ました。お話にヒネリはありません。さすが老舗のハマー・フィルムなだけあって、血や肉が飛ぶことなしに場の雰囲気や気配だけで怖がらせる、という特徴はあるものの、大体予想できるお話ですし、鮮やかなからくりもありません。本当に恨みがなせる技だったのです。
ハリー・ポッター君は優男全開で、妻が恋しくて立ち直れない男を熱演。なかなかハマってます。しかし、落ち込んでばかりいては生活が成り立ちません。幼い息子もいることですし、上司に「これが最後のチャンスだ。これができなかったらクビだ」などと言われ、背水の陣で気色の悪い館へ赴きます。
しかし、本当に薄気味の悪い館でした。そこへ通ずる道は一つしかなく、しかも満潮時、その道は水没するのです。水が引くと渡れます。だから常にジメジメしていて、館の主の幼い息子が沼で溺死したと聞いても「さもありなん」って感じです。
そりゃ他の土地を買って家を建てるとなると、莫大なお金が必要となるから、思い立ってできることではないのでしょうが、なんで引っ越さなかったのかと思いました。先祖代々の土地だったのかなぁ。
ともかく、その女主人の遺書を探し、遺品を整理するために奮闘するダニエル君。
<ここからネタバレ>
その調査の過程で、亡くなった7歳の息子は実は女主人の子ではなく、その妹の子であったこと、またその妹は精神鑑定を受けていたため、愛しい息子を取り上げられたこと、そして姉が思うように会わせてくれなかったことを恨んでいたこと、などがわかってきます。
そして、沼に車輪を取られて溺れたとき、姉だけ助かって息子が溺死したことで「息子は見殺しにされた」と恨みmaxになっていたこと、「絶対に許さない」と記して自分も姉の死後、首を吊って自殺していたこともわかります。
そして、村人が口にしてた通り、その黒衣の女の姿を見ると子供が一人、また一人と彼女に導かれるようにして死んでゆくのです。それはダニエルが来る前から起きていたことなのですが、彼が再び館を開け放ったことで、また頻繁に起こるようになります。
ホラー映画って、いつもそうなのですが、まったく関係のない人まで巻き込みますよね。もっとも最近では「スペル」とか、全然悪いことしてない人まで平気で巻き込む傾向ってありますよね。これって、本当にそんなものなんでしょうか。自分が思うに、多分恨みを持って死んでも、その恨みのある人に復讐することはあっても、関係ない人に手は出さないと思うんですけど・・・。
ともかく、「次は自分の息子かも」と思ったダニエル君、俄然強くなります。なんとか彼女の恨みの元を断とうと、沼に少年の遺体を捜しに潜ります(!)。そしてすぐに「足元になにか感じる。あるぞ」とか言って、車(多分馬車)ごと引っ張り上げます。そして、協力してくれている町の富豪と一緒に泥だらけの少年の遺体を上げるのです。
こんな浅いところにあったのなら、なんでちゃんと捜して埋葬しなかったのでしょう。ずっと「遺体はあがってない」って言われ続けていたのに。女主人もさ!自分の子として育てていたのなら!
そして、館で少年の遺体と黒衣の女性(妹ね)を引き合わせたダニエル君、彼女と同じお館に少年を埋葬し、一件落着。もうこりごりだったダニエル君は、せっかく会いに来てくれた息子とも現地で過ごさずに、すぐにロンドンに連れて帰ることにします。なんだか安心しちゃってるダニエル君は、富豪と談笑したりしています。
でも、ここで終わらないことは、うすうすわかります。日本の「リング」を思い出して下さい。かの主人公たちも、「これで霊は成仏した」な~んて、生きてるものの思いこみに過ぎないんだ、ってことを証明してましたよね。
その通りなんです。彼女は、まだそこにいます。
そして、最終的には・・・息子共々、助けに入ったダニエル君も連れて行ってしまいます。
でもね、その先で、彼は愛しい妻に再開します。母の顔を知らない(出産で死亡したため)息子は「パパ、あれはだあれ?」と問います。パパは「君のお母さんだよ」と言って、3人、手をつないで同じ方向に歩いてゆくのです。ダニエル君の幸せそうな笑み。the end.
これは私の持論なのですが、「私の中のあなた」でも、アビゲイル・ブレスリンが病気の姉に「わかるようにして待っててね」というと「わかった。○○の看板のそばにいるね」と言う意味の答えをしていたように、向こうで愛しい人に再会できて、みんなで一緒に暮らせるのなら、死ぬこともそう悪いことではないと思うのです。もちろんこんな考え、間違っているかもしれません。ただ私が個人的にそう思っているだけですから。
でも、そういう意味では、怖いだけの映画ではなかったように思います。
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